津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

中山宗俊覚書

2007-10-13 20:22:18 | 歴史
 細川家家老米田家の重臣が書き残した覚書、幽齋公、ガラシャ夫人及び長岡肥後誅伐事件などが書かれている。幽齋公家系については、特に娘の一色義有後室(伊与)についての記載が興味深い。男子(幸能)が一人あり、忠興による義有誅伐のあと愛宕山福寿院に入った。ここに面白い事が書かれている。義有後室は笹(篠)原五左衛門という人に嫁したというのである。この人こそ飯川豊前すなわち長岡肥後の父親である。もっとも虚説であろうとしているが・・・。正式には吉田兼治に再嫁し八人の子をなし、一人は兼治家督兼英、一人は豊国大明神神主・萩原兼従、末子は幅寿院に入り幸賢法下、義兄幸能法下の跡を継いだ。女子は長塚正家男田中半左衛門室、阿野中納言室、船橋従三位秀相室、小笠原備前長元室、そして吃驚したのは清田石見に嫁がれた方が居られた事であった。
 長岡肥後誅伐事件については詳細を極めるが、綿孝輯録等で承知するものとさして違いは見受けられない。只その原因らしき事として、父飯河豊前が石田三成と「別して念比」で石田方へ密通していたのではないかとの記述が目新しい。仮にそうだとすると、親子揃って誅伐という措置に納得させられる。
 詳しくご報告するには訓下が進まずしばらくのご猶予を・・・
コメント (3)
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