羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

昨日にひきつづいて

2006年01月16日 08時11分20秒 | Weblog
 MARさんから、示唆に富んだコメントをいただいた。
 納得ですね。何事も「やってみなければわからない」という、ある方の口ぐせがあります。その方は、解剖・脳科学者ですから。今度の鼎談の最後の言葉も「やってみなければわからない」だったと記憶しています。
 ありがとうございます。

 さて、今日は、昨日に引き続いて、「天皇と東大」からエピソードをひとつ。

 大学の成績が俸給に直結した話。
 明治22年大学卒業生の俸給は、次のように内訓が発せられている。
 試補採用俸給標準
 1、大学卒業平均点85点以上   年俸600円
 1、同      80点以上    同550円
 1、同      79点以下    同500円
 1、同      70点以下    同450円

 大学での成績が俸給に直結してしまったことを示している。これが東大の法科生の点数主義を決定的なものにした、と立花氏は書いている。そしてこうした状況を批判したのが、徳富蘇峰であったという。大学のためにも国家のためにもこれを廃止せよと訴えた。このような特権を与えることは大学の本質を忘れ大学を官吏養成所にしてしまうことになると徳富は言ったとある。

 この話は、明治22年当時のことではある。しかし、現在の大学が、それ以上にというかそれ以下に、軒並み職業訓練校になってしまっていると嘆く教官もいる。
 先日も、私がおこなった12月の特別な講義をコーディネートされた教授が、言ってくださったことがある。
「小さなナットクばかりで、大きな疑問をのこさない授業は、大学の恥だという考えがあるんです。今日の羽鳥先生の授業は、大きな疑問を学生に与えてくれました」
 後から考えると、そのときは褒められたのか、反省を促されたのか、よくわからなかったが、私の性格はもちろん「お褒めの言葉」と受け取って、嬉しそうな表情をしていたと思う。
さらに
「小さなナットクを積み重ねないと、不安になるので、ついついそうした授業に走ってしまう傾向が、今は多くなっているんですよね」

 今、高校・大学受験生をお持ちの親御さんの悩みは、どのくらい深いだろう。
 日本の大学はその歴史からしてヨーロッパの大学と異なっている。社会のありようそのものが大学に求めるものがどこか変だ。その弊害をもろに受ける普通の家庭の子弟や親御さんの苦しさが、青少年犯罪やひきこもり・ニートといった問題とまったく無縁ではないと、この本を読みながら思うことしきりである。
 
 職業に直結して学ぶ場は、大学以外にたくさんあることを、久しく忘れた戦後とりわけ高度成長後の日本人が多い。
「何を学ぶのか」「何処で何を学ぶのか」「何をどのように学ぶのか」エトセトラ。
 それを決めるのは、それぞれの「個人」なのだと思っていたが……。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明治4年の集合写真が見せてくれること

2006年01月15日 09時14分51秒 | Weblog
 自分と家族が生きた時代を知りたくて、一昨年から、読んできた本の一部がパソコンコーナーの周りには散乱したままである。

日本の戦争・日本の戦後(上下)・連合赤軍とオウム=田原聡一郎著
遥かなる昭和=緒方四十郎著
父の肖像・終りからの旅=辻井喬著
白州次郎=北康利著
阿片王=佐野眞一著
あの戦争は何だったのか=保坂正康著
戦艦大和 最後の乗組員の遺言=八杉康夫著
などなど…。
 
 我が家では、東京に父方の祖父が戸籍を移したのが、明治29年。
 その祖父は、明治2年生まれで、たかだか5歳で家督を相続したらしい。その年は、明治7年だと手書きによる古い戸籍簿には記されている。

 どのような家族にも、家族の歴史がある。自分では、そうしたつながりなど一切考えないで生きてきた。ところが、父が亡くなったときに、古い戸籍簿を見る機会があった。
 それから明治・大正・昭和の時代を知りたくなった。
 それはそのまま大正三年生まれの野口先生が、生きた時代とも重なっている。

 昨年、戦後60年という節目で、近・現代史にかかわる本が、いままでになく多く出版された。
 すべてを網羅すればいいのだが、そうもいかないのが残念だが。

 一昨年には、五木寛之著作を初期の作品から年代順に150編ほど読んでいた。これはひとりのエンターテイナーとしての小説家を通して、その時代を生きた人々の呼吸を感じてみたかった、と今、改めて思い起こしている。

 ようやくタブー視されていた近・現代史が、解禁されつつあるように思える。
 そして、今、読んでいるのが立花隆著「天皇と東大」。
 これが、遅々として進まない。(実は、睡眠導入剤的な役割を果たしてくれている)やっと上巻を半分過ぎたところだ。

 ひとこと。
「東大黎明期の学徒たち」という写真展で公開された「南校時代全職員生徒」1871年(明治4年)の集合写真が、この「天皇と東大」に載っている。
立花氏も書いているが、「写真を一目見るだけで、その当時の日本がそれほど未開国であったかがわかる」。
 その言葉どおりに受け取るが素直と言うことになりそうだ。
 日本の開国は、ものすごい出来事だった。ある基準での“未開”国から、一気に日清・日露戦争まで、突き進んでしまうのだから、日本人には物の怪がついたのか? と言いたくなるような「集合写真」なのだ。

 まだまだ何もいえる状態ではない。
 ただ、市井に生きた我が家の人々を、いつか書いてみたいと思う気持ちは、たかまったことだけは確かだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

期末リポート

2006年01月14日 08時46分12秒 | Weblog
 新年があけると、始まるところと、終わるところがある。
 今週、一つの大学で後期授業が終わった。正直、ほっとしている。
 ほっとする一つの理由に、今回も力作ぞろいのリポートを抱えて帰宅できたことがある。
 その日は、4限の授業を終えて、そのまま順調に電車に乗れた。
 時間は、5時をすこし回ったころである。
 
 印象深い学生の顔と実技の動きなどをを思い浮かべていたのだが、ふと車窓からみえるビルの形や外壁の色などに心がとらわれた。ぽちぽちとつき始めたネオンの灯りとともに、夕暮れのなかにしっとりと溶け込むよう、その輪郭を見せてくれていた。
 
 下り電車で東中野に向かう中央線は見晴らしがよく、左手に新宿方面、右手に高田馬場から池袋へいたる風景を眺めることができる。
「日が長くなったのね」
 声に出さずにつぶやいた。
 ふたたび学生の顔が浮かぶ。
「単位をあげる授業で、野口体操をおこなう意味はふかいなぁ」
 リポートを持ち帰るときは、いつもそう思う。

 この大学での2コマの授業は、2単位をあげる。人数も限定なので、かなり密接な関係をつくることが可能だ。
 今回のリポートも、読むのが楽しみだ。
 なかにはCDつきだったり、巻紙にしたためられたものなどもあったりする。
 もちろんイラストなども描かれている。しっかり論文であったり、教育学部の学生などは授業計画企画書の表現をとっているようだ。
 
 実は、昨今、インターネットで検索して、そのままを貼り付けてくるようなリポートが増えているそうだ。それを避けるためではなかったが、この二つのクラスに関しては、「野口体操の紹介を、それぞれ自由な形式で一工夫して表現するように」というリポート条件が功を奏して、それぞれが思い思いの作品として提出してくれている。
 研究者も他人の論文を盗用したり、パソコン上でデーターをつくり上げて論文につくってしまうケースがあって、「パソコン」「インターネット」の悪用は、社会問題である。
 何事にも不正は付きものなのだが、個人のモラルをしっかり問う姿勢を、一人ひとりがもたないと危ない社会になってしまった。
 
 昨日、校正した3月出版の本でも、養老孟司先生がいい話をしておられたのが印象に残っている。それは、養老孟司+河合隼雄+羽鳥操の鼎談の抜粋だ。
 そういえば、鼎談を行った会場では、江戸独楽作家の福島さんの作品が展示された。その日の福島保さんの写真を佐治嘉隆さんのブログ「芭璃庵」でみることができる。
 このブログでは、彼の最新作「フラフープ独楽」の写真ものせてくださった。
 左下の「ブックマーク」からリンクしてください。(佐治さんの写真は、どれも美しい!)

 話が、とんだまま今日はこれで。
 
 ●コメントいただいた方へ、朝日カルチャーセンターへは、直接お電話を入れてください。
 番号は、03(3344)1947 担当:緑川さんへご連絡を。

 
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

片付け

2006年01月13日 13時06分40秒 | Weblog

 寒い朝。
 白の割烹着に前掛けをかけ、頭は祭りの際にいただく紺の豆絞りに赤の文字で「祭」とかかれた手ぬぐいをキリッと縛って、小正月を前にお正月の飾りを片付けた。

 まず、玄関を入った正面からは、福島保さんの「江戸独楽」と江戸錦凧と孫次凧。
 蔵の扉の脇にある乳房の形をした漆喰のまんなかにL字形の鉄がささっている所からは、作家のねじめ正一さんのお父上から戴いた「蛸の凧」。
 座敷の床の間からは、正月にかける掛け軸と香炉。

 それぞれ傷まないように梱包をして、すべてが片付くのには、2時間以上もかかる。
 黙々と片付けながら、今年一年の無事を改めて祈る。

 赤・青・緑・紫・茶・白・金・黒・唐金。
 独楽・凧・掛け軸に使われているそれぞれの色。
 我が家のお正月の色は、江戸の色に彩られていて華やかだった。

 片付けられた空間を見直すと、ガランとしてちょっと寂しい。
 いつものように黒い鉄と柔らかなトーンの木が組み合わさったコート掛けを置き、小ぶりの木製椅子を一脚そのそばに置く。
「なんとなく色気がなくなったなぁ~」
 ため息まじりにつぶやくと、正月気分が一気に削がれていく。
「これでよし」
 ぽんぽん、と手を打って、終了。

 玄関から外に出て、曇りの空のもと、葉をすっかり落とした落葉樹・すこし色が薄い常緑樹の盆栽に挨拶をする。
「どのくらい水を差し上げましょうか」
 ちょっとおどけて、お伺いをたてる。
 鉢のなかの土の乾き具合を見ながら水遣りをすると、思いなしか木々がイキイキ見違える。

 仕事の間隙をぬって、朝にこうしたことをするのは、はじめは調子が出なくても、終わったときの気持ちよさは、結構いける感覚がある。

 2006年、本格的な始動開始である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モーツアルト石

2006年01月12日 06時24分50秒 | Weblog
 鉱物研究家の堀秀道先生から、毎年お年賀状を戴いている。
 その賀状には、新しい年に因んだ鉱物の話が、230文字くらいの短文で味わい深く添えられている。
 
 今年は、モーツアルト生誕250年ということで、「モーツアルト石」の話だった。

 モーツアルトがフリーメイソンに入っていたことは有名な話だ。
 そのフリーメイソンは、中世イギリスの石工組合のギルドから出発したのだが、西洋文化(文明)は、石の文化と言われる由縁もこのあたりにありそうだ。

 さて、堀先生の年賀状によると、歌劇「魔笛」には、フリーメイソンに入ったことが反映されていて、そのことがモーツアルト石の命名につながっていくらしい。

 さらに今年の年賀はがきの絵は、「春の訪れ」と題された小林節子画。
 絵は、浅間山を遠景に、手前に福寿草が描かれている。
 なんと「信越版」を選ばれているから恐れ入った。
 
 このモーツアルト石は、日本では愛媛県で見つかっているそうだ。他にも浅間山の南東方から群馬、埼玉、東京にいたる地域にも産出の見込みがあると記されている。

 浅間山といえば、野口先生とは浅からぬ因縁の山。思わぬところでつながりがあるものだと賀状を拝見しながら「地球はひとつ」とニヤリとしたものだった。

 そしてモーツアルトの作品番号であるL.v.ケッヘル、私たちはケッヘル番号とよんでいるのだが、このケッヘルさんは、ウィーンの植物学者兼鉱物学者で、分類や整理が特異な人だったと結ばれている。

 さて、モーツアルトの所縁の地「ザルツブルグ」は、日本名に訳すと「塩の街」。塩は塩でも岩塩を想い浮かべていただきたい。塩の交易中継地でもあるところから、その名がある。

 今年は、癒しの音楽として、一にも二にもモーツアルトだ。
 薫り高いウィンナ・コーヒーでも味わいながら、ピアノコンチェルトの甘い旋律に酔わされてみたいと思っている。
 
 そういえば我が家のピアノから、音が聞こえてこなくなって久しい。ドッキッ!!!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

間をあけ間をまつ

2006年01月11日 06時21分38秒 | Weblog
 文字列を反転して、Back space を押す。
 すると、一瞬にして、文字は消える。
 これで失敗したことが何回かある。
 反転するところが不注意からずれてしまって、消したくないとこにかかったことに気付かないまま、消してしまった。
 消しゴムで消すのなら、そんな間違いは起こりえない。
 泣いてみても始まらない。また、一から打ち直すのだが、同じ文章は再現できないことが多い。

 そこで最近は、或る場所にクリックしながら、長い距離にわたってマウスを右や左に・上に下にずらす場合には、手を放す直前に息を止め、クリックしている指を離す前に短い間をあけてから、指を離すようにしている。そして息が入ってきたのを、味わってから、キーを押すことにしている。
 
 それからというもの、間違って複数行を消すことがなくなった。
 手間をかけているのだが、記憶を辿ってあとから書き直す手間を考えたら、この方法は実にいいと思っている。
 つまり「間をあけ、間をまつ」のだ。
 (思い出すことがある。昨年のみずほの株取引の発注ミス)
 日常化した自分の行動は、あまりにも無意識で行ってしまうことが多い。そこで一呼吸おくことで「間をあけ、間をまつ」ことで、自分の意識をそとに取り出す時間になってくれる。
「時間」というより「瞬間」と言ったほうが適切なのだが。

 このとき、息を吸って止める「保息」と息を吐いて止める「止息」が、「間」ということだ。
 キーボードを打つ手を一瞬間休める。すると自分から紡がれる言葉を見直すことになる。自分の行動を外から眺めることができる。
 
 村上陽一郎という科学史家がおられる。彼は、話をされるときに鼻から息を吸い込んで「保息」を短い時間とられることがしばしばある。つまり、言葉を止める瞬間をつくっておられる。対談のときは、相手の眼をそっと見ておられる。
 そこで次の言葉を選びながら、話を展開されていく。非常に短い時間のことだが、このタイミングをはかる感性が絶妙な話し方をされる。
 私もこころみようとするのだが、そうした「間」をつくるのがこわいのか、いまだに上手く言ったためしはない。

 最近になってようやく、パソコンで文章を打ち込んでいるとき、やっていることに気付く。やっているというより、何気なくそうしてしまう。
 かりに客観があるとすれば、この「間をあけ間をまつ」時間こそが、主観から客観へ通う狭い通路ではないかとこのごろ思うことがある。
 簡単には「客観」とか「主観」とかいえないのだけれど。キーボードに向かっている自分の意識の動きを言葉にしてみると、こんな感じなのだが、上手くいえないもどかしさがある。

 というようなわけで、パソコンとのキーボードとのかかわりには、こうした技術的なことも含めて、面白い発見がいまだにある。

「間」とは、ときに時間のことであり、ときに空間のことでもあり、双方の境界をいったりきたりするリズム感そのもの。
 日本文化は「間の芸術」といわれるが、間がよかったり、間が悪かったり、「間の感性」はなんの世界にも通じる高度に洗練された「呼吸」だと思う。
人生の達人は、「間合い」をとる感覚に秀でている。
そういえば野口先生は、緩急自在に「間」を楽しんでおられた。
こんな言葉があるかないかは知らないが、先生は「間取り名人」だった。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再び「逆立ち考」2

2006年01月10日 07時59分23秒 | Weblog
 野口体操の逆立ちは、こんな考え方をします。
「たった一人で立てなくてもいい。誰かと一緒に、逆立ちの稽古をするところに意味がある」
 それはとても素敵な考えだと思いませんか。

 たしか一昨日だと記憶している。
 「二人の世界ほぐし」のやり方にについて書いたと思うが、これも教室の雰囲気によっては、危ういものを秘めている。

「人間って、もともと危ういものじゃないですか」
 ある人が言う。
「危うさを抱えながら、ほぐして・ほぐして柔らかくなったからだで逆立ちするのが、野口流よね」
 またある人が言う。

 すると……何処からともなく声が聞こえる。
「まっすぐに伸びることを忘れないで! とくに手で立つ逆立ちは、肩がのびることね。それにはほぐすことが先決だ」
 どうやらその声は野口先生のようだ。

 力を抜くこと、これはそうなってみないとわからない世界だ。
「きっと基本的な抜き方がからだでわかってくると、他のことにも応用と言うか、活かされるというか、通じることがあるんですよね」
 ピアノと作曲を日々の暮らしのなかに、日常化し、生業にもしておられる方が、そっとささやいてくださった。

 何事も基本が大事と言うことらしい。
 基本は、まるごと全体のほぐしにある。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再び「逆立ち考」1

2006年01月09日 10時05分20秒 | Weblog
 前にもふれたことがある。
 逆立ちができないと、なんとなくつまらない。
 それはなぜだろう。
 
 逆さまになる過程も、なってからも、そのなり方の「質」は問わないとして、とりあえず逆さまになれると嬉しさがこみ上げる。

「日常でありながら、日常でない。その感覚がいいだよね」
 ある人が言った。
「ごまかしがきかないじゃない。それもいいだよね」
 また、ある人が言った。
「なんとなく、できる・できないがはっきりしてるじゃない。逆立ちって」
 またまた、ある人が言った。
「ここだけの話だけれど、野口先生って、もう少しで逆立ちできそうに感じると、手伝ってくれて、タイミングよく引き上げてくれたよね」
「そうそう、最初のうちは怖さから、足腰が固くなって、どうしようもなかったのに、とにかく逆立ちってこんな感じだよって、味わわせてくださったわね」
 最後の言葉は、何を隠そう、私の言葉。

 野口教室に通い始めのころ、必ず最後にやっていた逆立ちのときの憂鬱さは、今でも覚えている。
 一生、逆立ちは無理だと思えてしまう。
 かなり強引に逆立ちしている人がいても、違いが見えなくて羨ましいばかり。

「これまで一度だって、やったことがないから、あきらめようかな」
 そう思いつつも、
「でも……」
 
 しばらくいろいろな人が逆立ちする姿を、羨ましげに見ているうちに、違いが次第に見えてくるようになる。
 するとまた、理屈をつけたくなる。
「野口先生のいっておられる逆立ちができてる人は少ないじゃない」
 自分を納得させようとするわけ。

「逆立ちができたらと言って、人格者として多大なる尊敬を受けるわけではないし」
 さらに、自分を納得させようとする。

「何をもってできると言い、何をもってできないというのか」
 最後は、ハムレット的に悩みだす。

「とりあえず、落ちても怪我をしないように、やわらかくほぐしてみよう」
 それから私の花嫁修業ならぬ、逆立ち修業(?)が始まった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野口風呂

2006年01月08日 09時20分44秒 | Weblog
「お疲れ様、野口体操の皆さんは、お風呂からあがったみたいに、つやつやしているわ」
 担当の二階さんが、話しかけてくださった。
「いや、熱い。温泉につかったみたい」
 佐治さんが答えた。
「逆立ちもしましたしね」
 そばにいらした方も、ニコニコ顔で
「野口風呂ですから」
 やっぱり体操は、血行がよくなるらしい。
「寒いこの時期には、何よりのことだ」
 言葉には出さないが、居合わせていた方々の顔に書いてある。

 朝日カルチャー土曜教室の初日。
 皆さん、お元気で教室に集合された。
 3時30分、レッスン開始。
 第一声を出したときに、自分の体調がわかった。すっかりお正月の休養が、からだの栄養になってくれたようだ。

 一人一人のお顔を見ながら話しを続ける。
 やっぱりレッスンはいい、と新鮮な感じをうける。今回は、2週間の休みでしかなかったけれど、なぜかあらたまった感じがある。年末年始はゴールデンウィークの休みとは、どこか雰囲気が違うからだろうか。それに加えて、この寒さは、ある緊張感を持たせるのかもしれない。

 レッスンは、昨年末から用意しておいた「七草の籠」を持って、七草粥や七草爪の話から始めた。七草の漢字は、当て字が多くてとても難しい。画数が多い名前はなおのこと。
 パソコンの文字ポイント大きく拡大して、その文字を手書きにしてみるのだが、難しいことこの上ない。意味の理解不能な文字は、すんなりとは書けないということらしい。
 そこで、野口先生がなさっておられた、字源探索をしてみると、なるほどと意味がわかると書きやすくなる。
 
 その例として、「七草名」漢字を黒板にかいてみた。
「ほんとうに、字源がわかると、書きやすくなりますね」
 最近、いろいろな意味でメキメキ上達してきた女性が、真顔で話しかけてくれた。こんなときは、とても嬉しい。

 さて、逆立ち報告を。
 はなから「逆立ち」にはいりたいと考えていたので、からだをほぐすことに徹してみた。床に腰をおろして行うあたらしい「二人のほぐし世界」も思い切って始めてみた。この方法は、滅多なところでは出せない。しかし、体験してみるとその気持ちよさに止められなくなる。
「からだがほぐれるって、こういうことなんだ!」
 そこまでほぐしておくと、「重さの方向」が感じ取れるようになる。
 
 そうこうしながら最後の15分で逆立ちに入った。まず、「ヨガ逆立ち」から。
何人かの包助をしてみると、確実に楽になってきておられた。

 手で立つ逆立ちは、これから本格的に入ってみたい。
 いよいよ、今年も始まった。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

門松

2006年01月07日 08時36分53秒 | Weblog
 正月七日。
 早朝、門松をとる。
 この冬、東京の寒さは他から比べればたいしたことはない、と言われそうだが、寒かった。
 ほんとうは7日午前零時にはずすものらしい。
 母方の祖父は、6日の夜遅くにはずしていたそうだ。

 門柱に釘を打ちたくないばかりに、目立つところは透明なテープで、松葉で隠れるところは茶色のガムテープで止めた。最初からは上手くいかず、大晦日には強風で取れてしまってやり直しもした。とってみると結構あとが残っていた。

「まぁ、こんなものでしょう」
 生来のいい加減さで、今年は終わった。

「しかし、この松、捨ててしまうの?」
 ためらわれて玄関前に置いてある傘たてにとりあえず差し込んでしまった。
 眺めると、なかなかいい風情をかもし出している。
 一月は、正月なのだから、という理屈にもならない理屈をつけてしばらくそのままにしておこう。(雨か雪が降るまでは)
 もしかして近くの神社で、燃やしてくれるかしら?

 さて、昨日、佐治嘉隆さんがブログを開設された。
 「芭璃庵」というブログ名で、戌年にちなんでバリ島の野犬を写した写真が見られる。
 実に、高貴な犬の姿だ。
 左下のブックマークから入ってください。
 「写真館」とは、フォトギャラリーのことですが、これは「しゃしんのやかた」と読んでください。
 
 さて、いよいよ、今日から始動。
 朝日カルチャーの土曜クラスが、年明け最初のレッスン。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

氷の粒粒

2006年01月06日 10時41分32秒 | Weblog
 40数年ぶりの大雪。
 小寒でこの寒さだと、大寒過ぎは、一体どのくらい寒くなるのかしら。
 被害にあわれた方々は、まったくもってお気の毒なことだ。

 実は、昨年暮れから、東京でも始まっていたことなのだが、今朝は盆栽の土の盛り上がり方が、いちばん凄かった。土の一粒一粒の形がはっきりと見える。
「いったいどのくらい水遣りをしたらいいのかしらん」
 とくに盛り上がりの大きな欅の鉢の前にしゃがんで、土の状態を覗き込んだ。
 すると粒粒の間から、氷の粒が顔を覗かせている。
 丸い水滴がそのまま凍った状態のようだ。直径は1ミリくらいだろうか。氷の粒はかなりの量ありそうだ。それが土を一粒ごと盛り上げているのだ。

「ぬるま湯でもかけたい」
 思うくらいに鉢から盛り上がっている。
「冬は、夕方に水遣りをしてはいけないよ」
 父がよくそういっていた。
 土のなかの水が凍って、鉢が割れることがあるらしい。

「なかはどのくらい乾いているのだろう」
 一見するくらいでは、わからない。
 後ろを振り返ると、水を溜めてあるバケツにも、氷が張っている。
 その氷を割って手に取り、厚さを測ってみる。
「思ったほどの厚さはない。こちらも3ミリあるかないかの感じかな」

 とりあえず如雨露で水遣りをすることにした。
 根元と幹と枝と葉がぬれる程度にとどめた。
 いつもなら表面が薄い茶に変色するくらい乾いているときには、小ぶりの銅の如雨露を使う。これは先が斜めにカットされていて、注射をするような感じで、土に直接水をしみこませることが出来る。
「土へ直接やるのは、止めておこう」
 結構、決断がいる。

 盆栽は父が長年丹精していた。
 最初の癌が発見されるすこし前から、徐々に差し上げたりして減らしてくれていた。何か予感とでも言うことなのかもしれない。それでも20鉢くらいは残っている。
 
 残った盆栽は、亡くなった年の春に、母が手伝って植替えをしてくれていた。
 元気に育っていたので、2年目の春に、今度は私が植替えてみた。
 その年は、はらはらしたが、なんとか無事にいてくれている。
 ただし、何処の枝を切っていいのか分からないので、とりわけ松などはボサボサ状態である。

 さて、こうした寒いときには、どのくらい水遣りをするのか、ちゃんと見ておけばよかった。今となっては遅い。
 そこで、神妙に、祈るような気持ちで、水遣りをした。
 不思議と、それを終えたときには、正月気分が薄らいだようだ。

 明日は松も取れるし、今年の幕が開く。
 一年、無事でありたい。

 それにしても寒い朝だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代の下町

2006年01月05日 11時21分37秒 | Weblog
 正月にちなんで、着物の話をひとつ。
 昨日のブログと同じ冊子に、連載「エントロピー 現代と江戸」石川英輔が毎月面白い。
 今月は、第七回目で、「同じものを長く使う」がテーマだった。
 長く使うものとしての「古着」の話だった。
 日本の伝統的な小袖(着物)は、仕立て直しがたやすく、染め直しもしやすかったので、丹精され、着物は古着としての流通にのって、最後まで使い切っていたらしい。
 呉服屋では新しい反物を売り、それを着た人が手放したあとは、仕入れ専門の「古着買い」、「古着仲買人」、仕立て直し専門の「仕立屋」という各職種を経て、古着は流通していた。
 江戸期の話である。
 この時代には、すでに徹底して、無駄とゴミの増えない世の中の仕組みができていた。つまりエントロピーが増えない巧妙なシステムだった。この仕組みを「貧しかった」といって切り捨てる人には、環境問題などまったくわかっていない、と石川氏は書いている。

「時代劇には、古着屋が随分出てきたわね」
 この話を母にしたところ、昔の芝居や映画のシーンを、思い出したようだった。

 わが町にも、昨年の秋に、「箪笥屋」なる古着屋も開業した。
 開店の日に覗いてみた。
 なんだか我が家の「箪笥のこやし」といっているような和服の品々が並んでいた。
 
 そういえば、以前、表参道でみつけた端切れ屋に入って驚いたのは、端切れの値段の高さだった。その値段に劣らず、品物はよかった。極上のものは、タペストリーの材料にもなりそうだった。

 また、茶道では、昔から、古い織物の端切れは珍重され、棗の袋に使われていたりする。
 京都・龍村美術織物の研究所では、この古代裂れの研究を行っていて、数年前には世田谷美術館でも展示を行ったほどだ。
 この例は、ピンからキリまでの、ピンかキリだが、とことん使い切る習慣がなくなった現代の暮らしに警鐘を鳴らしているのが、石川江戸文化論だ。
 果たして、早急に手を打たなければならない地球温暖化・環境問題と、成長・拡大なき社会の時代に、江戸期の智恵が活かされることがあるのだろうか、と思いながらこの連載を読んでいる。

 経済が成長をし続けないと持ちこたえられない社会構造は、産業革命以後で、イギリスでもせいぜい200年。日本では高度成長期以後、せいぜい半世紀の歴史しかないという。
 日本の近代化・欧化政策は、随所にほころび以上の破綻をきたしているのは、明白になった。

「現代の下町風情がある町は、すっかり若者の町になってしまった」
 石川論を読みながら、ジーンズや洋服の古着屋が多いわが町も、まんざらでもないと思えてきた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年賀状

2006年01月04日 13時17分26秒 | Weblog
 毎月『原子力文化』という日本原子力文化振興財団発行の冊子が送られてくる。
 野口先生が亡くなられてから、私のところに届くようになった。
 
 巻頭エッセー「自然の詩」を、動物研究家で歌人の高田栄一さんが、書かれていらっしゃる関係から、送られるようになった。
 もう何十年になるのかしら。

 いちばん新しい号は、お正月に届けられた。
 題して“「年賀状」私見”。
 年賀状のやりとりがされるようになった経緯が書かれている。
 この風習は、平安期の公家社会で、雅なあいさつとして始まったらしい。
 高田さん曰く「気楽な“遊び”みたいなもの……。時代とともに一般に浸透してくると、暮らしの規矩として居座ってしまった」のだと。
 
 因みに「規矩(きく)」という言葉は、もと、コンパス(=規)と物さし(=矩)のことだと岩波国語辞典にはある。そこから手本とか規則の意が生じたらしい。
 
 ところで、お年を召した方々は共通して、何時の時点で年賀状を止めようかと悩まれるらしい。
 とくに、齢八十を境に、面倒になるらしい。
 
 そういえば野口先生も八十路の大台に乗られる前年に、「来年から賀状は失礼します」と書かれた記憶がある。
 パソコンの住所録から印刷するということは一切なかったから、宛名書きだけでも相当な時間を要した。
「“あ”行から始まって、“た行”まできたところ。ちょっと買い物に出ます」
 ちょっとかすれた声が、電話の向うから聞こえてくる。
 つまり、一日では終わらず、何日かかかっていたのだ。

 高田さんも数年前から「待ち」に徹して、届いた賀状のなかから、顔や声の判別が可能な人へ出すようになさっておられるという。それが功を奏して、最近ではめっきり数が減っていらしたとか。
 ところが、「お元気だったんですか、よかった」と、新年に電話がかかるようになったとか。

 たしかにある年齢に達していらっしゃった方から賀状が届かないと、心配になってくる。
 それだけではない、若い方でも、年賀状が届かないと、昨今の不安な世情で息災なのか、と心配になることも多い。
 
 年賀状は、まさに「生の証」となりつつある。
 たしかに、元旦に、癌を患って手術された方からの賀状を束のなかから見つけたときには、「よかった」と、ほっとしたものだった。
 
 というわけで、ありきたりの言葉の年賀状でも、しばらくは出し続けようと思っている。
 せめて相手のお名前とご住所と、一筆添える言葉は、手書きにしているのだが、小学生並みの字では、その気持ちが果たして伝わるかしら、と思いつつも。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名人は凄いー正月のカタルシス

2006年01月03日 10時16分58秒 | Weblog
 ~~~~~~三千世界に子を持った 親のこころは~~~~~
 伽羅先代萩“御殿”の場、クライマックスである。

 昨晩、坂田藤十郎襲名披露狂言の中継を見た。
 子供のころ「藤十郎の恋」を見た覚えがある。紫の御高祖頭巾(おこそずきん)をかぶった姿だけが、網膜に焼きついた一枚の写真として残っている。それが誰だったのかは、記憶の外である。
 藤十郎は、231年ぶりの襲名だという。この襲名という制度を、うまく生かして集客し伝統を守っている歌舞伎界と松竹は経営の才があると下世話な見方をする人もいる。
 まぁ、それはそれとして、初春にふさわしい縁起のいい興行になっていることは確かだ。
 こういうことは、嫌いじゃない。

 平成の坂田藤十郎は、上方から江戸に乗り込んで、正月に初日を開けた。
 さすがの名役者も、茶道具でご飯を炊き終わるあたりまで、固さが見られた。
 藤十郎の声のピッチとトーンが、浄瑠璃の語りの声と太棹の音色とに近すぎるきらいがあったのは、緊張のなせるわざとお見受けした。
 東京人には、江戸歌舞伎の花形女形・今は亡き歌右衛門独特の声色と所作がダブってしまっても、しかたがないこととお許しいただきたい。
 しかし、中盤から後半にかけて、そんなことは一掃され、画面に吸い込まれていった。

 そして「曽根崎心中」のお初の色香は、見ているこちらがゾクゾク・モゾモゾとしてくるほどに迫っていた。千数百回の公演回数だけあって、見事な舞台だ。数をこなすことの意味は大きい。
 そして「和事」とはよく言ったものだ。

 さて、野口三千三・名前の由来である先代萩の名場面を見ながら、芝居好きの先生のお祖父様が「三千三」と名づけた気持ちに合点がいった。
 この場面は、役者冥利に尽きる格好よさがある。
 身上を潰しても、村々をたずねあるいて芝居の指導に当たってしまったのもわかる気がする。そういう下支えがあって、歌舞伎の名役者が育つ。

 元日の夜に見たー“ちょっと昔のオヤジの魅力―山本晋也が語る「古今亭志ん生」”にも感じたことだが、日本の芸能の世界は、本質的に不条理劇なのだと。
 
 志ん生が8年間あたためてから高座にかけた「黄金餅」という落語にしても、合理性や表面の倫理観だけで解釈してはいけない深いものを潜めている。
 志ん生・空白の600日。志ん生が過した敗戦後の満州で見た地獄があってこそ、「黄金餅」由来の落語の面白さだと伝わった。

 志ん生の落語は、おぞましきもの、許しがたきもの、見たくも聞きたくもないもの、いや、だから見てみたい聴いてみたいと、怖いもの見たさの思いが募る世界を、カラリとさらりと笑いの中に投げ入れた。

 藤十郎は、お家騒動のどろどろを、カタルシスに昇華させていく伝統歌舞伎の美意識と形式美のなかに、人間洞察の深さを描ききってみせた。

 元日の落語、二日に襲名披露歌舞伎。
 実に、正月は、いいものだ。
 しかし~しかし~
「劇場に寄席に足を運んで見なければ! つくづく思った次第でござりまする」

 名人は、凄い。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ハンガイの牛

2006年01月02日 11時05分37秒 | Weblog
    すばらしいハンガイの鹿よ
      山道に沿って鳴いている 
        年老いた私の母を
          思えばますます偲ばれる

 ハンガイというのは森林と草原が組み合わされた地域のことだという。
「ゴビに人として生まれるよりもハンガイに牛として生まれるほうがいい」
 ハンガイとは「満ち足りた」ということばからきているモンゴル語らしい。

 今、「草原歌集」というCDを聴きながら、ブログを書いている。
 横田和子さんの歌と馬頭琴。曲名は「すばらしいハンガイの鹿」である。
 昨年末、ご本人から戴いた。

 遊牧の民の暮らしが偲ばれる民謡だ。
 なかには3拍子の曲もある。
 若くして惜しまれてこの世を去られた小泉文夫先生が偲ばれる。
 母は何も女とは限らない。日本に民族音楽を紹介し、西洋文化の価値だけでない他民族の多様な文化のすばらしさを定着させた小泉先生も「民族音楽の母」である。

 今頃は、ハンガイの牛に生まれかわって、恵まれた自然のなかで悠々自適の満ち足りた暮らしをなさっているのかもしれない。

 大地に草原、森林、天空、満天の星、太陽に月の歌。
 草原を疾走する馬の美しさは、楽器となって美音を響かせる。
 馬頭琴、それは天文と人文を結ぶ懸け橋。
 
 さて、正月も二日。
 「羽鳥操の日々あれこれ」は、「ブログ海」という名の内海にたゆとう小舟ながら、
 今年も漕ぎ続けられますように。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする