羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

名人は凄いー正月のカタルシス

2006年01月03日 10時16分58秒 | Weblog
 ~~~~~~三千世界に子を持った 親のこころは~~~~~
 伽羅先代萩“御殿”の場、クライマックスである。

 昨晩、坂田藤十郎襲名披露狂言の中継を見た。
 子供のころ「藤十郎の恋」を見た覚えがある。紫の御高祖頭巾(おこそずきん)をかぶった姿だけが、網膜に焼きついた一枚の写真として残っている。それが誰だったのかは、記憶の外である。
 藤十郎は、231年ぶりの襲名だという。この襲名という制度を、うまく生かして集客し伝統を守っている歌舞伎界と松竹は経営の才があると下世話な見方をする人もいる。
 まぁ、それはそれとして、初春にふさわしい縁起のいい興行になっていることは確かだ。
 こういうことは、嫌いじゃない。

 平成の坂田藤十郎は、上方から江戸に乗り込んで、正月に初日を開けた。
 さすがの名役者も、茶道具でご飯を炊き終わるあたりまで、固さが見られた。
 藤十郎の声のピッチとトーンが、浄瑠璃の語りの声と太棹の音色とに近すぎるきらいがあったのは、緊張のなせるわざとお見受けした。
 東京人には、江戸歌舞伎の花形女形・今は亡き歌右衛門独特の声色と所作がダブってしまっても、しかたがないこととお許しいただきたい。
 しかし、中盤から後半にかけて、そんなことは一掃され、画面に吸い込まれていった。

 そして「曽根崎心中」のお初の色香は、見ているこちらがゾクゾク・モゾモゾとしてくるほどに迫っていた。千数百回の公演回数だけあって、見事な舞台だ。数をこなすことの意味は大きい。
 そして「和事」とはよく言ったものだ。

 さて、野口三千三・名前の由来である先代萩の名場面を見ながら、芝居好きの先生のお祖父様が「三千三」と名づけた気持ちに合点がいった。
 この場面は、役者冥利に尽きる格好よさがある。
 身上を潰しても、村々をたずねあるいて芝居の指導に当たってしまったのもわかる気がする。そういう下支えがあって、歌舞伎の名役者が育つ。

 元日の夜に見たー“ちょっと昔のオヤジの魅力―山本晋也が語る「古今亭志ん生」”にも感じたことだが、日本の芸能の世界は、本質的に不条理劇なのだと。
 
 志ん生が8年間あたためてから高座にかけた「黄金餅」という落語にしても、合理性や表面の倫理観だけで解釈してはいけない深いものを潜めている。
 志ん生・空白の600日。志ん生が過した敗戦後の満州で見た地獄があってこそ、「黄金餅」由来の落語の面白さだと伝わった。

 志ん生の落語は、おぞましきもの、許しがたきもの、見たくも聞きたくもないもの、いや、だから見てみたい聴いてみたいと、怖いもの見たさの思いが募る世界を、カラリとさらりと笑いの中に投げ入れた。

 藤十郎は、お家騒動のどろどろを、カタルシスに昇華させていく伝統歌舞伎の美意識と形式美のなかに、人間洞察の深さを描ききってみせた。

 元日の落語、二日に襲名披露歌舞伎。
 実に、正月は、いいものだ。
 しかし~しかし~
「劇場に寄席に足を運んで見なければ! つくづく思った次第でござりまする」

 名人は、凄い。
コメント (1)
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