カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

隣人が襲ってくる

2016-07-30 | HORROR

 ボスニア・ヘルツェゴビナのオマルスカ強制収容所のドキュメンタリーを見た。銃撃戦などをやっている建物の痕跡がいたるところに残っており、まさに戦火の傷痕はそんなに昔のことでは無いという感じ。畑の向こうから武装した連中がやって来て、あっという間に村の人々が拉致されてしまったことを証言していた。そうして収容所にやってくると放送で名前が呼ばれて、順に連れて行かれる。連れて行かれた先(部屋では)、仲間たちが次々に拷問を受けたのだった。
 多くは生き残った捕虜にインタビューする形式なのだが、ある元捕虜は、実際に収容綬現場に足を向けてレポートしていた。その場所に来ただけで息苦しそうになっていく。つらい体験の記憶がよみがえってつらくなるのであろう。また、当時拷問を行う側にいた知人とも会って話をする。相手はかたくなに知らんぷりしようとする。そうして質問を受ける前に、個人ではどうしようもなかった旨の弁明を繰り返すのだった。
 結局以前は同じ村に住む隣人や友人たちであった人々(学校の同級生もたくさんいる)が、民族紛争によって分断され、一方は迫害する側、一方は迫害される側に、突然明確に立場が分かれてしまう。中には高校時代の尊敬していた先生なども居たそうで、そういう人が自分たちに危害を加え、そうして特に悪びれた態度ではない。そういうことが起こった過去が、どうしようもなくつらいのだということだった。
 民族の違う人達の共存社会というものの実態は、われわれ日本人にはいまひとつよく分からない面はあるかもしれないが、ある日を境にして隣人が襲ってくるという憎悪を上手く処理できなかったという話は、確かに恐ろしいものを感じた。日本人はあまり意識していないけれど、やはり日本社会の構成員には、民族などの違いのある人々はちゃんと存在している。過去の関東大震災などの災害時には、残念ながら虐殺事件も起きている。理由はどうあれ、現在もヘイトスピーチなど憎悪をあらわにしている日本人の集団もいる。それぞれの状況は確かに国や地域によって違いはあるだろうけれど、人間としての習性のようなものに、このような違いを許容できない感情というのはあるものなのかもしれない。
 ボスニアは酷いところだと思うのはそうかもしれない。中東も怖いと思うのもそうかもしれない。しかしそれは、実はきわめて今日的に同じような人間の持つ普通の感情が表に出ている地域のことかもしれない。危害を加えられるのはもちろん嫌だが、加える側にだってなりたくない。同質性のある集団で安住していると、そのことを忘れてしまうだけのことなのではないだろうか。
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