カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

幸福(しあわせ)

2011-12-30 | 映画
幸福(しあわせ)/アニエス・ヴァルダ監督

 つれあいと二人で見終わった後に、何だかあっけにとられた作品。後知恵によると64年に作られたヌーベルバーグの名作らしい。フェミニズムの視点もあるんだとか。なるほど。
 男の僕から見ても、単なる男の身勝手物語だし、そのうえものすごく馬鹿にしか見えない。馬鹿なんだけど純粋とは言えるのかもしれないし、まあ、子どもなのかなという印象は受けた。幸せな毎日を美しい映像で綴っているのだけど、音楽に伴って妙な緊張感がある。僕は画面の中に、いつ幽霊が出てもおかしくないとドキドキしたくらいだ。そのうえ展開については、ひょっとするとこうなるんじゃないかという予測が立つのだけど、ある意味でその予測はことごとく裏切られるというか、つまり何にも起こらない。そうではあるんだけど、限りなく不自然なのである。この違和感こそが、おそらく幸福の対極にあるアンチ幸福のようなもの、その偽りの世界そのものなのだということなのではなかろうか。
 別段かっこつけて言っているわけではないが、家庭を持った上で、その奥さんとも深く愛し合う日々を過ごした上で、性的にも相性のいい女の人とも自由に性交を行うことが男の幸せであるとは、僕には到底思えない。性的に自由でありたいという幻想を抱いたことがないわけではないが、それが現実化したとして、やはりそれは幻想だからいい世界だとしか思えないような予感がある。知らない世界なので想像でしかないのだけど、いつもいつも性的に満足だというような生活が理想でも何でもなくなってしまった。それはひとえに愛のある性交を行う相手の女の人にも、それぞれに人格があるからに他ならない。僕自身の男性という存在は、彼女らとの相対的な存在であるだけのことである。僕が良くて相手も良くないと相対的な関係など成り立たない。自分の理想にあった相手を自分の都合通り複数抱えるというのは、だから金銭的なものであるとか、、権力的なものであるとか、そういうもので具体化するしか方法がないことが、歴史的にも認められることなのではないか。そうしたければそのような方法を使って、いわば正攻法でまとめたほうが、世の中は平和なのではないか。いや、それでも平和な幸福たりえないような気がするので、自分自身でもう少し調整したうえで渡り歩く必要がありそうだ。そこにはある程度の欺瞞は混じるような気がするけど、器用にやれる人だっているにはいるのであろう。単に僕にはちょっと無理そうだなあというだけの話なのかもしれません。
 ということで、ファンタジーなんだけど欺瞞に満ちた世界をシュールに描いたということなんでしょう。名作とは、このように考えさせられるということを含めての讃辞であると心得ておきましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする