津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

先主を考える-19 豊臣秀頼

2007-10-04 22:01:58 | 歴史
 秀頼の家臣に竹田永翁という人がいた。佐久間勝之に討たれたとか、大阪城内で自刃したとかいろいろ説があるようだが、先に紹介した田中意徳の祖母お菊が書き伝えた「阿菊物語」に、その竹田永翁の動向が伺える。自刃が本当だろう。さてこの永翁、安芸武田氏の流れである。父親は武田梅松軒、母親は沼田光長女である。松井康之室も光長女、故に梅松軒と康之は合壻である。秀次事件で細川忠興の身に危険が及んだ時、永翁の配慮で情報を得危険を回避した事があった。そのような関係で、大阪城落城後竹田家永翁の長兄・定勝が松井家に、末弟半左衛門が細川家に仕官した。
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小人閑居為不善

2007-10-04 14:46:14 | 徒然
 先日図書館に出かけた折、エントランス前木立の広場で女性から声を掛けられた。「■■さんでいらっしゃいますか」お見かけしない顔である。「はい」と返事をすると、「多分■■さんではないかと主人が言いまして」と近くのベンチを指差される。そのベンチに腰を下ろしている男性は向こうから手招きしている。「Tだよ」と声を掛けてきた。そうだTだと気づいたが、その面やつれに驚いてしまった。挨拶を交わす間もなく「癌だ、もう後がない」と話し出した。公務員になり定年後ぶらぶらしていたという。出世を望んだが思い通りに行かなかったと首を振る。どうもライバルに水を明けられた事が彼の自尊心を傷つけたらしい。「それでぶらぶらしていたらこの様だ、小人閑居して不善を為すというやつだな」と自嘲気味に笑う。名刺が欲しいというので手渡し、10分余り話し込んで分かれた。
 昨日のことメールが入った。「良くやるなーお前・・」とあり「俺もブログでも始めようかと思っている」と有った。「やれやれ、閑居どころの話ではなくなるぞ」と返事をした。
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旧主を考える-18 京極氏→立花氏 (肝煎-2)

2007-10-04 08:53:54 | 歴史
 細川家家臣寺田源右衛門(青地久右衛門)は、京極丹後守臣→立花家をへて、旗本・能勢小十郎肝煎にて正保2年(1645)細川家に仕えた。祖母加賀はガラシャ夫人付老女を務めた。
 京極丹後とは高知のことであろうか。細川家が豊前に移ったあとの丹後国宮津123,000石領主となり田邊城に入った。寺田氏(2,000石)が、京極家を離れたのが何時の頃の事か分からないが、丹後宮津の京極家は後断絶する。
 立花家は九州立花城主(柳川)であったが、関が原の陣で西軍についたため所領を没収され、大阪の陣では東軍につきその軍功により、九州柳川の田中吉政家没落に伴い旧領柳川に帰り明治にいたる。所領没収から20年を経過していた。所領没収の際には、肥後加藤氏がその家臣を預かり、熊本城下にはその住居地が柳川丁という名を残している。立花宗茂夫人闇千代も清正の庇護を受け、肥後領内で生涯を過ごした。又宗茂の弟の三池藩立花家もあり、寺田氏(200石)の立花家仕官も判然としない。
 細川家仕官への肝煎り役を務めた能勢氏について、先祖附は「旗本」と記している。摂津能勢に陣屋を構えた能勢氏のことであろう。
 それぞれ、どういう経緯があってのことか窺い知る事は出来ないが、大変興味深い就職活動である。
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