カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

道徳の授業にうってつけ   ドント・プリーズ

2019-04-15 | 映画

ドント・プリーズ/フェデ・アルバレス監督

 盲目の老人の一人暮らしの家であることを確認の上で強盗に入ったのだが、この老人が退役軍人でめっぽう強く、逆襲を受け逃げ惑うことになる悪党を描いた作品。なのだが…。この老人には秘密があって、ただ強いだけでなく、別の事件に巻き込まれたようなことになっていく。強盗の身でありながら、事実上監禁状態に陥り、脱出をかけたサバイバルが展開されていくのであった。
 そもそも論というのがあるとしたら、この強盗が完全にOUTであろう。確かに老人の反撃は凄まじいが、彼は自分の命を守るためにやっているわけで、当然といえば当然だ。人も殺すとは言え、最初に銃を突きつけられ、いつ殺されてもおかしくなかった状況から、自らの力で抜け出して逆転できたのだ。さらに事情があって強盗の女性を軟禁しようとするが、これもちゃんとした理由がある。女性の側からすると耐えられないことには違いないが、そもそも映画的な文法から言って自業自得である。むしろ強盗の仲間の中の良心ともいえる立場だった青年は殺されてしまうのだから、この女性が生き残るのは非常に後味が悪い。おそらくそういう問題提起のなされ方が、この映画のもう一つの側面である。何かこれでいいのか不安になり、様々なクエスチョンは消化されることなく進んでいく。いったいなんちゅう映画なんだろうか。
 スリル満点で怖いわけだが、そのような疑問がいくつも浮かんで、うかうかしていられない。うーん、ここはこんなことしていいのだろうか、とか。こんな感情を持っているようだけど、あんたの性格のほうがわがままだよ、とか。突っ込みを入れながら観なくてはならない。盲人は同情のできる人で、そういう過去に相当なつらい思いをした経験があることが見て取れる。そういうことを特に掘り下げているわけではないが、そうであるならば、もう少し、暴れても良かったのではなかろうか。結果的に二度も娘を殺されてしまったようだったし。
 とにかく変な映画である。単なる娯楽作には違いないとは思うものの、そのようにして観ただけでは、本当には面白くないだろう。人間の善悪の問題など、道徳の授業にこの映画を採用すべきなのではなかろうか。
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チキンラーメンは食ってなかったが

2019-04-14 | 

 ドラマの影響もあってチキンラーメンの話題などもそれなりに聞く。久しぶりに食べてみたという話も。そこでびっくりしたのは、改めて美味しかったなどという感想があることだ。
 インスタントラーメンは美味しいと素直に僕も思うのだが、チキンラーメンはどうなのか。僕は子供のころ友人の家で初めてこれを食べたが、あまりのまずさにびっくりした。当時すでにマルタイ・ラーメンやら別に袋ラーメンは売られていたと思う。食べるようになったのは小学校高学年になってからだと思われるが、その時であってもチキンラーメンというのはすでに少数派だったのではなかったか(少なくとも九州ではそうである)。明星にチャルメラというのがあったが、これがしょうゆ味で今一つである。他もしょうゆ味というのは大手に多いが、やはり九州では今一つなのではないか。転校生が長崎に来て、しょうゆスープが少ないので旨くないといっているのを聞いて、なんという狭量な子供だろう、と思った思い出がある。その後満を持して「うまかっちゃん」が登場すると、それらのラーメンには見向きもしなくなった。一部の人がノスタルジーで「これだ」を食っている、という感じだったのではなかろうか。
 インスタントは体に悪いという印象がずっとあって、だから親から隠れて食べるおやつのような位置にあった。家庭でも食べはするのだろうが、基本的には親のいない半ドンの土曜日などに皆で集まってワイワイ食べる。金持ちがカップラーメン(値段が袋めんより高い)を食べる。そういう階層はあったかもしれないが、それなりに平和な日々だった。しかしチキンラーメン買ってくる奴なんていなかったな。
 まんぷくさんは偉い人だと思うが、その時代になるとすでに過去の人だったかもしれない。いや、その後神格化していったのか。九州を離れると見たことも無いインスタント麺が売ってあったりして驚きもした。ご当地で生産されている商品は違ったのだろう。また中国に留学している時も、実に様々なインスタント麺を見ることができた(実際に食べた)。これは国際的な潮流なんだなあと思ったものだ。そうい意味でパイオニアは凄かった、ということなんだろう。
 今はノンフライ麺が主流である。ますます発展の余地が見て取れる。本格的なものを手軽に食べるというのは、実際ものすごく難しい開発が必要なのだろうけど、しかし実現していくのである。そういうことを考える人たちがいて、本当に良かったなあ、と思うのであった。
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尊敬と憎悪は紙一重   笑う故郷

2019-04-13 | 映画

笑う故郷/ガストン・ドゥプラット、マリアノ・コーン監督

 アルゼンチン、スペイン映画らしい。主人公はノーベル文学賞を取って英雄になっている。様々なところから講演依頼が来て引っ張りだこの状態であった。そういう中アルゼンチンの田舎町から名誉市民にしたいという依頼が来る。若いころに町を離れて以来、一度も帰ったことはない故郷なのであった。なんとなく興味を感じたのか、忙しい中にもかかわらず無理にスケジュールを空けて帰省することにした。
 まち出身の作家がノーベル賞を受賞したのだから、田舎町は大騒ぎである。ところが一方で、小説では故郷の町を悪く書きそれを売って金を稼いだと見ている連中もいる。小さい講演会では妨害が入るようになる。また、熱烈に歓迎してベッドまで共にしてしまう若い娘は、以前の友人の娘だったりする。何か大きく歯車が狂ってしまった状況にあって、作家は街の中で孤立し、どんどん顰蹙を買って、身も危険な状況に追い込まれていくのだった。
 妙な田舎のテンポのようなものがあって、スペインから帰ってきた作家にとってみれば、最初からどうもなじめない感じだ。確かに出身の町なんだし、懐かしくないわけではない。しかし自分はどうしてこの街を捨ててしまったのかも、同時に確認しているような状況になっていく。基本的に言われるままスケジュールをこなそうとするが、様々な思惑の中頭が混乱して自分がどうしていいのか見失いそうになってしまう。男女関係や小説と虚構が入れ混じって、自分のやってきた芸術というものが何なのかも、問われることになっていく。そうしてその自分の声が、確実に町全体の反感の的になってしまうのであった。
 なかなかに恐ろしく、傑作である。いったい何という映画だろうと途中あきれてみていたが、シリアスな部分も含め、狂気が徐々に充満していって、どのような形で爆発するのか冷や冷やしてしまう。実際とんでもないことに発展するが、結末も見事だろう。映画の勝利とは、このような作品を指して言うのではないだろうか。
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お互いの理解の壁を超えるためには   レインツリーの国

2019-04-12 | 映画

レインツリーの国/三宅喜重監督

 難聴のヒロインと付き合う過程で苦労する話と、そのヒロインの自立を描いた作品ともいえる。障害のあるために誤解を受けやすく、また自分自身に自信を持てていない美しい女性が、様々な困難にただ苦悩するだけだった。しかしそのことを理解してくれる素晴らしい男性が現れて、いわば強引に彼女を変えていくのである。マイ・フェアレディの別解釈映画なのかもしれない。
 障害関係のドラマというのは、とらえ方に難しいものを感じないわけではない。単に苦労を乗り越える感動モノでも胡散臭いし(いわゆる感動ポルノというか)、だからと言って突っぱね過ぎても、よくわからないということはある。ありのままが分かりにくいからだ。それほど共感というのは、立場が変わると難しいということはあるかもしれない。また、ヒロインの難聴の障害程度が極めて見た目で分かりにくいというのがある。それが物語の発端における男女のすれ違いにも表れるわけで、そういうところがお話を作るうえでの大きな転換にもなっている。障害をある程度思いやっていても、誤解してしまうところはいくらでもある。そういう意思疎通をどうするのかという問題を正面から考えるべきなのだろう。それにはお互いが変わらなければならないわけで、その変わるためにはこのような方法が必要だったということなのだろう。
 男性の話す音声ならば、一定の条件下でかなり聞き取れるという設定なのだが、やはりそれを補完する別の方法も考えたほうが良いようにも感じた。障害を持つ方に、何か負担が大きいような印象を受けるからだ。男性は一定以上優しい人間であるということなのかもしれないが、そういうところに少なからぬ尊大さが見て取れる。面倒な方を選ぶという考え方そのものに、何か欺瞞も感じる。それが障害モノのむつかしさかもしれないが、好きなんだからそのめんどくささに身を投じるという素直さがもっと前面に出たほうが、お話としては良かったのではなかろうか。好きじゃなきゃそうまでしないというのが良くないのかもしれないが、若いんだからそうだっていいじゃないかとも思う。偏見というのは案外そういうところから打開できるものだとも思うし、相手を知りたいという欲求が強いというのは、そんなに悪いことでもないだろう。
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選挙カーが走っている理由とは

2019-04-11 | culture

 選挙が始まると毎回、選挙カーがうるさいとか、意味がないとか、マイナスだとか、日本だけ、というような意見が増える。僕自身も、ある程度はごもっともかなという感覚はあるものの、しかしながらこれらの意見が間違いであることを知っている。選挙制度が違うので致し方ない結果が選挙カーなのであって、ましてや日本だけの風景ではない。まあ、アジア的ではあるのだろうけれど。
 日本だけが特に違うのは、戸別訪問の禁止であろう。選挙期間中にこれができないのは、聞いたところでは日本だけのようだ。要するに多くの国では、選挙期間中に大勢の候補者その他が、家に押しかけてくるわけだ。さらにテレビCMやラジオなど、選挙の広報があふれる。プラカードを持った人々が練り歩いたり、ビラが散らかったりする(そのあたりは日本にもあるだろうけど)。街頭の演説は日本以外にもあるし、広場での演説も普通だろう。集まるように呼び掛ける運動も頻繁に行われているようだ。別段運動家でなくても家々に誰の支持者か旗を立てたりして、意思を表示する人々も多いようだ。戸別訪問があるので、そのようにしなければ面倒というのもありそうだ。要するに選挙カーが無くても、それなりにうるさいのに変わりはない。むしろ日本の選挙は、選挙カーであっても誹謗中傷は少ないし、礼儀正しいという意見も、外国人からそれなりに聞かれることである。もっとも言葉が分からないうちは、うるさいだけであるようだけど、意味が分かると考えが変わる人が多いようだ。選挙カーがかち合っても、相手に敬意を示すなど、日本人らしいと感心する人もいるようだ。面白いので写真にとる外国人も多い(選挙のない中国人も面白がっているようだ)。うるさいながらに整然としたコントラストが、日本の風景として、それなりに興味深いものがあるようだ(いつもは静かな日本人が、カラフルに派手にふるまうのも面白いらしい)。
 意味がないというのも嘘で、投票行動に実際に結びついているという科学的な根拠もある。選挙というのはお祭りなので、うるさいのは当たり前ととらえている人が多いのだ。祭りには神輿が街を練り歩くわけで、基本的には同じようなものだという認識があるのかもしれない。また、選挙カーを待ちわびている人の方が、実際には多数である。選挙カーが来ないのは、無視されているせいだと感じている有権者も多い。くまなく車を回そうという配慮は、そのような要望に応えてのものなのだ。
 また投票にはマイナスであるという意見もあるが、そのような意見の人はそもそも投票に行かない(行っていない)というデータがあるようだ。投票行動に関係がないうえに、残念ながらマイナスの影響もないわけだ。
 ただし、実際に選挙カーがうるさいのは事実であるし、改善の余地はかなりある。規制する方法もある。一番の近道は、実際に投票に行かずにうるさいと苦情を言っている人々が、投票に行くことである。これが一番早い。投票しない人間の意見を聞く政治家はいないからだ。そうして彼らが法律を作るわけで、投票に優位性があらわれている選挙カーを規制する動機にはならないだろう。日本の選挙制度は、有権者の感覚とかなりずれのあるものであるのも事実だろう。要するに古いわけで、戸別訪問や討論会や演説会の開催のされ方など、いくらでも改善の余地がある。記名方式の投票方法なども、見直した方がいいだろう(特にネット選挙の解禁は必須だろう。また民意を反映させるためには、ボルダ方式も採用されるべきだ)。つまるところ、そういうことに手を付けない政治家を選んでいるのは、有権者なのである。選挙カーが走っているのは、選挙の結果が物語っているに過ぎないのである。まったく残念なことだけれど…。
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グロだけど美しい愛   シェイプ・ウォーター

2019-04-10 | 映画

シェイプ・ウォーター/ギレルモ・デル・トロ監督

 アマゾンの半漁人をつかまえて来て研究している施設があって、そこで働く耳の不自由な女性と、その不思議な能力も兼ね備える半漁人との恋のようなものを描いた作品。なんか変な感じではあるが、閉鎖社会におけるどろどろの人間ドラマが展開されて、なかなかの力作という感じである。
 実験のためだとは言え、かなりの知性と意思疎通の可能な半漁人を、実質上ほとんど意味なく連日拷問にかける研究機関という設定がかなり怪しい。ここは本当に地球上のお話なのか、という感じかもしれない。冷戦の時代背景があり、半漁人が、そのような兵器として利用できるものではないかと考えているのかもしれない。意思疎通ができるので、そういうのはまず本人に聞いてみたほうが早いのではあるまいか。また、半漁人にも社会があるはずで、そういう調査も同時に進めるべきだろう。たまたまこの個体しか捕まらない何らかの理由のほうが、もっと重大なような気もする。
 もっとも耳が不自由でそもそも意思疎通が簡単でない女性だからこそ、半漁人と通じ合う、または共感しあえる立場にいたという話である。そうしたところが物語のキモだというのは分かる。性描写がリアルだったりして、そういうところが話題でもあったようだが、映画として異形のものと人間の交わりを描くうえで、監督が必要だと思っていたのだろう。そういうところが確かに映画的には良くできていて、何か単純そうな設定にありながら、それなりに感動的な展開になっている。いわゆる美男美女の愛の物語でないけれど、夢のような深い愛を描くことに成功しているのだ。この映画がそれなりの共感を持って受け入れられたのは、そのような一種のグロテスクさに、正面から向き合ったためではなかろうか。
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いけっ、イノベーション!

2019-04-09 | 掲示板

 陣営に入ってくる情報というのは、当然ながら持ってくる人の思惑が少なからずある。逆に僕から何か引き出そうと考えて話しかけてくる人がある。そんなに意識的ではなかったけれど、ちょっとした駆け引きが生まれるものがあったようだ。
 一般的なものをまとめて考えると2強の次に追いかける三番手があって、その次である。というもの。競ってはいる。と付け加えの言葉がある場合がある。立民においてはプロが入っているようだし、古くさかのぼって前身民主党時代Tさんの時代には、十分7~8000票はとれたはずで、五つ巴の状態なら勝算があるということだろう。後に共産とも手を取ったと聞く。もっともそのために、そもそもの支援者のいくらかは離れたという話もあった。
 三番手の奥さんの人望があり、いわゆる浪花節的には高齢層に一定のシンパシーがありそうだということも聞いた。後半確かに躍起になって動員しているという話も聞いており、やはりどの陣営も力を出している空気は伝わってきていた。当然二つの巨大組織陣営の動員力はすさまじく、どこにも人が大量投入されて支援者の色で染めていく。圧倒戦略ということなんだろうと見て取れた。これがどれほどの効果があるのか分からないが、一部の人間をナーバスにさせる力があることは確かなようだ。うちの陣営でこんなことはそもそもできない。少ない人数で悲壮さを演出でもしてみるか、などと力のない冗談を言う程度である。
 街頭に立ったり練り歩いたりというのはしているが、街宣車のウグイス嬢から、やっぱり本人が車に乗っているときのほうが、ノリが良くて楽しいという意見が聞かれる。事務所の雰囲気もいい。戦っているが締め付けるものがそもそもないので、素直に頑張る力を出せればいいという感じだろうか。さらに面白くなってきているのだから、ちょっとしたいい力も出てきているのではなかろうか。
 反応は悪くないのである。期日前投票済ませたよ、とか、家族にもちゃんとお願いしたよ、とか。電話はもちろんラインなんかにも頻繁に連絡が入る。うれしいが、同時に不安も覚える。良い状態には落とし穴があるのではないか。そんなことばかり頭をもたげるようになる。そんなに悲観論者ではないが、思いが強くなりすぎるといけないのかもしれない。
 投票日は長い一日だった。少し遅めに起きはしたが、ふつうの日曜とは違う朝だ。新聞読んでもブログ更新しても、違う朝だ。録画している番組をチェックしたり、少しだらだらしたりして、どうにも落ち着かない。母を連れてようやく投票に行くが、ほとんど人のいない投票所でスムースに事が運びすぎる。何もかも穏やかで、何か引っかかるものがない。雑誌を読んで小説をつまんで、そうしてテレビ見て、近所の公民館に向かう。班の花見なのである。一年に一度しか顔を合わせない人がほとんどだけど、それなりに話は弾む。世代も事情も超えて、ふつうの世話話をする。良く聞こえてない人もいるが、それはそれで構わない感じである。聞いた話もあるが、そういえば数年前のことだろうことで、そんなに煩わしいことではない。
 すぐにお開きになって、買い物行って、さすがに夕方ぐったりして少し仮眠した。
 家にいるので愛犬が落ち着かない。しかたないので散歩に出て、そうして食事に出て、シャワーを浴びて着替える。そんなふうにしてやっと時間をつぶして、遅めに事務所に向かった。ちょうど開票するというテレビの画面があって、しかしさらに一時間半後に一回目の中間発表をやるという。とにかく時間が遅く進む。開票は遅々として進まない。いや進んでいる様子なのに発表がされないのである。いったい何をやっているのだろう。お隣の諫早市は当確発表が出て開票速報がどんどん出る。大村はシラーっとしている。あることをそのまま流すことを、なぜできないのであろう。そうしてすべての陣営の票が2500票と出る。どよめきとともに怒号も漏れ聞こえる。何か開票作業に悪意がこもっているようにさえ感じられる。
 また長い時間。開票所に行っている連中からぼちぼち選対に連絡が来ている様子。いよいよ90%開票状況が伝えられてくるはずだ。11時、また人が増えてきている。近寄ってきて、それなりによさそうですよ、と伝えてくれる人がいる。ふーん、そうなのか。そしてテレビの発表。三番手か? 大変などよめき。いや、これで決まりだろう、と誰かが叫ぶ。電話がぶるぶる震える。誰かに呼ばれる。やったやったの声が上がって、皆の声が歓声に代わる。テレビ局も来た。良し、誰が司会やるんだっけ。始めよう!
 何かグダグダ話したが、もちろんその場で思ったことをダダ流した。何もかも許される気がしたし、皆の笑顔がまぶしかった。現実ってなかなかいいな。いや、こんな現実少なかったな。人々もなかなか帰らず残っていろいろ話をしている。様々な人にあいさつをもらって、再度万歳してお祭りである。これから俺は何をやるんだっけ? まあ、そんなことは後で考えよう。他の人が何か考えてくれるのだろう。

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薬院でベトナム料理

2019-04-08 | 散歩
 訳あって博多来ました。


 なぜか昼飯は納豆スパゲティ。



 そうして散歩に出たのです。



 歩きだしはだいたいいつも適当です。


 桜坂って駅のようだ。


 たぶんなんとなく大濠公園方面に向かっているようだ。



 このあたりから通りを変えてこころもちターンしてみる。


 護国神社。



 けやき通り。




 車では通ったことあるけど、歩いたのは初めてだったかもです。



 薬院六角かな。



 戻ってきたんだな。


 電話で聞くところによると、まだ時間あるそうです。


 ならば遠回りして。


 平尾まで来ちゃったな。


 先ほど大通りから参道が続いてた神社だな。


 宇賀神社。



 むむ、これはなんとなく覚えがあるような無いような。


 以前友人たちに連れて行ってもらった店だよ、きっと。


 まだ開いてなかったけど、すでにカップルなんかが見学に来てた。さすが有名店だね。



 妙なお寺は光専寺。





 その後戻って買い出しなんかにも行きました。



 用事はすべて終了。飯食って帰りましょう。


 どういうわけかベトナム料理を選択。いろいろ面白い味して美味しかった。今度は飲みに行きたいな。





 おなか一杯になりました。ごちそうさまでした。

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王道恋愛エンタティメント(おそらく十代女子対象だが)   未成年だけどコドモじゃない

2019-04-07 | 映画

未成年だけどコドモじゃない/英勉監督

 原作は漫画のようだ。僕は出演者をほとんど知らないので分からなかったが、アイドル映画というわけでは必ずしも違うような気がした。いわゆる恋愛エンタティメントに徹した作品である。ミュージカル作品ではないのだけれど、歌や踊りもあったりする。気恥ずかしさがないわけではないが、楽しい作品なのである。
 貴族のような大金持ちの娘である主人公は、誕生日のプレゼントに、学園でも顔がよくてサッカーの得意で勉強もできる大好きな先輩との結婚を贈られる。両親が金にものを言わせて仕組んだものだったが、ボロ家だけど新居をかまえ高校生ながら同棲生活が始まる。しかしながらこの計略結婚は、旦那である先輩は形だけのものであるとし、顔だけで人を選ぶような女は大嫌いだといわれ、部屋も別で、学校でも秘密という条件を突きつけられるのだった。超お嬢様のカリンはそのような状況の中、召使がいなければ何もできない人間ながら、
先輩の愛を勝ち取るために、何か不思議な天然のボケた力を発揮して、最大限の努力を積んでいくのだった。
 とにかくこの絶対的におかしな設定の中にありながら、リアリティのかけらも無いにもかかわらず、物語はどんどん進んでいく。強力なライバルもいるし、完全にアウェーの戦いであるのだけれど、何の悲壮感もなく難局を打開していく女の姿が清々しいのである。顔がかっこいいという理由だけで、好きだという感情を正当化して突き進んでいく姿が、何物にも代えがたく強い愛だというところが、何より素晴らしいのである。愛に理由なんていらないのである。
 どうにもバカバカしい映画ではないかと思われるかもしれない。事実はその通りなのだが、僕はこの英勉監督の「ヒロイン失格」というのを先に観ていて、完全に考えを変えた人間である。馬鹿映画だけど素晴らしいものは素晴らしい。この監督作のほかのものはどうなのか? そうして一応予約しておいたものだったのだ。結論を言うと、やはり素晴らしい。主人公の可愛らしさも十分に伝わるし、愛されているライバルとの駆け引きも、コメディとしてのわき役の使い方も見事である。そうして愛の対象の白馬の王子様を獲得する展開も見どころ十分である。このような映画こそ、娯楽作品の頂点なのではなかろうか。
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グラバー園そばを歩く

2019-04-06 | 散歩
 会議まで時間があったので散歩しました。


 長崎市内でも、あんがいこのあたりなじみ無いんですよね。


 グラバースカイロードってやつですね。エレベータらしいですが、かっこいいです。


 何となくこっち行きます。



 ちょっと、昭和っぽいですね。



 オランダ坂通り。


 孔子廟ですね。


 電停(大浦天主堂)。


 海からの引き込みなんでしょうね。






 ということで、午前の会議に臨んで、そうして終えて昼食になりました。


 食べた残りの休憩時間もちょっとだけ歩きました。
 長崎バス松枝営業所。


 レンガ倉庫通り。




 午後もみっちり総会で、疲れました。

 夜は写真も撮らず、騒いでいたようでした。

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何か新しく強い女性像なのかも   エルELLE

2019-04-05 | 映画

エルELLE/ポール・バーホーベン監督

 冒頭から女性が自宅でレイプされる。これを演じるイザベル・ユペールは当時60は過ぎていたというが、設定上40代後半(か、せめて50くらい)くらいの女性と思われる。それだけでも脅威の作品なのだが、この女性がかなり変なのである。レイプされても警察に通報しようともしない。徐々に明かされていくが、子供のころに父親が虐殺事件を起こしており、その現場にいた影響で、警察やマスコミを毛嫌いしているということのようだ。レイプ犯は当然許せないが、何か防衛や反撃を考えている様子だ。そういう中経営している会社内部に、自分をレイプするゲームの場面が流されたりする。誰か身近な人がレイプ犯としか考えられない。また、誰かに監視、もしくは盗聴されているような気配もある。そういう中にありながら、元夫やセックスフレンドや、おそらくレズ関係や隣人の性欲をそそる男など、欲望に忠実に生活しているように見える。気に食わないことは山ほどあるが、それらに屈しない強い女だったのだ。
 映画としては絶賛され、暴力が好きなバーホーベン監督はすっかり復活を遂げた(とはいえご高齢なので、次作があるのか?)。当然主演を演じたユペールは、女優として大絶賛を受ける。フェミニストには面白くない作品とも言われているが、この変態的で不可解な女は、一躍理想の女性像に持ち上げられた格好かもしれない。僕にはほとんど意味が分からなかったものの、とにかく凄い人だなという印象は残る。人間関係のむちゃさはもちろんだが、嫌われていることに自覚がありながら、強がってそうするのではなく、自然でいられるという意味では、確かに理想の人間像かもしれない。とても現実にはなれそうもない人物ではあるけれど。
 理解できないまでも面白く観られるのは、展開が予測しにくいからだ。いわゆる常識的に考えるとそういうことはしないはずだが、それが荒唐無稽でシラけるわけではない。なんでそんなことを! と思いながら目が離せなくなるのだ。どう考えてもまずいことをしているし、さらに非常に危険だ。やばいんじゃないかとヒヤヒヤするが、腕力でなくその場を乗り切る力がある。いや現実には激しく男に犯されたりするのだが、それが必ずしも悲劇的なだけではないのである。共感ができないのに、興味が薄れないからこそ、映画として絶賛されたのであろう。まあ、人は選ぶのだろうけど。
 これだけ人が傷つき傷つけられるにもかかわらず、そんなに後味が悪いわけではない。もちろん清々しい映画というわけにはいかないが。暴力あふれる世の中で生きていく方法としては、ひょっとすると参考になる人はいるかもしれない。
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人間が生きている意味を問う(のかもしれない)   今夜、すべてのバーで

2019-04-04 | 読書

今夜、すべてのバーで/中島らも著(講談社文庫)

 著者の中島らもは、たぶんアル中だったらしく、この小説は自己の体験をもとにして書かれたものであるような感じである。著者は故人なので、どこまで本当なのかはわからないけれど(研究者や身内は知っているだろうけど)、かなり生々しいアル中闘病記である。日頃アルコールを飲む人も、またそうでない人も、そうしてその家族にとっても、身につまされるというか、大変に勉強になるお話ではないか。
 人が酒を飲む理由というのはいろいろあるのだろうが、日常的に酒を飲むようになると、このアル中への恐怖というものがある。煙草や酒は体に悪いらしいことは知っているので、常習しているひとは、緩やかに自殺をしているようなものである。百薬の長という言葉はあるが、酒が体にいいということは恐らくなくて、酒を飲むことで食欲増進になる場合があって、そういう人にとっては、あるいは体にいいことも無いではないという程度のことだろう。アルコールを毎日飲むような人は歴史的にもたくさんいたのだろうけれど、これほど自由に誰もが酒を飲んでいいという時代になったのは、比較的にそんなに歴史のあることではない。そうすると一定の人の中に、いわゆるアルコールに依存するような人が出てきたわけで、これが一種の社会問題のようなことになる。酒は法律でも飲んでいいことになっていて、成人なら大手を振って飲んでよろしい。しかし酒を飲んで困るのは、酒を飲みながらできることが限られてくることだ。自分の自由な時間にどのように飲んでも良いのだが、この酒に酔ったり、その後具合が悪くなったりすることで、困ったことになるというのは、だからそれなりにありふれている。飲酒運転のように反社会的な危険行動というのもあるが、酒に酔うと、脳の機能がアルコールでマヒするのであるから、それ以外にもたいへんに危険なことがたくさん起こりうる。運良く生き延びても、常習的に飲んでいて、内臓の調子を崩して亡くなる場合もあろう。自殺なのだからそうなるわけだが、果たしてそれでいいのか、という問題になると、良いわけが無いということになる。しかし酒を飲むのは人間の生活の中ではそれなりに楽しいこともあるわけで、そういう人間的に生きているということを考えると、いくらでも言い訳はできてしまう。そこがアル中の生まれる大きな要素になっていて、その困った理屈を掘り下げて考えていくと、このような面白い小説になってしまったということになるんだろう。ものすごく恐ろしいホラー小説でもあるわけだが、同時に非常にユーモラスで、楽しくてやめられない文章の魔力がある。このドラマを読んだおかげで人生が豊かになるような、不思議な読後感のある物語である。
 何となく自分の考えていることも整理できる。なぜならアル中の言い訳というのは、どことなく共通感があるからだろう。僕はアル中ではないが、アル中の人が自分がアル中であると自覚的である保証はない。一つだけ分かったことは、アルコールを目的にしない生き方が正しいということだろう。そうして人というのは、そのような目的のない人生を送るべきなのだ。非常に綿密に資料を調べて書かれた小説でもあり、普遍性がある。だからこそ名作として後世に残すべき作品といえるだろう。
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新元号の話題は続く

2019-04-03 | 時事

 もうどこに行っても元号をめぐる話題でいっぱい。それだけ注目が集まっていたことを改めて感じさせられる。昭和天皇の崩御の前には、やはり新元号のことを語ることは憚られるところもあったと思われるが、今回は堂々と新元号の話題を取り上げることができたわけで、事前に盛りあがる素地ができていたと考えられる。古典を根拠に決められるにもかかわらず、その出典を無視した議論が多かったのは問題だったと思うが、何しろ皆が古典など知らないのだから仕方のなかったことかもしれない。日本人の知性の低さが際立ったということだろう。
 しかしながらローマ字表記の頭文字の関係で、M、T、S、H 以外ということは分かっていたわけで、そこから類推される漢字を並べて、KやRはあるという議論はあったようだ。しかしながらRは日本人の発音からいってなじみのなさや難しさがあるという意見もあって、もっぱらKが第一候補とみられていた。さらに「昭和」があるのだから「和」の入る可能性は低いとも考えられていた。そういうわけで、「令和」という元号はそれなりに意外性の面では際立っていた可能性が高い。予想通りだったという人が、たったの二文字当てにもかからず極めて少なかっただろうことが予想される。
 令和という独立した意味のある単語は無いけれど、同音であれば「例話」というのはある。しかしながらあまり一般的には使われていない。レイと同じ音の漢字ならいくつかあるが、霊は? とか、例は? とか、礼は? などと混同される可能性も低いように思われる。洒落としては使われそうであるが、たいしてウケはしないだろう。
 4月1日に発表された(そういえばエイプリル・フールは盛り上がりを欠けた)ということで、新年度のスタートと受け止めた人も多いようだ。3月いっぱいで平成が終わったと勘違いしている人がそれなりに見受けられた。そういうことにすぐに突っ込む姿もあちこちで見られ、これも混乱の一つだったとは考えられる。これで平成31年度はひと月ほど使われるだけになった。5月を境にしばらくは混乱はあるかもしれない。
 さて、いずれは慣れるだろうにせよ、皇太子の年齢を考えると2~30年程度の使用期間になるのだろうか。僕は昭和生まれだから、三つの時代以上が有るのか無いのかということになる。特に次の元号の時代を見てみたいわけではないが、ちょっと寂しい気分はあるかもしれない。
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雀田駅。もう見ることも無いだろう

2019-04-02 | 散歩
訳あってこの風景ともお別れだな、ということになる。実は四年ぶりでもあるわけだが。



 めったに通らない電車道。

 

 だから線路を歩いても何の問題も無い。時刻表は知らないけど、何にも怖くない。僕の地元でも一時間に一本くらいは汽車が通るけど、ここはそんなに通らないんじゃなかろうか(知らんけど)。



 のどかでいいところですよね。




 あれが雀田駅。四年前と色が変わってた。



 車は通れない道。



 ということで、見納め散歩でした。






 昼飯は、息子が友達と時々食べに行くというお好み焼き屋さんに行きました。



 家族で切り盛りしているようなお店で、お客さんもおなじみ感のあるアットホームなたたずまいであります。
 お好み焼きも、広島風と大阪風が混ざったような感じで、ボリュームがありました。



 ごちそうさまでした。


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多少馬鹿でも深い愛はある   カプチーノはお熱いうちに

2019-04-01 | 映画

カプチーノはお熱いうちに/フェルザン・オズペテク監督

 批判もあるようだが、題名からはイタリア映画であるという雰囲気だけを伝えている(内容とは無関係)。ある男女の恋愛劇を時系列を変えたりして描いた作品。三角関係なんかもある。若く情熱的に愛し合った二人だったが、13年ののち倦怠期を迎えている。そういう中女は癌であることが分かる。しかし病気が分かってからも夫は、変わらない愛情であることを証明しようとする。まあ、ほかにもいろいろあるが、だいたいそういう感じで感動モノのような感じだ。風変わりな人々がたくさん出てきて、これが自由なんだという意味なんだろう。日本人に比べたら、イタリア人は皆異常な感じかもしれないが、そういう人とたちの中でも外れてしまうような人々なので、かなりぶっ飛んでいるかもしれない。要するに異常に見えても、二人にしかわかりえない愛というのはあるのであった。
 特に成功している演出だとは思えないのだが、男は馬鹿かもしれないという映画かもしれない。ある意味で真面目なんだが、そういうものをあまり女性は直接的には分かりにくいということなのかもしれない。確かに誤解を受けることはしていたわけだし。
 あまりふざけたことはしないということでは、イタリア的な恋愛映画ではないのかもしれない。それは一種の偏見だが、まじめでシリアスなものだって作れるイタリア人は居るようだ。結果的に面白いかどうかは、よくわからないのだが…。
コメント
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