津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

京都大原三千院・・・

2007-10-14 18:17:13 | 徒然
 私達が結婚した昭和42年当時、ディユークエイセスの「京都大原三千院・・」という歌詞の歌が流行っていた。二番は「栂野高山寺」、三番は「嵐山大覚寺」である。そこで半ば強引にだが、二人してその地を訪ねた。あの歌は「女ひとり」というのが題名で、後で知った事だがどうも失恋の歌らしい。「恋につかれた女がひとり・・・」という歌詞があるが、私は「恋に憑かれた」と思い込んでいたのだが、「疲れた」が正解だった。ちょうど40年前のことである。カメラがトラブッて、写真が一枚も残っていないのがご愛嬌だ。ルビー婚の今年だが、奥方は「ルビーは好きでない」らしい。よかった・・・
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清田石見という人

2007-10-14 10:19:42 | 歴史
 「米田家臣中山宗俊覚書」にあった、幽齋女・伊也(吉田左兵衛尉侍従卜部兼治・室)の末娘が、清田石見に嫁いでいたという事は、初めて知って驚きであった。「於豊前小倉御侍帳」は「頭衆」として「二千五百石・源・清田七助乗栄 大阪鑓下高名後石見 父主計鎮乗 大友家」と紹介している。忠興はその働き振りを「鑓つき申候者共、一番ニ七助」をあげ「七助鑓ハさきをつきまげ申候」と称え、後日「御饗応、御褒美被下候」と綿孝輯録は記している。祖は清田掃部鎮忠、その妻は大友宗麟女ジェスタ(元・一条兼定室)とされる。詳細を知りえないが、ジェスタは長崎で殉教したと伝えられる。父の主計鎮乗・入道寿(素)閑の代に細川家に仕官した。その娘・幾知(圓通院)は忠興四男立孝(宇土細川家祖)、五男興孝(刑部家祖)の生母である。七助・幾知の母親は元切支丹信者で勤談跡覧によると、寛永十三年改宗した(転切支丹)とされ、その後の宗門を改める為、詳細な系図が認められ残されている。石見は島原一揆にも出陣したが、流れ矢にあたり負傷した。(ご厚誼いただいている沢村家の資料に、二月二十七日手負いした事について証言を求める六月五日付け、ローマ字が押された石見の文書が残されている) また傷を癒す為の温泉療養を願う資料なども散見される(*細川家文書・御印之物、寛永十八年二月) 後知行地に在宅し病死している。嫡子外記は病身の故を以って家督は次弟主馬に譲り帰農した。主馬室は沼田延之女・国、二男は沼田延春の養子となった(元春)。石見家は先祖付けによると、主馬乗治--石見弟(寿閑四男)左近右衛門--主馬の子・源左衛門と引き継がれた。

 石見の次弟・与三右衛門は、忠興により細川刑部の目付けを仰せ付けられ、後代々刑部家家臣である。姉・幾知の子・刑部の面倒を見たという事である。

 石見の伯父(父鎮乗兄)五郎太夫は中津や八代に於いて、忠興の側近として働いた。ご子孫のお宅(富合町釈迦堂にある)に「ふるさと生活資料館」が平成十七年開設され、諸資料が公開されている。
コメント (5)
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