羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

昨日にひきつづいて

2006年01月16日 08時11分20秒 | Weblog
 MARさんから、示唆に富んだコメントをいただいた。
 納得ですね。何事も「やってみなければわからない」という、ある方の口ぐせがあります。その方は、解剖・脳科学者ですから。今度の鼎談の最後の言葉も「やってみなければわからない」だったと記憶しています。
 ありがとうございます。

 さて、今日は、昨日に引き続いて、「天皇と東大」からエピソードをひとつ。

 大学の成績が俸給に直結した話。
 明治22年大学卒業生の俸給は、次のように内訓が発せられている。
 試補採用俸給標準
 1、大学卒業平均点85点以上   年俸600円
 1、同      80点以上    同550円
 1、同      79点以下    同500円
 1、同      70点以下    同450円

 大学での成績が俸給に直結してしまったことを示している。これが東大の法科生の点数主義を決定的なものにした、と立花氏は書いている。そしてこうした状況を批判したのが、徳富蘇峰であったという。大学のためにも国家のためにもこれを廃止せよと訴えた。このような特権を与えることは大学の本質を忘れ大学を官吏養成所にしてしまうことになると徳富は言ったとある。

 この話は、明治22年当時のことではある。しかし、現在の大学が、それ以上にというかそれ以下に、軒並み職業訓練校になってしまっていると嘆く教官もいる。
 先日も、私がおこなった12月の特別な講義をコーディネートされた教授が、言ってくださったことがある。
「小さなナットクばかりで、大きな疑問をのこさない授業は、大学の恥だという考えがあるんです。今日の羽鳥先生の授業は、大きな疑問を学生に与えてくれました」
 後から考えると、そのときは褒められたのか、反省を促されたのか、よくわからなかったが、私の性格はもちろん「お褒めの言葉」と受け取って、嬉しそうな表情をしていたと思う。
さらに
「小さなナットクを積み重ねないと、不安になるので、ついついそうした授業に走ってしまう傾向が、今は多くなっているんですよね」

 今、高校・大学受験生をお持ちの親御さんの悩みは、どのくらい深いだろう。
 日本の大学はその歴史からしてヨーロッパの大学と異なっている。社会のありようそのものが大学に求めるものがどこか変だ。その弊害をもろに受ける普通の家庭の子弟や親御さんの苦しさが、青少年犯罪やひきこもり・ニートといった問題とまったく無縁ではないと、この本を読みながら思うことしきりである。
 
 職業に直結して学ぶ場は、大学以外にたくさんあることを、久しく忘れた戦後とりわけ高度成長後の日本人が多い。
「何を学ぶのか」「何処で何を学ぶのか」「何をどのように学ぶのか」エトセトラ。
 それを決めるのは、それぞれの「個人」なのだと思っていたが……。
コメント
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