羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

氷の粒粒

2006年01月06日 10時41分32秒 | Weblog
 40数年ぶりの大雪。
 小寒でこの寒さだと、大寒過ぎは、一体どのくらい寒くなるのかしら。
 被害にあわれた方々は、まったくもってお気の毒なことだ。

 実は、昨年暮れから、東京でも始まっていたことなのだが、今朝は盆栽の土の盛り上がり方が、いちばん凄かった。土の一粒一粒の形がはっきりと見える。
「いったいどのくらい水遣りをしたらいいのかしらん」
 とくに盛り上がりの大きな欅の鉢の前にしゃがんで、土の状態を覗き込んだ。
 すると粒粒の間から、氷の粒が顔を覗かせている。
 丸い水滴がそのまま凍った状態のようだ。直径は1ミリくらいだろうか。氷の粒はかなりの量ありそうだ。それが土を一粒ごと盛り上げているのだ。

「ぬるま湯でもかけたい」
 思うくらいに鉢から盛り上がっている。
「冬は、夕方に水遣りをしてはいけないよ」
 父がよくそういっていた。
 土のなかの水が凍って、鉢が割れることがあるらしい。

「なかはどのくらい乾いているのだろう」
 一見するくらいでは、わからない。
 後ろを振り返ると、水を溜めてあるバケツにも、氷が張っている。
 その氷を割って手に取り、厚さを測ってみる。
「思ったほどの厚さはない。こちらも3ミリあるかないかの感じかな」

 とりあえず如雨露で水遣りをすることにした。
 根元と幹と枝と葉がぬれる程度にとどめた。
 いつもなら表面が薄い茶に変色するくらい乾いているときには、小ぶりの銅の如雨露を使う。これは先が斜めにカットされていて、注射をするような感じで、土に直接水をしみこませることが出来る。
「土へ直接やるのは、止めておこう」
 結構、決断がいる。

 盆栽は父が長年丹精していた。
 最初の癌が発見されるすこし前から、徐々に差し上げたりして減らしてくれていた。何か予感とでも言うことなのかもしれない。それでも20鉢くらいは残っている。
 
 残った盆栽は、亡くなった年の春に、母が手伝って植替えをしてくれていた。
 元気に育っていたので、2年目の春に、今度は私が植替えてみた。
 その年は、はらはらしたが、なんとか無事にいてくれている。
 ただし、何処の枝を切っていいのか分からないので、とりわけ松などはボサボサ状態である。

 さて、こうした寒いときには、どのくらい水遣りをするのか、ちゃんと見ておけばよかった。今となっては遅い。
 そこで、神妙に、祈るような気持ちで、水遣りをした。
 不思議と、それを終えたときには、正月気分が薄らいだようだ。

 明日は松も取れるし、今年の幕が開く。
 一年、無事でありたい。

 それにしても寒い朝だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする