法事があって長時間正座をせざるを得なかった。これがまた久しぶりにかなり強烈にしびれてしまって本当に閉口した。住職が早めに来て雑談を始めたのが何となく嫌な予感がしてたんだけど、お経自体もサービス満点で長かった。お経のつなぎの度にもう終わりではないかと期待したが、その期待はことごとく裏切られた。やっと解放された時にはどの様にしびれているのかさえ良く分からなくなっていた。
それにしても足を崩すことは何度も考えたのだが、後ろに座っている子供たちだって正座してるんだしな、というのが抑止力になったように思う。僕は、いわゆる見栄というのを一切しないことを人生の目標にしている訳だが(それがなかなか難しいんだな)、子供の前では見栄を張るものらしいということを改めて発見した訳だ。情けないが人間がまだまだです。教育上も良くないと反省した。
足がしびれているんだけど、せっかくのお経を聞くというつまらない時間なので、いろいろ物思いにふけって自由を謳歌しようと考えたのだが、苦痛というのはそういう自由な思想も縛るということもよくわかった。他のことを考えようにも、いつの間にかそれにつけても足の痛さよ、ということに収斂してしまう。なるほど拷問というのはあんがい有効な手段なのかもしれないと思ったことだった。
正座していて苦しんでいるときに度々思い出すのは、香港人の友人が、日本人は足が短くてうらやましいと言っていたことだ。諸外国の人々は日本人のように足が短くないから正座がつらくてかわいそうなのだとか。正座は日本の文化だという勘違いも変だが、こういう馬鹿に仕方は西洋人と同じだなあと思ったことだった。さすがに英国文化の根付いた土地柄の人である。
夜になっても足の調子が悪くて歩くのにも具合が悪い感じだった。こういうことがあるから日頃からある程度は正座に慣れておく必要もあるかもしれないと考えることはあるんだけど、そういう思いつきはたいして良いものでは無いらしく、実行することはしない。見栄を張らない心の強さが新ためて必要な訳だが、人間は人目を気にすることを進化の途上で身に付けた生き物であるらしい。いわば本能を覆す必要がある訳で、ゆえにその道は険しい。自分をさらに追い込む必要もあるかもしれないということで、そういう修行に正座を用いるということも合理的なのではなかろうか。
さてしかし、そのためには誰かに死んでもらわなければ機会が得られそうにない。苦痛というのはそのように罪深いことのようである。