津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

豊臣秀頼のお姫様

2007-10-26 13:18:03 | 歴史
 熊本城の西、JR鹿児島本線を越した地域が島崎地区で、藩政時代はご大身の下屋敷や別荘などがあった場所である。大きな一本道が山付に行き当たると「団子坂」に至り、かっての金峰山の登山口から、険しい鎌研坂へとつながっている。この「団子坂」はかっては「丹後坂」と言っていたらしい。団子坂の坂道を数百メートル登ると右側に、「西の武蔵塚」と呼ばれる一帯がある。武蔵をはじめ、二天一流の継承者寺尾家代々のお墓が並んでいる。その隣には廃寺となった霊樹院跡がある。細川家家老有吉家のお墓が並ぶが、この霊樹院の名は有吉英貴室に由来している。霊樹院(古屋姫)は三渕好重(細川幽齋・末弟)の娘とされるが、実はこの古屋姫は豊臣秀頼の娘であるとも伝えられている。いささか胡散臭い話しだが、忠興の養女として好重の室となったという。あちこちを散策したり掃苔したりしていると、いろいろ面白い事に出くわすが、このことも一級品の話しではある。
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宇治のお茶

2007-10-25 14:10:47 | 歴史
 細川家家臣上林氏のご子孫が判明した。田辺城籠城衆上林助兵衛のご子孫である。資料を送ったり頂戴したりの交流が始まった。そんな矢先「細川家文書・御判之物」を眺めていたら、次のような文書に出っくわした。

      宇治より市左衛門と申者罷下当町に有付居申候、
     彼もの茶ゑんの儀能存候間、上林甚介請合仕御茶
     ゑん仕立可申由申上候、左様二御座候ハハ御礼申
     上度由申間被得御諚可被仰候、以上
       二月三日   浅山清右衛門(花押)
                西郡刑部少輔(花押)
        飯田才右衛門殿

 この文書は前後にある文書から、寛永九年頃のものであろうと考えられるが、ここに出てくる上林甚介は上林助兵衛の息であろう。

 我がサイトの「侍帳」を眺めていて木村半平家の侍帳に目が止まった。木村家の祖とされているのは上林加賀守である。「武家家伝」にも登場している。細川家召出しは寛文五年とされるが、寛文四年・侍帳にすでに記載が見える。二代目半平は宇治代官上林某の家から養子として入りのち家老を務めた。三代目も養子で細川新田支藩二代利昌の男豊章である。ここで注目したのは、家祖が上林加賀守、下って細川家家臣木村家ニ代が宇治の代官上林氏の出であることである。「武家家伝-上林氏」を見ると意外な事実に遭遇した。宇治地方でお茶の栽培管理に当たっていたと言うのである。遡ればご先祖様はご一緒ではないのかという、素朴な疑問が湧いてくる。
上林甚介が熊本において、お茶の栽培に携わろうとするのは、全く関係ないとはいえそうにないではないか。今後の課題ではあるが、なかなか面白い。

偶然の発見だが、こんな事があるからわが「歴史探訪」は段々深みにはまっていく。止められない・・・・
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明治九年十月二十四日

2007-10-25 09:09:54 | 歴史
 石光真清の「城下の人」によると、明治九年十月二十四日は寒い風の吹く日であったという。夜中に起きた一騒動の詳細を、幼い真清は翌日知ることと成る。いわゆる「神風連の乱」である。そんな祈念すべき十月二十四日、神風連の顕彰に尽力した荒木精之氏の生誕百年祭が県の護国神社で行われた。又、昨日の熊本日日新聞は「言葉のゆりかご」の欄で、作家小山寛二の母親の実家奥田家のことに触れている。奥田家には男子がなく長女(小山伯母)に婿養子を迎えていた。敬神の志深い人で、当然神風連の挙に参画するものと思われたが、出奔してしまった。その夫の行為を恥じて彼女は自害して果てるのである。この話は小山寛二の小文「哀傷の碑-神風連の女達」によっているが、この文章を読むと奥田家の出自は懐良親王を奉じた南朝方の子孫であると言う。林桜園とのつながりを以って、一党と行動をともにするという黙契があったのではないかと、小山は記している。地元新聞のささやかな一文の掲載をしても、「神風連の挙」は忘却の彼方にある。奥田家のこのような悲しい出来事も、ただただ関係者の胸の内に残るだけだろうか。この文章を書いているこの時間にも、再起を思い山中をさまよい、またそのことの不可能なる事を思い自らの命を絶った人たちが居られたのだろう。小山寛二は最期にいう「かにかくに、わが火の国の神風連は、限りなく悲しい」と。合掌
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セピア色の切り抜き

2007-10-24 22:33:01 | 歴史
 資料を整理していたら随分古い新聞の切り抜き数枚が出てきた。セピア色に変色したこの切抜きは「肥後六花」にかんする記事で、「新風土記」の206から215までである。文は卜部良彦、挿絵はなんと浜田知明である。記事の外回りを約3㎜ほどの位置でカットしているから日付けが確認できない。うらにある記事をたどっていくと、「昭和50年の予算に対する各省庁の概算要求が・・云々」というものや、「大平蔵相の就任後初の所信表明演説」などの記事がみえる。昭和49年の夏頃から年末にかけての記事らしい。考えてみると私は、この時分から些かなりの歴史に対する興味を持っていたらしい。
 1、肥後の朝明け
 2、キンキラキン
 3、花連小史
 4、花とモッコス
 5、くだり花
 6、満月会
 7、陰陽五行
 8、足曳き
 9、牽牛子
10、植木屋文助
11、五月の雨
12、喜見城      

 こんな題がつけられて、肥後六花について書かれている。近い内にタイピングして皆様にご紹介したいと思っている。
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細川家家臣・佐久間氏

2007-10-24 20:11:50 | 歴史
 「先祖附」が残る佐久間家は一軒しかない。しかし史料を細かく分析すると二流の佐久間氏があった事が覗える。その祖は一つに繋がっている。一つは加藤家家臣であった、佐久間氏、加藤家侍帳に「並河志摩守与力・佐久間角介五百石」という記載がみえる。熊本県史に清正判物二点が紹介されていて、宛名は佐久間角助正頼とある。この正頼は県史解題には「佐久間勝之の弟」とある。加藤清正亡き後はどうなったのだろうか。
「細川家文書・御印之物」に興味ある記事がある。「有馬にて討死仕候牢人衆妻子ニ被下候御扶持方の事」という文書であるが、大西弥左衛門・柴田吉左衛門・佐久間角助の三人の名がある。「七人扶持方 佐久間角助跡 同人娘女子一人 同人娘 同人姉」とあるこの文書の日付けは寛永十五年五月十五日であり、有吉頼母佐の署名があり、細川忠利のローマ字印が押印されている。各種侍帳での佐久間角助がはじめて確認されるのは「寛文四年六月・御侍帳」の、長岡帯刀組七人扶持二十石の角助である。有馬で亡くなった角助には娘が残されたが、養子を迎えたのであろうか。この家は後年、百五十石取りの家となり、郡代を務めたりしている。

 今一つは、佐久間半丞と言う人が個人名で侍帳に登場している。佐久間玄蕃盛政の子孫とあり、寛永二十一年正月に光尚に召し出され百二十人扶持、後三千石の大身になっている。熊本県史解題によると佐久間盛政の弟・角助正頼の子とされる。七兵衛、平左衛門、尉右衛門などの名が見え、夫々が千石を宛がわれており、子、孫、曾孫であろうと思われる。平左衛門室は坂崎成政女、尉右衛門は養子であり沢村大学友雅の三男である。この家は以降その動向が見えない。絶家したのであろうか。

 ともあれこの二家は佐久間信盛・勝之兄弟の弟正頼がその祖であることが、各種文書から判断できる。しかしながら二家は随分その運命を異にしている。
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押し葉

2007-10-24 12:04:19 | 徒然
 「現代用語の基礎知識」を追うように発刊された「知恵蔵」や「イミダス」が共に廃刊となったようだ。私は「イミダス」を四・五年購入したが、嵩が大きいので総て処分してしまった。付録の「新・漢字用例辞典」とか「外来語・略語辞典」などが残骸として残った。私はあちこちにお手紙する時は、つとめて手書きする事にしているので、辞典がどうしても手許に必要になる。国語辞典が書類の山にまぎれて見つからない。ふと「漢字用例辞典」が目にとまり、ぱらぱらめくると、六七枚のもみじの「押し葉」がでてきた。もう三十年程前、大叔母の家にあつたもみじの盆栽が、その大叔母の東京への転居の際我が家に持ち込まれた。五六本の寄植えであったが、管理が面倒で地植えにした。十年ほどしたら枝ぶりのよい緑豊かな庭木に成長した。私たちも転居したが、さぞかし大きな木になっていることだろう。そのもみじの「押し葉」である。真っ赤な紅葉を楽しみ、しばらくすると落ち葉がかさかさと風と遊ぶ様がなんとも豊かな風情だった。崩れ落ちそうな「押し葉」の為に本を閉じ、書類の山から国語辞典を引っ張り出した。
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先主を考える-番外編

2007-10-23 18:40:00 | 歴史
 加藤家の侍帳を見ていると、改易後この人たちはどういう行動をしたのだろうかと考えてしまう。相当の人たちが細川家に仕官したが、それについてはサイト内に特記している。関が原で西軍についた柳川の立花宗茂は、所領を没収されて家臣たちはちりぢりになったが、一部を清正が預かった。京町にかつては柳川小路という町があり柳川衆が住居した。大きな通り(かっての国道三号線)をはさんだ反対側には宇土小路の町名が残っている。これは小西行長の旧家臣たちが同様住んだ。柳川衆は立花宗茂の柳川帰参が叶うと、全員が帰藩していった。柳川では「戻り衆」と呼ばれたらしい。両町に住まいした人たちがどのような方々であったか知るすべがない。我が家の先祖が眠る西方寺から、すぐのところにある閑静な住宅地である。
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道鬼斎

2007-10-22 16:17:44 | 歴史
 明智光秀謀反の折、いち早く情報を幽齋、忠興の元にもたらしたのが道鬼斎であるが、その正体は詳らかではない。米田家家臣中山宗俊の覚書の中に数行の書き込みがある。「道鬼斎と云者ハ日本両度武者修行仕大勇智謀強情の者尓て候 (米田)求政於振懸り居申候 秀吉公九州御出勢の時分も米田助左衛門是政お付来り豊前彦山あつかひを■持助左衛門是政秀吉公より為御褒美御前■■候 栗柿の入交たる■籠を御出御祝被下候なり」
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愛犬の病

2007-10-22 08:15:29 | 徒然
 耳が遠く、目が悪く、すっかり足が萎えてしまった18歳6ヶ月の我が家の愛犬は最近変な病(?)に取り付かれて困っている。最近はまったく吠えることをしない。この夏などは「もう駄目かもしれない」と心配するほど弱ってしまったが、気温が下がるにしたがって元気を取り戻した。そして変な病(?)に取り付かれている。頭が入るくらいの隙間があるとそこに入り込んで行く。度々の事だ。空調の室外機の隙間や、犬小屋と塀とのわずかな隙間や、昨日は塀際のもみじの木との隙間に入り込み身動きができなくなって、悲しそうな鳴き声を上げて助けを呼ぶ。もう一年以上激しく鳴くことはなく、歳を感じさせるが、最近鳴き声を上げる時は100%この病の為である。足が萎えていて踏ん張りが利かず、バックしたりする事が出来ないのだ。あわてて助け出すと、「本当に申し訳ありません」とばかりに、うなだれて動こうともしない。萎えた足のせいで、犬小屋に入れなくなってから久しい。雨掛りのない場所に古い毛布を持ち出して寝場所を作ってみたが、さて何処で寝ているのやらつかめないでいる。満20歳まであと1年半、元気で過ごして欲しいと、大事な家族の一員の健康を願うばかりである。真夜中に起こされて、二度寝して、今朝ほどは寝過ごしてしまった。
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「新・肥後細川藩侍帳」を考える

2007-10-21 12:36:08 | 歴史
 侍帳の編集で悩んでいる。未だにお名前の正式な「読み」が分からないお宅が沢山ある。また一族数家在るようなお宅をどう並べるべきかとか、本家が判明しないとか数えたらきりがない。全体の数を把握する為に通し番号を入れようと思うが、次々と新しい情報が入り発展途上にあり、これも中々の難問である。系図がはっきりしているところはこれも入れたいし、確実な情報は添付資料で補いたいと思うし・・・やらなければならないことが限りなくある。先祖附の読み込みもまだまだ足りないし、有禄士族基本帳への連結も考えなければならない。そして総てを一度プリンターで打ち出してみるのが夢なのだが・・・あと三四年は懸かりそうだ。
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