ふるさと納税の過熱は、一般的には喜ばしいニュース、平たくいっていいニュース、また、頑張っている地方のまちを応援するようなニュアンスのあるものが多いような気がする。地域の特産品を返礼品とするところが多く、和牛やカニなど、美味しそうな食べ物が豪華に送られてくるような、そんな感じである。特産品のないところはパソコンや車などを返礼品とするところもあるようだ。
実は僕もなんとなくどんなものかと、ふるさと納税の本を返礼品目当てに昨年末買い求め、ちょっとだけ勉強した。まったくお得で今すぐそうすべき旨が書いてあり、確かにそれは合理的行動のようにも思えた訳だが、それは納税する立場としての考え方であることがなんとなく気になったのと、正直言ってこんなことを続けていたら何か本来的な納税の仕組み自体が揺らぐような気がして、結果的には躊躇してしまった。
それというのも「納税」という名称でありながら実際には寄付であり、「ふるさと」という名称でありながら自分の故郷とは関係が無い。だからなんと、自分の地元に自発的に「ふるさと納税」することさえ可能なのだ。普通に税金を納めると何にも返ってこないが、地元に寄付という形で納税するといろんなものが送られてくる。ある程度の収入のある人に訴えかける力は大きいと思われる。どうせ取られる(言葉としては納めるだが)のなら、断然として気分の良さは違うだろう。
確かに税収不足に悩む地方の自治体においては、(多くの場合)よその住人から寄付が集まるので多少の返礼品を贈っても、それなりに儲かるだけだ。また地元の産業である(たとえば)農業の生産者に対しても買い取って返礼するのだから、産業振興の刺激にもなる。頑張れば感謝されるのだから、それなりに熱を入れてPRするだろう。成功したところは何億という税収増であるから、変に行政的なサービスを提供しないでの損得は、それなりに大きい。
しかしながら当然その分、税収の減る自治体も出てくる。そもそもふるさと納税の対象にならない治自体もあるし、対象であっても不人気のところもある。ただでさえ税収不足に悩んでいるのにさらに住民からの税収が減るのなら泣きっ面に蜂である。しかし事実上の寄付だから、例えばNPO団体などへの寄付との見分けもつかないので、つなぎとめもできない。結局足りない分は公債などを発行して、事実上借金の額は増えることになるだろう。そのような公債額の増加分は将来世代への借金だから、形を変えた地方からの若者流出の後押しになるとも考えられる。足りない分の交付税も余計にもらうことになるなら、国と地方と両方で将来的に苦しむことになるだけである。
そういう仕組みであることは、実は行政の人は知っているはずで、自助努力を促す政策として取り入れられながらも、実はやってらんないな、と思っていると僕は思う。どうせ一時期騒がれれば元に戻るだろうということが予測されるわけで(何しろ続けていても一部以外は損するところばかりだろう)いずれ終わりが来るだろう。そう考えているに違いないと思う。
それでもいいことのように見える間は、娯楽として楽しんで浪費する。それが今の税の使われ方と集め方の両方にあるという象徴が、「ふるさと納税」の偽らざる姿であると思う。多少記憶力のいい人は、このことを忘れないで欲しいものである。