徳島鉄道風景(新)

昔の徳島の蒸機が尽きて関東中心にしてましたが
戻って来たんで、これからは徳島起点でやってきます。

中洲・末広’70年夏その2

2009-02-01 23:19:53 | 蒸機を撮んりょった頃に徳島でな

今回も3月の徳島蒸機最終日の記事まで時間稼ぎに前回の続きを。Nの瀬戸編成は今日も全く手つかずでした。先ず中洲の写真

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写真の反対側は福島川だと思います。1970(昭和45)年8月の撮影。

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最初の写真のすぐ近く、中洲と末広を結ぶ橋(新福島橋?)のたもとです。ダンプの走る道はかちどき橋の北詰めに出ます。練炭や豆炭を扱う品川燃料があった辺りです。

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謎の写真デス。一連のネガの中にあったので中洲か末広だと思うのですが記憶がありません。銅像の後ろは学校の体育館でしょうか。

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末広に渡って直ぐの所。対岸は県庁の先、万代町・昭和町あたりでしょうか。少し先には漁船の着いている水産関係の岸壁もあり捨てられる雑魚を目当てにいつもトンビが飛んでいました。末広に通い始めた頃にはこの辺から淡路島の福良を結ぶ「福徳フェリー」も発着していました。

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対岸は津田になります。今はもうないと思いますが当時小さな造船所があり鋲打ちの音が響いていました。写真の左側が新町川と園瀬川の合流地点です。

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出航する徳島フェリーの連続写真です。

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運ばれてきた材木を筏に組んでいるところ。貯木は筏にして川に置いておくのが一番良いそうで助任川や田宮川は貯木場となっていました。沖の方に津田の松林が見えます。下の写真で中央に写っている白い船のタイプを古い人は「機帆船」と呼んでいたと思います。この頃もちろん帆走設備はありませんが木造の船は未だ現役でした。レーダーもない「海上トラック」が紀伊水道を行き来していました。

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船から川に降ろした材木を今度はクレーンでトラックに積み替えています。福島の辺りは製材所や仏壇・家具を作る工場が多く冬になると塗装を乾燥させるストーブから引火してよく火事があった記憶があります。クレーンといえばこんなのがいました↓

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ナンバープレートがないので据置クレーンとして使われていたようですがアームを収納するために運転台が半分しかありません。

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末広港の貨物船。300トンくらいでしょうか、このくらいの船を自家用船にして瀬戸内海をのんびり廻っていたいなあと当時から思っていました。

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こちらも末広港。小さい頃、徳島港といえば中洲のことでしたがこの頃は末広になっていました。ところが去年久しぶりに船で帰省してみると沖の洲(の更に先)にコンテナ岸壁が出来ていて驚いたものです。

次回はやはり「鉄」の話題にします

コメント (6)
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中洲・末広1970年夏

2009-01-25 23:55:59 | 蒸機を撮んりょった頃に徳島でな

順当に行けば今回は「徳島蒸機最終日’70年3月30日から4月1日」となるところですが、これはやはり39年後の同月となる再来月まで延ばしたいので別の話を。「Nで急行瀬戸編成を・・・」の製作記事を載せたいところですが未だ未着工。一度塗料や工具を買いに行ったのですがいっぺんに揃えるには資金も時間も足りません。「めんどくさいなぁ」という気持ちが大きくなる反面、古い鉄道ファン誌で「すばる」の編成表を見つけ「瀬戸の次はこれやなっ」と夢ばかり先行しています。

この年の3月に蒸機が無くなってからしばらく写真は止めていました。が、船も結構好きで以前から自転車に乗ってよく見に行っていました。今回は1970年6月から8月に掛けて中洲~末広港で撮った写真デス。

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先ず一枚目は牟岐線新町川鉄橋北詰の蒲鉾屋さんの前から市役所方向を望んだところ。6月の撮影で雨が降っています。貨物の牽引機は当然DE10になっています。

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上の写真は8月、かちどき橋です。県庁旧庁舎がチラッと写っています。

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今度は右に90度回して眉山の方を見たところデス。この付近は蒸機の撮影に随分通いました。

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さらに進んで牟岐線のガードを潜って眉山を望んでいます。新町川の護岸工事がすっかり完成し今と同じ風景だと思います。

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この写真だけは3月31日の撮影デス。このGSは、かちどき橋から立体交差まで旧寺島側沿いに走る道路と向こう側に見えるかちどき橋から徳島本町の交差点に至る国道の両方から入れるようになっていました。今の東警察署と東消防署の中間くらいだと思います。

次は今回のスキャンでの新発見写真↓

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中洲で撮った共正海運の待合所です。この写真を撮った記憶はすっかり無くなっていますが、なぜ共正海運とわかったかというと

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次の駒で内部を撮っていて「甲山丸」(見えるかな)という船名があります。手元に残っているJTB時刻表1967(昭和42)年10月号によると、「徳島-阪神航路」の欄に大阪-神戸-徳島、共正海運、大阪20:30→神戸24:00→徳島6:00、徳島21:00→神戸3:00→大阪6:00、運賃一等980円・二等490円、就航船「甲山丸437トン、乙女丸347トン」とあり、当時2隻で毎日運行していた様子が窺えます。同じ欄には阿波国共同汽船も同区間を下り昼行・上り夜行(たぶん一隻での運行)で載っていますが就航船の記載が無く既に休航だったのかもしれません。(小松島-阪神航路には関西汽船との共同運行で出てイマス)

子供の頃、かちどき橋に一番近いところが阿波国共同汽船、一番河口寄りが共正海運(真ん中にもう一社あったように思います)で阿波国共同は郵船に似た黒と白の船体にファンネルに赤い線が入っていて普通の塗色だったのに対し共正は薄緑というか若草色というか変わった色の船だった記憶があります。確か同社のトラックも同じ色だったはずです。

次の手持ち時刻表は’69(S44)年5月号になります。阿波国共同(共同汽船に変わっています)は正式に「休航中」と表示されましたが共正の方は神戸寄港がなくなったものの毎日夜行一往復を二隻の船で頑張っています(但し土曜休航)。一方、徳島フェリー(共同汽船・共正海運)による徳島-深日航路11往復・モノクラス450円が見られます。

で、’72(S47)年10月号ではついに中洲からの貨客船による阪神航路は無くなり代わって関西・共同・共正3社による徳島阪神フェリーの大阪南港3往復と東神戸5往復が出てきてフェリー化が進展しています。

私自身はこの中洲からの航路は乗ったことがありません。我が家で大阪に行くときは小松島から南海で和歌山に出て電車で難波でした(一度だけ関西汽船で天保山に出た事があるような)。たぶん船が大きくて揺れない、かつ船に乗っている時間が短いという選択だろうと思います。

以下次号・・・

コメント (4)
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