羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

再び「逆立ち考」1

2006年01月09日 10時05分20秒 | Weblog
 前にもふれたことがある。
 逆立ちができないと、なんとなくつまらない。
 それはなぜだろう。
 
 逆さまになる過程も、なってからも、そのなり方の「質」は問わないとして、とりあえず逆さまになれると嬉しさがこみ上げる。

「日常でありながら、日常でない。その感覚がいいだよね」
 ある人が言った。
「ごまかしがきかないじゃない。それもいいだよね」
 また、ある人が言った。
「なんとなく、できる・できないがはっきりしてるじゃない。逆立ちって」
 またまた、ある人が言った。
「ここだけの話だけれど、野口先生って、もう少しで逆立ちできそうに感じると、手伝ってくれて、タイミングよく引き上げてくれたよね」
「そうそう、最初のうちは怖さから、足腰が固くなって、どうしようもなかったのに、とにかく逆立ちってこんな感じだよって、味わわせてくださったわね」
 最後の言葉は、何を隠そう、私の言葉。

 野口教室に通い始めのころ、必ず最後にやっていた逆立ちのときの憂鬱さは、今でも覚えている。
 一生、逆立ちは無理だと思えてしまう。
 かなり強引に逆立ちしている人がいても、違いが見えなくて羨ましいばかり。

「これまで一度だって、やったことがないから、あきらめようかな」
 そう思いつつも、
「でも……」
 
 しばらくいろいろな人が逆立ちする姿を、羨ましげに見ているうちに、違いが次第に見えてくるようになる。
 するとまた、理屈をつけたくなる。
「野口先生のいっておられる逆立ちができてる人は少ないじゃない」
 自分を納得させようとするわけ。

「逆立ちができたらと言って、人格者として多大なる尊敬を受けるわけではないし」
 さらに、自分を納得させようとする。

「何をもってできると言い、何をもってできないというのか」
 最後は、ハムレット的に悩みだす。

「とりあえず、落ちても怪我をしないように、やわらかくほぐしてみよう」
 それから私の花嫁修業ならぬ、逆立ち修業(?)が始まった。
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