土曜クラスに参加しておられる新井英夫さんが、「日舞体験」を語っておられる。
彼なら女形だって夢ではない。お顔立ちや体つきは、道成寺でも踊らせたらいい雰囲気ですよ、というと褒め殺しかしら? いやいや、そうなのよ。
それはともかくとして、最初はかなり四苦八苦されたようだ。
「野口体操の初心者の気持ちがよくわかる」といっておられる。
懐かしいですね。
日舞は、基本的には、一対一で稽古をつける。
それがたとえ子供でも、一対一で厳しくしこまれる。その様子を何人かのお弟子さんが、見守りながら「見取り稽古」をしていく。
3歳から7歳まで日舞を経験した私だが、踊りはすっかり忘れてしまっている。継続することが何より大事とは、このことだろう。
踊りは忘れたが、もろもろのことはしっかり記憶に残っている。
例えば、お師匠さんの藤蔭絃枝先生はものすごく恐かったこと。
お師匠さんは、子供のうちにきちっと「型」にはめる使命感をお持ちだった。当時は、あまり抵抗もなく「真似び=まなび」していったと思うだが。あとから知ったことだが、そのお師匠さんは、創作舞踊の新たな道をお家元と共に、模索しておられた方だった。
さて、そうした稽古を積みながら、振りを覚えて、最後まで続けて踊れるようになると、お師匠さんの弾き語り、つまり長唄を歌いながら三味線を弾き、踊りの稽古をつけてくださる。そのときの気持ちよさは、それまでの稽古が、小さく報われるときだ。
そこで、もう一つの励みがある。
子供ながらにあこがれたもの。そのために一生懸命稽古をした思い出。
それは舞扇だった。名取さんや舞台で使用される舞扇の骨は黒の漆塗りで、描かれている文様がよく引き立つ。子供たちや、名取前の弟子は、竹や木の骨に、ニスをかけただけの舞扇で稽古する。それは稽古用の扇だ。
子供の目にも、黒の骨の舞扇のほうが美しく、それを持って大舞台で踊ってみたかった。
今思えば、たわいないことかもしれないが。
ある日、お家元の藤蔭静枝先生の総見が行われた。舞台前の総稽古とでもいうところだろうか。赤い大きなお座布団に、かなりのご年配のお家元が座っておられた。
その場は、なんともピリピリした雰囲気。
「いつもとは違うな!」
意識が生まれた瞬間だった。
舞台で、長唄・三味線・鼓・太皷などの地方さんをバックに踊る方が、よっぽど恐くないという体験をそのあとすることになるのだが、この恐ろしい体験があるからこそ、本番に強くなるわけだ。
そうした総見のときも、普段のときも、お稽古をつけていただく前には、舞扇を正座した膝の前に置き手をついてお辞儀をする。終わったあとも、同じように正座をして膝の前に舞扇を置きお辞儀をする。その前後のお辞儀のきれいな人は、踊りも上手かったと感じた記憶もある。
「日本の芸能は、礼に始まり礼に終わるのか」
今、言葉にしてみると、そのとき、子供心に感じたことだった。それは意識にのぼる以前の感じ方だったといえるような気がする。
因みに、昭和20年代後半から30年代にかけて、モダンダンスは江口隆哉、日本舞踊は藤蔭静枝といわれ、二人が戦後日本舞踊史に、「創作舞踊の双璧」として残る舞踊家だったことを知るのは、野口三千三先生を通してだった。
彼なら女形だって夢ではない。お顔立ちや体つきは、道成寺でも踊らせたらいい雰囲気ですよ、というと褒め殺しかしら? いやいや、そうなのよ。
それはともかくとして、最初はかなり四苦八苦されたようだ。
「野口体操の初心者の気持ちがよくわかる」といっておられる。
懐かしいですね。
日舞は、基本的には、一対一で稽古をつける。
それがたとえ子供でも、一対一で厳しくしこまれる。その様子を何人かのお弟子さんが、見守りながら「見取り稽古」をしていく。
3歳から7歳まで日舞を経験した私だが、踊りはすっかり忘れてしまっている。継続することが何より大事とは、このことだろう。
踊りは忘れたが、もろもろのことはしっかり記憶に残っている。
例えば、お師匠さんの藤蔭絃枝先生はものすごく恐かったこと。
お師匠さんは、子供のうちにきちっと「型」にはめる使命感をお持ちだった。当時は、あまり抵抗もなく「真似び=まなび」していったと思うだが。あとから知ったことだが、そのお師匠さんは、創作舞踊の新たな道をお家元と共に、模索しておられた方だった。
さて、そうした稽古を積みながら、振りを覚えて、最後まで続けて踊れるようになると、お師匠さんの弾き語り、つまり長唄を歌いながら三味線を弾き、踊りの稽古をつけてくださる。そのときの気持ちよさは、それまでの稽古が、小さく報われるときだ。
そこで、もう一つの励みがある。
子供ながらにあこがれたもの。そのために一生懸命稽古をした思い出。
それは舞扇だった。名取さんや舞台で使用される舞扇の骨は黒の漆塗りで、描かれている文様がよく引き立つ。子供たちや、名取前の弟子は、竹や木の骨に、ニスをかけただけの舞扇で稽古する。それは稽古用の扇だ。
子供の目にも、黒の骨の舞扇のほうが美しく、それを持って大舞台で踊ってみたかった。
今思えば、たわいないことかもしれないが。
ある日、お家元の藤蔭静枝先生の総見が行われた。舞台前の総稽古とでもいうところだろうか。赤い大きなお座布団に、かなりのご年配のお家元が座っておられた。
その場は、なんともピリピリした雰囲気。
「いつもとは違うな!」
意識が生まれた瞬間だった。
舞台で、長唄・三味線・鼓・太皷などの地方さんをバックに踊る方が、よっぽど恐くないという体験をそのあとすることになるのだが、この恐ろしい体験があるからこそ、本番に強くなるわけだ。
そうした総見のときも、普段のときも、お稽古をつけていただく前には、舞扇を正座した膝の前に置き手をついてお辞儀をする。終わったあとも、同じように正座をして膝の前に舞扇を置きお辞儀をする。その前後のお辞儀のきれいな人は、踊りも上手かったと感じた記憶もある。
「日本の芸能は、礼に始まり礼に終わるのか」
今、言葉にしてみると、そのとき、子供心に感じたことだった。それは意識にのぼる以前の感じ方だったといえるような気がする。
因みに、昭和20年代後半から30年代にかけて、モダンダンスは江口隆哉、日本舞踊は藤蔭静枝といわれ、二人が戦後日本舞踊史に、「創作舞踊の双璧」として残る舞踊家だったことを知るのは、野口三千三先生を通してだった。