羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

記憶は残る・記録は消える

2006年01月20日 09時12分56秒 | Weblog
 敗戦後、日本は六等国になった、と言われたそうだ。
 二十代半ばで終戦を迎えた御歳八十六の方の言葉だ。

 しばらく前に、がむしゃらに一等国にならなくても、三等国くらいだっていいじゃないと思っていたが、昨年から今週にかけての国内を騒がせているいくつかのニュースをみると「なんてこった!」嘆かわしいことこの上ない。
 これでは、敗戦後の日本と一緒で六等国といわれてもしかたがない。
 いやいや国のかたちは崩れている、と思えてならないくらいだ。
 日本の首都、東京の証券取引所が、ストップするなどもってのほか、といわれてもしかたがない。
 巷では、昨日まで神輿上に載せていた人間が、落ちることがはっきりすると、とたんに手のひらを返してしまう。つばをかける言動も、品性としていただけない。

 さて、佐治さんからコメントをいただいた。
 野口体操に吸い寄せられるという感性は、似たような体験を共有していると思った次第。
 渋谷の街は、NHKの移転と西武の進出で、文化の街としてのいい匂いが漂っていた時代があった。
 同時期に、山手教会も前衛芸術を担っていた。
「ジァンジァン」会場だけでなく、教会でも演奏会が開かれていた。ストラビンスキーの「兵士の歌」なども初演され、教会の固い椅子に腰掛けて聴いた記憶がある。
 
「ジァンジァン」では、アキコカンダのモダンダンス「フォーシーズン」を見たことがきっかけで、この会場をピアノの会に使いたいと思った。会は、ここで10年くらい続けていただろうか。

 日生劇場のアンチ文化の場として、この小屋は時代をリードしていた。そのくらいの気概をもって、小屋にかける演目をプロデュースしていた。
 渋谷は、1970年代に差しかかるころから、80年代にかけて文化に活気を与える底力のあるエネルギーに満ちていたのだ。
 
 例えば、当時、津軽三味線が一般化するなどと、誰が予想しただろうか。
 高橋竹山の津軽三味線と映画は衝撃を与えた。いちばん驚いたのは、津軽出身者だ。昔からのこの世界を知っている人々の間では、「なんでこんなものが、東京でもてはやされるの?」という言葉までささやかれていた。
 
 時代は変わって、渋谷にあの当時の面影はない。
 昔はよかったなどというつもりは毛頭ない。しかし、バカがつく現在の渋谷の喧騒は、日本の姿の象徴かもしれない。

 竹筒を通り抜ける風の音がひゅーひゅーとなる。竹筒が触れあって揺れあってカタカタとなる。そんな音空間は、騒音にかき消されていく。しかし、音は人の記憶の中で生き続ける。
 寒風に不自由なからだを晒して、三味線を稽古するその姿も遠い昔話。

 さて、今の日本の姿は、いったいどんな昔話として記憶に残されていくのだろう。
 五木寛之氏は「記憶は残る、記録は消える」と著書に書かれておられる。
「なるほどなぁ~、名言」
 兎にも角にも、消したい記録をたくさんもっている人は、大変だ~!
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