想定とは「ある条件や状況を仮に設定すること」ですが
すでに遠い昔の記憶になりつつあるホリエモンが流行らせた“想定内”は
今では、想定外に取って代わられたとは言え
当時にも増して頻繁に聞かれる言葉になりました。
それもかなり重要なシーンで。
大学などでは「理工学部」と言いますが
理学と工学における想定の立場はまったく違うと言われます。
理学では想定外は胸躍ることであり
それを常に探し求めることが仕事の重要な一部となります。
ニュートン力学が想定外にしていたことが次々と発見された
19世紀末から20世紀前半にかけて量子力学や特殊相対性理論という
新しい物の考え方、認識の枠組みが構築されたと言われます。
理学にとって想定外は革新のための原動力であり
想定内のことしか起きないのであればそこで学問は停滞してしまいます。
一方、工学ではそうはいきません。
こちらは、私たちが生活する日常空間で
技術的にも経済的にも成立するモノを作り上げて
使用していくというための実用の学問だからです。
基本的な性能を発揮するための条件がまず想定され
その条件下で技術や経済性が成立することが要求されます。
次に行われなければならないのは
想定される異常な条件の下における事象と、それが及ぼす悪影響を検証して
結果の評価に基づいて必要とされた場合は
その事象を起こさないように、さまざまな対策をモノに内包
あるいは外の別のモノにその機能を補助させるという設計が必要になります。
ちなみに、事象とは「ある事情のもとで、表面に現れた事柄や現象」です。
ここで難しいのは、対策を取るべき異常な条件と
事象の悪影響の範囲をどこまで拡大するかです。
この範囲を広く取りすぎると、対策に莫大なコストがかかってしまい
工学的なモノ作りのための設計はできなくなります。
一方、範囲を狭く取りすぎると、モノの設計寿命内に想定外に遭遇し
重大な悪影響を使用者や外部に与えてしまうことになります。
注意しなければならないのは
条件を想定し事象を検証のうえ評価することと
それに対する対策をとることは異なる概念だということです。
想像力を働かせれば、想定の範囲はいくらでも広げることができます。
しかし、現実にどこまでの対策を取るかはコストを考慮せざるを得ません。
従って、工学的には次のように、いくつかのシナリオに分かれます。
A)事象を想定し、影響を評価し、対策を取る。
B)事象を想定し、影響を評価するが十分な対策は諦める。
C)事象を想定するが、影響を十分に評価できないため
最大限の安全係数をもって対策とみなす。
D)事象を想定するが、影響を評価できないため対策も取られない。
E)事象を想定せず、対策も取られない。
このとき、工学で許されるのはA)B)C)までであり
D)とE)は職業上の罪でさえあると言えると思います。
特にE)は最悪ですが、D)に「条件は想定したが事象を誤り
よって影響を評価できず対策も取られない」も含むとすれば
どちらの技術者も、想像力の欠如、無能、などという
侮蔑的なラベルを張られても仕方がありません。
注意を要するのはB)の場合で、影響の評価は行うものの
それをわかったうえで十分な対策は諦めるというものです。
これではD)やE)と同じではないかと思われるかもしれませんが
本来はそうではありません。
影響評価を行い、それを社会に公表し
そのうえで社会全体の合意として
十分な対策は諦めざるを得ないと決断するものです。
もっとも、原発の安全神話を作り上げるなど
社会的な合意を意図的にその方向に向けることも可能ですが…。
(続く)