カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

当たり前すぎる車社会

2012-04-12 | 境界線

 都市部の若い人が、時々車の免許証を持っていないという話をする場合がある。まあ、それ自体は特段何も思わないが、それが何か?という物言いをする場合に少しばかり不快に思う。思う理由は、何を優越感に浸ってるんだ?という気持ちになるためらしい。車の無い生活の快適さを自分の力でも無いくせに誇っているように聞こえる。さらにそう思う田舎生活者のヒガミのような構図がさらに気に食わない訳だ。車(自家用)は生活に必要だからという構図は、都市だろうと田舎だろうと考えてみると決定的な要素ではないが。
 免許証を持っているのは身分証明のためという話も聞く。写真もあるしIDカードの無い日本社会には必要かつ便利であるということらしい。パスポートを持ってるから必要無いという話も聞くが、日本でパスポート持ってなきゃならないというのはかなり不便な印象も受ける。身分証明のために10万程度(免許証って平均どれくらいで取るものなのだろう)経費がかかるというのも考えものだが、考えてみると確かにそのような証明書というのは他にあんまり見当たらない。普段必要性は感じられないが、時々ものすごく面倒なことになりそうだ。
 ひとつは免許証は普段携帯していることが多いということもあるだろう。電話は必需品で持ち歩いているが、免許証は無意識で持っているという感じかもしれない。車を運転しないだろうと思われる出張であっても、財布に免許証が入れっぱなしということは自然だ。僕が不慮の事故で死んだとしても、恐らく免許証で身元の確認はされるに違いない。
 僕は特に車好きな人間ではないが、車のある生活というのはあまりにも当たり前で、いわば空気のようなもので、意識はしないが、それがあるから自由に空を飛べる鳥としての生き方のようなものを感じる。現代人に生まれてきたしあわせの形でもあろう。都市部の人は必要が無いことに喜びを持つのかもしれないが、恐らくそういう自由の一つを選択してないだけのことだろう。
 また車の運転というのはまさに大人である証明ということでもあって、大人と子供を明確に分けている線引きという気がする。加害者になりうる社会的責任を担っているということでもあって、だから秩序の無い運転者は激しく嫌悪されることになるのではなかろうか。以前より飲酒運転に対する厳罰化が進んだのは、そのような大人としての人間像に対する責任への重圧度が増しているという裏返しでもあろう。
 しかしながら車というのは、その自由のためにかなりのコストをかけていることは確かで、現代人は同じようにその車によって生活を縛られているということも言えるだろう。車社会のための社会的コストは、普通に舗装された道が縦横に走っている以上のものがありそうだ。地方だけの問題ではなく、むしろそのような都市化というものを作り上げた多くの要因は、自動車の影響力があってのことだろう。車に乗らない人の問題などはむしろ小さく無視できるほどのことだから、免許を取らない自由があるということも言えそうだ。車による物流が無ければ、都市部の自由など崩壊するだろう。
 そういう意味では、自動車に乗れなくなる社会になることは、何らかの大きな社会的変換をもたらすものと考えられる。都市は崩壊するだろうし、田舎では自給を余儀なくされるかもしれない。そういう生活を支えているのはエネルギー問題であって、かつて日本はそのために戦争まで起した訳だ。空気のような自由なんて、やはりそれは幻想というべき儚いものなのかもしれない。
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