津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

押し葉

2007-10-24 12:04:19 | 徒然
 「現代用語の基礎知識」を追うように発刊された「知恵蔵」や「イミダス」が共に廃刊となったようだ。私は「イミダス」を四・五年購入したが、嵩が大きいので総て処分してしまった。付録の「新・漢字用例辞典」とか「外来語・略語辞典」などが残骸として残った。私はあちこちにお手紙する時は、つとめて手書きする事にしているので、辞典がどうしても手許に必要になる。国語辞典が書類の山にまぎれて見つからない。ふと「漢字用例辞典」が目にとまり、ぱらぱらめくると、六七枚のもみじの「押し葉」がでてきた。もう三十年程前、大叔母の家にあつたもみじの盆栽が、その大叔母の東京への転居の際我が家に持ち込まれた。五六本の寄植えであったが、管理が面倒で地植えにした。十年ほどしたら枝ぶりのよい緑豊かな庭木に成長した。私たちも転居したが、さぞかし大きな木になっていることだろう。そのもみじの「押し葉」である。真っ赤な紅葉を楽しみ、しばらくすると落ち葉がかさかさと風と遊ぶ様がなんとも豊かな風情だった。崩れ落ちそうな「押し葉」の為に本を閉じ、書類の山から国語辞典を引っ張り出した。
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先主を考える-番外編

2007-10-23 18:40:00 | 歴史
 加藤家の侍帳を見ていると、改易後この人たちはどういう行動をしたのだろうかと考えてしまう。相当の人たちが細川家に仕官したが、それについてはサイト内に特記している。関が原で西軍についた柳川の立花宗茂は、所領を没収されて家臣たちはちりぢりになったが、一部を清正が預かった。京町にかつては柳川小路という町があり柳川衆が住居した。大きな通り(かっての国道三号線)をはさんだ反対側には宇土小路の町名が残っている。これは小西行長の旧家臣たちが同様住んだ。柳川衆は立花宗茂の柳川帰参が叶うと、全員が帰藩していった。柳川では「戻り衆」と呼ばれたらしい。両町に住まいした人たちがどのような方々であったか知るすべがない。我が家の先祖が眠る西方寺から、すぐのところにある閑静な住宅地である。
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道鬼斎

2007-10-22 16:17:44 | 歴史
 明智光秀謀反の折、いち早く情報を幽齋、忠興の元にもたらしたのが道鬼斎であるが、その正体は詳らかではない。米田家家臣中山宗俊の覚書の中に数行の書き込みがある。「道鬼斎と云者ハ日本両度武者修行仕大勇智謀強情の者尓て候 (米田)求政於振懸り居申候 秀吉公九州御出勢の時分も米田助左衛門是政お付来り豊前彦山あつかひを■持助左衛門是政秀吉公より為御褒美御前■■候 栗柿の入交たる■籠を御出御祝被下候なり」
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愛犬の病

2007-10-22 08:15:29 | 徒然
 耳が遠く、目が悪く、すっかり足が萎えてしまった18歳6ヶ月の我が家の愛犬は最近変な病(?)に取り付かれて困っている。最近はまったく吠えることをしない。この夏などは「もう駄目かもしれない」と心配するほど弱ってしまったが、気温が下がるにしたがって元気を取り戻した。そして変な病(?)に取り付かれている。頭が入るくらいの隙間があるとそこに入り込んで行く。度々の事だ。空調の室外機の隙間や、犬小屋と塀とのわずかな隙間や、昨日は塀際のもみじの木との隙間に入り込み身動きができなくなって、悲しそうな鳴き声を上げて助けを呼ぶ。もう一年以上激しく鳴くことはなく、歳を感じさせるが、最近鳴き声を上げる時は100%この病の為である。足が萎えていて踏ん張りが利かず、バックしたりする事が出来ないのだ。あわてて助け出すと、「本当に申し訳ありません」とばかりに、うなだれて動こうともしない。萎えた足のせいで、犬小屋に入れなくなってから久しい。雨掛りのない場所に古い毛布を持ち出して寝場所を作ってみたが、さて何処で寝ているのやらつかめないでいる。満20歳まであと1年半、元気で過ごして欲しいと、大事な家族の一員の健康を願うばかりである。真夜中に起こされて、二度寝して、今朝ほどは寝過ごしてしまった。
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「新・肥後細川藩侍帳」を考える

2007-10-21 12:36:08 | 歴史
 侍帳の編集で悩んでいる。未だにお名前の正式な「読み」が分からないお宅が沢山ある。また一族数家在るようなお宅をどう並べるべきかとか、本家が判明しないとか数えたらきりがない。全体の数を把握する為に通し番号を入れようと思うが、次々と新しい情報が入り発展途上にあり、これも中々の難問である。系図がはっきりしているところはこれも入れたいし、確実な情報は添付資料で補いたいと思うし・・・やらなければならないことが限りなくある。先祖附の読み込みもまだまだ足りないし、有禄士族基本帳への連結も考えなければならない。そして総てを一度プリンターで打ち出してみるのが夢なのだが・・・あと三四年は懸かりそうだ。
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史談会例会

2007-10-20 20:16:54 | 徒然
1、会員福田正秀氏の水野勝之氏との共著「加藤清正『妻子』の研究」発刊にお祝いと絶賛の声。
1、道中記の勉強第二段は、浦賀警備の為に旅立った方々が安政の大地震に遭遇、その模様が克明に記されており、被害の凄さに驚くと共に、月代をそりかけて飛び出した話などに失礼ながら大笑い・・・(M8.5だそうな・・凄い)
1、11月10日はいよいよ「加藤家顕彰シンポジウム」開催、会場の各担当などを決めて、さあいよいよという実感

 肥満解消のために自転車を乗り回しているが、椅子から落下の後遺症があって風を切ってというわけには参らぬ、秋の風を楽しみながら四方の景色に親しみながらのサイクリングで往復1時間。
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虎の頭骨と片鎌槍

2007-10-19 09:57:24 | 歴史
 加藤清正がしとめた虎の頭骨と、片鎌槍が展観されるということで、盛んにTVで放映されている。これらは清正の息忠広の娘・献珠院が、阿部政重に嫁ぐ際嫁入り道具として持ち込んだものである。忠広が配流の地庄内で亡くなった時、上野(群馬)に在った息正良は自刃、母法乗院も亡くなった。一人献珠院が取り残された。五年後に赦されて紀州徳川の重臣渡辺若狭守の養女となり旗本阿部家に入ったのである。
 片鎌槍は政重から紀州徳川家に贈られた。後、旧帝室博物館(国立博物館)の所蔵するところとなった。虎の頭骨は後年某家の手に渡り、後徳川黎明会が所有するところとなり、徳川美術館所蔵となった。夫々が処を得て、現在もこのように大事に残されていることは喜ばしい事である。
 さて、片鎌槍については「加藤清正息女遥林院様御輿入之節御持込」と書かれていたらしいが、「清正と虎と片鎌槍」を著された轟一郎氏によると、これは明らかな間違いだと指摘されている。昭和52年のことである。(上記経緯は同著より引用した)
 今般、水野勝之・福田正秀氏共著による「清正『妻子』の研究」が発刊され、従来忠広(生母・正応院-玉目氏)と同腹の妹・あま姫(遥林院)が、実は水野忠重女・清浄院の腹の子であり、清浄院こそが清正正室である事が確認された。その血筋をもってあま姫は紀州徳川家・頼宣の正室となり得たのである。清浄院の父忠重は、徳川家康の生母・お大の方(伝通院)の実弟である。
 片鎌槍についての誤記もこのあたりのことが錯綜してのものであろう。しかし収まるところに収まったという感がある。不幸な加藤家の結末は悲しみを誘うが、あま姫(遥林院)や献珠院の穏やかであったろう後世を思うと、ほっとした思いにいたるのである。
「清正『妻子』の研究」は、加藤清正研究の将に集大成とも言うべき業績である。歴史家や研究者、文筆家などの各位は、この著の言わんとする所を大に理解するべきである。すなわち誤った事実や解釈が、ここに完全に修正された事をもって加藤家の真実が満天下に宣言されたという事である。
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先祖を調べる

2007-10-19 07:26:56 | 徒然
 我が家の先祖附を眺めながら、僅かの手がかりを元に関連する事柄を少しずつだが調べている。私の今日の歴史狂いの原因の一つは、先祖附の中にあった「佐々助三郎」の名前であった。「あの水戸黄門の・・・?」という訳だ。貞享二年六月の事、助三郎こと宗淳は熊本に入っているが、ご先祖様は各所を調査する宗淳について廻っている。又幕府の巡見使が都合九回熊本に入ったが、天和元年に奥田八郎衛門以下が来熊の際またまた案内役を務めた。実はこの二件について調べているが、一向に前進しない。宗純の熊本入りについては、水戸まで行けば何か見つかるのでろうが、暇がない。前に書いたような「本」にでもしようという野心はないのだが、全く興味を示さない子供達に、なんとかご先祖様の事跡を伝えようと思うが故である。この状態だと、相当長生きをしなければ成らない。
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家中ことば

2007-10-18 14:59:02 | 歴史
 昭和54年熊大生S様の卒論の中にある「細川藩家中ことば」を、同大の秋山正次元教授が昭和63年の熊日新聞(6月1日)に紹介しておられる。明治26年生まれのO様(女性)のご教示による明治後期あたりの女性の武家言葉だという。

娘「おでっつぁま(お父様)、まだ御寝なってござっしゃりますか。おひん(お起き)なされてござる(ママ)ますか。ごぜん(御飯)を召し上がりまっせ」
父「今日はよか(良い)天気になったな。このおつゆ(お汁)もよか(良い)味がする」
娘「松の内でござりますから、おかちん(餅)をおむし(みそ)とおかか(かつお)で味つけさせました。おこぶし(あわび)とおかべ(豆腐)とごん(ごぼう)も入れさせました」
父「それは良かった。おたあさま(お母様)はどこか」
娘「いまおぐしあげ(髪結)とおみじまい(化粧)なさってござります。さあおだっつぁま(お母様)、おしとね(座布団)を御召しまっせ。ごふあんばい(御病気=御不塩梅)はいかがでござる(ママ)ますか、おなか(胃)のお薬はおたべ(飲む)ますか」
母「いやお正月だからしろざさ(白酒)をたべ(飲む)ましょう」
娘「お膳はそのままおめしおかれ(お置き)まっせ。わたくしがすべ(下げ)させますから」
母「との(主人)は今日、ご隠居(祖父)様お宅にお出でなされますか。おじょうぐち(玄関)まで私もまいりまする。定めしおつけ(お疲れ)なさいましゅう」

 以上であるが、別世界を覗いたような気がする。秋山先生は「言語文化の遺産継承に生きた事例」と驚きを隠されていない。古いスクラップブックから見つけたので、ご紹介する。
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発表の場

2007-10-18 11:01:56 | 徒然
 過日「自家出版」の案内状が届いた。すでに資源ごみの束にまぎれて手許にはない。最近続けざまに数冊の本をご恵贈いただいた。同人誌や研究誌所収のものであったりするなかに、自家出版の立派なものがある。内容の充実振りに驚かされると共に、経済的ご負担も相当なものだろうと下司の勘ぐりをするのである。ある方からのお便りの中に、「熊本では発表の場が少なく困っている」というお話があった。あることをテーマに、研究誌数誌を渡り歩くように発表されてきた。表現が適切ではないが、このことは発表の機会を何とか得たいと思われた気持ちの現れである。全くの在野の私たちはそれすらも手立てをもたない。「歴史研究会」は1.5万の会員を持つらしいが、平成に入ってから投稿原稿の掲載が不可能になり、別して「在野史論」というものを不定期に刊行している。会員である事が条件だが、多くの方たちが素晴らしい論文を投稿発表して居られる。且つて熊本には、荒木精之先生の「日本談義」という素晴らしい月刊誌があった。荒木先生の「滅私奉公」的な強靭な想いで続いて来たものだろうが、先生の死と共に熊本の一つの文化が滅んだ。先生の死後25年新たな産声を聞く事はない。あちこちから頂戴する、貴重なコピー資料が山になっていくのを整理しながら、これらの資料を多くの皆さんに見ていただく機会はないのだろうかと残念に思うのである。何とか発表の場が確保されないものだろうか。
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金欠病・・?

2007-10-17 22:51:30 | 徒然
 昨日の「椅子からの落下」の影響で、首が廻らない。頭痛はするし身体もあちこち痛い。昨日の事件当時妻は外出中であとで一応報告したのだが、「馬鹿・・」でお終い。今朝は首が廻らないと言うと、「金欠病のせいよ」と来た。40年も経つとこんなところだろう。仕事も道楽も小休止の一日。
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再び有禄士族基本帳

2007-10-17 17:36:55 | 徒然
 或る方からメールを頂戴した。有禄士族基本帳のその後の進捗状況についてのお問い合わせである。あと一息というところだが、息切れをしてしまっている。「先祖附と自分達の間がどうしても繋がらない」と仰る。お名前を伺い該当するものをコピーしてお送りすることにした。残り1、500~2、000名位だろうと思うが、これは急がねばならぬと思った事だ。当方の道楽で書きはじめたリストだが、これをご覧になってお待ちいただいているとは感激である。いろんな行事の合間をぬって、まずは図書館に出かけ、100枚ほどのコピーにチャレンジしなければならない。
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落馬の気分

2007-10-16 20:30:40 | 徒然
 キャスター付きの椅子に立ったのがいけなかった。本棚の上の物を取ろうと身体を持ち出したら、椅子がするりと滑って見事にもんどりうって落下した。右ひじからわき腹に掛けて猛打、1m位だから、馬から落ちるのとは随分違うが、まあ雰囲気は味わった。右肘に擦過傷、打撲と筋肉痛、「痛い・・・・」
だんだん体がこわって来た。明日が思いやられる。
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「加藤清正『妻子』の研究」

2007-10-16 17:00:08 | 書籍・読書
 旧備後福山藩・下総結城藩水野家の御当代・水野勝之氏と、熊本在住の史家福田正秀氏の共著「加藤清正『妻子』の研究」が発刊された。福田氏は過去に「宮本武蔵研究論文集」「宮本武蔵研究第二集・武州傳来記」を上梓発刊されている。二冊とも御恵贈いただいたが、この度も又お贈りいただいた。来る11月4日には「加藤家顕彰シンポジウム・加藤家の謎に迫る」が開催されるが、タイミングを合わせるように発刊されたことが喜ばしい。加藤清正の室・清浄院は水野家の出である。このことが発端となっての水野・福田両氏の研究の成果としての本著である。今まで知られなかった豊富な史料を検討され、数多くの現地調査がなされたご苦労の結果を、我々はこのように容易にその内容に触れることを申し訳ないような気がする。我々熊本人が「せいしょこさん(清正公さま)」と親しみを込めて敬愛する清正公はじめ、奥方様、又御子達の生き様を改めて確認できる佳書である。秋の夜長にぜひともお読みいただきたいと、ご推薦申し上げる。

 発行:ブイツーソリューション 発行:星雲社 定価:本体3,000円+税
書店での購入は難しいと思われますので、インターネットから申し込まれる事をお勧めします。
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球磨焼酎

2007-10-15 18:16:51 | 歴史
 最近鹿児島の芋焼酎が頑張っていて、球磨焼酎は少し陰が薄いようだ。米焼酎だから癖がなく美味しいのだが。酒徒善人の佐々木久子さん(元「酒」編集長)も、球磨焼酎を礼賛されているし、「江分利満」の山口瞳氏も、エッセイ「酒飲みの自己弁護」の中で「球磨焼酎だ」と言っておられる。酒に関しての通人お二人の強力な推薦があるのだから、大いに頑張って欲しいものだ。4~5年前私は仕事の関係で二年間ほど、週一で球磨通いをした。生業の建築設計・監理の為である。現在はあさぎり町、旧岡原村だが、高速を飛ばして約二時間、村の入り口に球磨焼酎の蔵元があり食事処を併設しているので、此処で昼食をとり現場に入った。「だごじゅる(団子汁)」が美味しかった。蔵元さんは聞くところによると、「ウッチャン・ナンチャン」の内村氏の従兄弟に当たられるらしい。焼酎も大変美味しく随分売上に協力したものだ。

 おでんの大根などいただきながら、ロックなどいただきましょうか。
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