カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

人間の都合に付き合ってくれる

2016-07-16 | culture

 子供の頃にテレビで初めてプードルのカットを見たときには、ちょっと可笑しいな、と感じた。ドーベルマンの耳や尻尾は切り落とされると聞いた時もギョッとした。人間の都合で、動物にそんなことをしていいのか。
 諸外国の人が日本に来て、犬や猫に服を着せていることに違和感を覚える人が多いという。その上でポーズをとらせて写真を撮ったりする。だんだんとその可愛さは分かるようになるらしいが、しかしながら心の中で、そこまですることは無い、と思っているらしい。猫の駅長なんかもいて、可愛いと騒いでいる。虐待めいた疑問を、なぜ日本人は持たないのだろうか。
 長年犬を飼っているが、近年やはり僕自身の愛犬にも服を着せたりするようである。冬に外で散歩するとき寒いのではないか。そのような合理的配慮というのが第一だが、確かに服を着ると可愛いというのもある。首輪だって柄があるから、それによっては服と同じという感覚もある。首輪以外の服であっても、ある意味では装飾品の延長であるとも考えられないことも無い。人間の都合と合理的配慮は、内包されたままファッション化している。犬のしあわせは厳密には分かりえないが、飼っていると犬の喜ぶ姿自体に嘘があるとは思えない。服を着ていてもそこまで気にしてないし(ように見えるし)、愛犬は寒いときは服を着て助かっているとこちらは感じている。事実本当に寒い日に服を着ていない時は、非難がましくこちらを見ているような気さえする。
 今は家の中で犬を飼っているから、外に繋がれたままの犬を見ると、なんとなく哀れに感じることがある。番犬というのもあるし、しかし散歩にさえあまり連れられていないというのは、あんがいその毛並や犬小屋まわりの掃除具合などで察せられる。よそ様の犬に差し出がましいことを言うつもりはないが、やはり可哀そうだと素直に思う。しかし家の中に閉じ込めている、もしくは軟禁している僕にだって、非難の気持ちを持っている人もいるのかもしれない。
 人というのは、結局は多くの動物を犠牲にしながら生きている。犬や猫を飼っていない人だって、本当に無責任に責任が無いわけではない。それが社会の構成員としての人間社会だからだ。まあ、だからと言って罪に問われるわけではないから、無関係であるという態度は取れるが…。
 犬や猫にとっていいことが、すでに野生に返すことでは無くなっている。そのような生命を人間が作ってしまったということだ。放り出されたらある程度の野生状態で生き残れる個体がいるかもしれないが、そのことでしあわせを感じるような個体もいるかもしれないが、やはりそれは分かりえない。無自覚なエゴであっても、原罪としてもっているらしいという自覚くらいは必要かもしれない。潔白でないというのは、大人としても潔い態度ではないだろうか。
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