津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

セピア色の切り抜き

2007-10-24 22:33:01 | 歴史
 資料を整理していたら随分古い新聞の切り抜き数枚が出てきた。セピア色に変色したこの切抜きは「肥後六花」にかんする記事で、「新風土記」の206から215までである。文は卜部良彦、挿絵はなんと浜田知明である。記事の外回りを約3㎜ほどの位置でカットしているから日付けが確認できない。うらにある記事をたどっていくと、「昭和50年の予算に対する各省庁の概算要求が・・云々」というものや、「大平蔵相の就任後初の所信表明演説」などの記事がみえる。昭和49年の夏頃から年末にかけての記事らしい。考えてみると私は、この時分から些かなりの歴史に対する興味を持っていたらしい。
 1、肥後の朝明け
 2、キンキラキン
 3、花連小史
 4、花とモッコス
 5、くだり花
 6、満月会
 7、陰陽五行
 8、足曳き
 9、牽牛子
10、植木屋文助
11、五月の雨
12、喜見城      

 こんな題がつけられて、肥後六花について書かれている。近い内にタイピングして皆様にご紹介したいと思っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

細川家家臣・佐久間氏

2007-10-24 20:11:50 | 歴史
 「先祖附」が残る佐久間家は一軒しかない。しかし史料を細かく分析すると二流の佐久間氏があった事が覗える。その祖は一つに繋がっている。一つは加藤家家臣であった、佐久間氏、加藤家侍帳に「並河志摩守与力・佐久間角介五百石」という記載がみえる。熊本県史に清正判物二点が紹介されていて、宛名は佐久間角助正頼とある。この正頼は県史解題には「佐久間勝之の弟」とある。加藤清正亡き後はどうなったのだろうか。
「細川家文書・御印之物」に興味ある記事がある。「有馬にて討死仕候牢人衆妻子ニ被下候御扶持方の事」という文書であるが、大西弥左衛門・柴田吉左衛門・佐久間角助の三人の名がある。「七人扶持方 佐久間角助跡 同人娘女子一人 同人娘 同人姉」とあるこの文書の日付けは寛永十五年五月十五日であり、有吉頼母佐の署名があり、細川忠利のローマ字印が押印されている。各種侍帳での佐久間角助がはじめて確認されるのは「寛文四年六月・御侍帳」の、長岡帯刀組七人扶持二十石の角助である。有馬で亡くなった角助には娘が残されたが、養子を迎えたのであろうか。この家は後年、百五十石取りの家となり、郡代を務めたりしている。

 今一つは、佐久間半丞と言う人が個人名で侍帳に登場している。佐久間玄蕃盛政の子孫とあり、寛永二十一年正月に光尚に召し出され百二十人扶持、後三千石の大身になっている。熊本県史解題によると佐久間盛政の弟・角助正頼の子とされる。七兵衛、平左衛門、尉右衛門などの名が見え、夫々が千石を宛がわれており、子、孫、曾孫であろうと思われる。平左衛門室は坂崎成政女、尉右衛門は養子であり沢村大学友雅の三男である。この家は以降その動向が見えない。絶家したのであろうか。

 ともあれこの二家は佐久間信盛・勝之兄弟の弟正頼がその祖であることが、各種文書から判断できる。しかしながら二家は随分その運命を異にしている。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

押し葉

2007-10-24 12:04:19 | 徒然
 「現代用語の基礎知識」を追うように発刊された「知恵蔵」や「イミダス」が共に廃刊となったようだ。私は「イミダス」を四・五年購入したが、嵩が大きいので総て処分してしまった。付録の「新・漢字用例辞典」とか「外来語・略語辞典」などが残骸として残った。私はあちこちにお手紙する時は、つとめて手書きする事にしているので、辞典がどうしても手許に必要になる。国語辞典が書類の山にまぎれて見つからない。ふと「漢字用例辞典」が目にとまり、ぱらぱらめくると、六七枚のもみじの「押し葉」がでてきた。もう三十年程前、大叔母の家にあつたもみじの盆栽が、その大叔母の東京への転居の際我が家に持ち込まれた。五六本の寄植えであったが、管理が面倒で地植えにした。十年ほどしたら枝ぶりのよい緑豊かな庭木に成長した。私たちも転居したが、さぞかし大きな木になっていることだろう。そのもみじの「押し葉」である。真っ赤な紅葉を楽しみ、しばらくすると落ち葉がかさかさと風と遊ぶ様がなんとも豊かな風情だった。崩れ落ちそうな「押し葉」の為に本を閉じ、書類の山から国語辞典を引っ張り出した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする