徳島鉄道風景(新)

昔の徳島の蒸機が尽きて関東中心にしてましたが
戻って来たんで、これからは徳島起点でやってきます。

糸崎な夜1971年8月、その4

2009-06-14 23:29:50 | 県外(糸崎、布原 ほか)

本題に入る前に徳島ネタ。

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きのうは特別な日だったので女房が買ってきてくれました。

残念ながら以前紹介した神谷町のコンビニではなく

有楽町の「村から町から館」です。

どちらも川島町の「おいし工房」製です。

「マヨ」とありますが、どっちかというとドレッシングです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

タイトルに戻ります。
糸崎駅での山陽本線夜行列車、その4になります。
日付は変わって1971年8月14日も午前1時を過ぎました。

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午前1時を過ぎたばかりの糸崎駅下りホーム。
天麩羅そばだけでなく売店も終夜営業、それほど夜行列車がありました。ペットボトルはもちろん未だなくて缶飲料さえ珍しいこの頃、当夜我々はもっぱら洗面所で水道水を飲んでいました。

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上とほぼ同じ構図ですが台車やベンチに座っているのは郵便車乗務(または積み卸し)の郵政職員の方々。当時はれっきとした国家公務員の皆さんです。まもなく到着する急荷31レ 1:07(汐留→熊本)を待っているのだと思います。前にも書きましたが、この糸崎駅は岡鉄郵(岡山鉄道郵便局)と広鉄郵の乗務境界駅だそうで当夜も何度となくこういう光景を目にしました。

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その急荷31レ(たぶん)が到着。急行荷物列車とあって停車時分は3分位。郵袋の積み卸しが大急ぎで行われています。

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↑207レ「天草」(京都→熊本、筑豊線経由)1:28だと言うことにしました。205レ「日南1号」(大阪→宮崎)0:40では、とずいぶん悩みました。上の写真で手前のBネは便所の窓形状からオハネ12と特定出来ます。ところが、
下の写真で続くBネは、同じく便所窓形状からスハネ16の様です。
3番線なので下り待避線。
手持ちの編成表では43系座席車・オハネ12・スハネ16と続く列車はありません。オハネ12はスハネ16と共通運用だったのでしょうか。そう考えて「天草」としました。というのは、
「日南1号」(下り)は寝台列車で座席は2両のみ、編成表ではスハ44+スハフ43となっています。一方、「天草」はオハ46やナハ10をずらりと繋いでいます。よく見えませんが、座席は2両だけではなさそうです。

※2011年1月追補
いつも勉強させて貰っている「客車倶楽部」様の掲示板によれば、
オハネ12の便所窓は中途よりスハネ16状の横長タイプに改修されたとのこと。
と言うことは写真の2両ともオハネ12の可能性が出て来ました。オハネ12が入って無い日南1号の可能性は無くなり、逆に「つくし3号」の可能性が強くなりました。

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↑上の写真の列車が待避中に4番線を通過していくEF66牽引のコンテナ特急。貨物とはいえさすが特急、定期急行を待たせて通過していきます。
安っぽい三脚をいっぱいに伸ばして載せているのは私のペンタSP(タクマー105㎜付き)です。

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↑209レ「日南3号」(京都→都城)1:41に違いないと思います。
オロ11を使用する列車は撮影時間中に桜島・高千穂や雲仙3号もありましたが、2両連続して繋いでいるのはこの日南3号(上りは1号)だけでした。
写真左端に写っている鳥の巣箱のようなものは郵便ポストでここに投函すると郵便車内で仕訳された消印が押されます。


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↑通過中の14M「月光1号」(博多→新大阪)と待避中の302レ「音戸2号」(下関→新大阪)1:57だと思います。
ホームの関係から上り列車なのは間違いありません。月光型は撮影時間中に金星、月光1・2号、明星1・2号とありますが定期急行待避中に通過するのは14Mだけのようです。(明星は明け方近くにありますが)

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↑今回、列車特定で一番悩んだ写真です。
時計の針は23:10頃とも1:55頃とも見えます。ところで右端を通過する列車はどう見ても「日向」です。下りの「なは・日向」は日中走行なので上りだろうと思います。上り2D「なは・日向」(西鹿児島・宮崎→大阪)は所定19:17分頃の通過なので、最初は2時間くらい遅れて通過中で時計は23:10頃だと考えました。しかし、
向かいで通過待ちのスハネ16のサボは大阪あるいは新大阪のようです。大阪・新大阪に上る寝台で一番早いのは304レ「音戸1号」の0:50。結局、時計は1:55頃で停車中の列車は302レ「音戸2号」(下関→新大阪)1:57ということにしました。

ひとつ上の写真の続きと言うことになります。望遠と広角は別のネガフォルダーに入っているので順序は特定出来ませんが。この仮定通りなら「なは・日向」は7時間近い遅れで14M「月光1号」続行していたことになります。

ネットで調べてみると「客車倶楽部」様の過去ログの中に
’71年8月、土砂崩れによる山陽線不通で「なは・日向」が岡山から伯備線・芸備線を迂回運転して広島に抜けたことがあった」
旨の記述があったのでひょっとするとその影響が出ていたのでしょうか。

代替輸送機関の少ない当時は、今のように簡単に運休とはせず何がなんでも目的地まで届けるのが特急のサービス、という様な気がします。
既にこの時、鹿児島線は全線電化が完成していましたが、日豊線は宮崎まで電化が届いていなかったため未だ82系DCでした。「かもめ」も鳥栖から先が非電化だったので同様に82系で岡山-新大阪間でどちらも一二回利用したことがありますが、車体はかなり疲れていました。
広島-岡山間では電車特急に10分弱劣りますが良く走ったなぁと思います。

 

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↑特急2本の通過を待ち(仮定)数分遅れの午前2時丁度頃発車していく302レ「音戸2号」(下関→新大阪)。
ホームのベンチにはまた郵政職員の姿が見えます。このあと2:10に216レ「つくし3号」(オユ10連結)、続いて2:22に1214レ「阿蘇」(スユ43連結)がやって来るので何れかを待っているんだろうと思います。

1971年8月14日の午前2時になったところで次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (5)
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