羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

年賀状

2006年01月04日 13時17分26秒 | Weblog
 毎月『原子力文化』という日本原子力文化振興財団発行の冊子が送られてくる。
 野口先生が亡くなられてから、私のところに届くようになった。
 
 巻頭エッセー「自然の詩」を、動物研究家で歌人の高田栄一さんが、書かれていらっしゃる関係から、送られるようになった。
 もう何十年になるのかしら。

 いちばん新しい号は、お正月に届けられた。
 題して“「年賀状」私見”。
 年賀状のやりとりがされるようになった経緯が書かれている。
 この風習は、平安期の公家社会で、雅なあいさつとして始まったらしい。
 高田さん曰く「気楽な“遊び”みたいなもの……。時代とともに一般に浸透してくると、暮らしの規矩として居座ってしまった」のだと。
 
 因みに「規矩(きく)」という言葉は、もと、コンパス(=規)と物さし(=矩)のことだと岩波国語辞典にはある。そこから手本とか規則の意が生じたらしい。
 
 ところで、お年を召した方々は共通して、何時の時点で年賀状を止めようかと悩まれるらしい。
 とくに、齢八十を境に、面倒になるらしい。
 
 そういえば野口先生も八十路の大台に乗られる前年に、「来年から賀状は失礼します」と書かれた記憶がある。
 パソコンの住所録から印刷するということは一切なかったから、宛名書きだけでも相当な時間を要した。
「“あ”行から始まって、“た行”まできたところ。ちょっと買い物に出ます」
 ちょっとかすれた声が、電話の向うから聞こえてくる。
 つまり、一日では終わらず、何日かかかっていたのだ。

 高田さんも数年前から「待ち」に徹して、届いた賀状のなかから、顔や声の判別が可能な人へ出すようになさっておられるという。それが功を奏して、最近ではめっきり数が減っていらしたとか。
 ところが、「お元気だったんですか、よかった」と、新年に電話がかかるようになったとか。

 たしかにある年齢に達していらっしゃった方から賀状が届かないと、心配になってくる。
 それだけではない、若い方でも、年賀状が届かないと、昨今の不安な世情で息災なのか、と心配になることも多い。
 
 年賀状は、まさに「生の証」となりつつある。
 たしかに、元旦に、癌を患って手術された方からの賀状を束のなかから見つけたときには、「よかった」と、ほっとしたものだった。
 
 というわけで、ありきたりの言葉の年賀状でも、しばらくは出し続けようと思っている。
 せめて相手のお名前とご住所と、一筆添える言葉は、手書きにしているのだが、小学生並みの字では、その気持ちが果たして伝わるかしら、と思いつつも。
コメント
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