よく日本では強力なリーダーが求められているというような論調を聞くことがある。そうしてそのような強力な指導者の不在が嘆かれるのである。確かに大阪の橋下市長の登場に期待を寄せたり、小泉純一郎のような首相を懐かしむということはある。僕自身もそういう人の存在が素直に望まれる心情はよく分かるつもりである。
しかしながら本当に日本人の多くは、強力なリーダーを欲しているのだろうか。仕事や日常において様々な人事の様子を見る機会があるわけだが、そういう機会に接するたびに、同じ日本人でありながら、本当に日本のリーダーというのは不思議なものだとつくづく感じる事の方が多い。もちろん多くのリーダーは指導力のある方々が多いというのはある意味で間違いないのだけれど、実際に望まれているリーダーというのは、最初からそのような人物像で無い場合の方が多いのではあるまいか。
日本の組織というのは、多かれ少なかれムラ的な社会の閉じたものが大半である。そのこと自体は、いったん批評は置いておこう。そういう社会においては、人事というのは実は生活に密接しており、あんがい重要である。特に男社会というのは人事が大好きで、そういう季節を問わず、居酒屋談義の多くは、人事問題だったりする。職場のグチというのは、人事問題と同根とさえ思えるほどだ。特に自分の上司にあたるような人がどのようなリーダーであるかは、仕事の本質にかかわる重要なものである可能性が高い。また、仕事も含めた様々な団体が存在するわけだが、そのような人事においても、それぞれに無ければ困るようなコミュニティの基本をなしているものが多い。あっても無くても良いように思える地域コミュニティでも、崩壊するとまちの秩序というのは、同時に崩壊してしまうことだろう。少なくとも、それなりのコストがかかってしまう性質のものが多いようだ。
そのような重要な組織が複雑に存在するなかで、実際にはどのような人物がリーダーにふさわしいと思われているのだろうか。世話役的な役割は、忘年会の幹事的に大変なものであろうけど、むしろそういうものは、本当にしっかりした人を本当に選択する場合の方が多い。問題なのは、頭に座るべきリーダーの事である。
実は昨夜もある会の忘年会をやっていたのだけど、事務局の方がある会の顧問に退かれた元会長のお話をされていた。それなりに剛腕を発揮される人で、僕などははっきりしていてなかなか良かったのではないかとさえ感じていたものだから、その話を聞いていてなんとなく感じ入ってしまった。それというのも、ほぼ迷惑だったことの苦労話ばかりだったのだ。如何に振り回されて困ったか、ということのようだ。お気の毒だけれど、何か仕事をやろうとすると、まあ、そうなってしまうだろうなあ。ということで、最後には、失礼だけど、今度の会長は何にもしないので本当に助かる、とおっしゃったのだった。ああ、そういえば、望まれるリーダーというのはこれかもしれない、と思ったわけだった。
言いたいことはいろいろあるけど、時にはリーダーをじゃんけんで決めるようなこともするようなのが日本人である。諸外国の人には恐らく「?!」なんじゃなかろうか。ちょっと説明不能ですらある。そもそもそれってリーダーという概念ですら無いのではないか。
まあ、そういう訳で、本当に望まれるリーダーというのは、指導力をモロに発揮するような人ではない事は明らかなように思える。本音ではそうだから、首が簡単に変わる現象も現実に起こってしまうのだろう。実際にそれでは困るのだけど、いろいろもっと困ることを具体的にされても困るということなのだろう。リーダーが決断しない事は、日本では合理的な行動のようなのである。