ミツバチのささやき/ビクトル・エリセ監督
スペイン映画のカルト的名作。中古のセル・ビデオは見たことがあったけど、馬鹿っ高いのでせこく躊躇して未見だった。そのまま何年も忘れていたけど、衛星で放映されるというありがたい事件が起こった。こういう時だけ受診料を払っているという誇りを感じる。
子供とは何か、ではなく、少女とは何か、という問題があるように思う。僕が男だというのもあるとは思うが、このような映画を観ると、しみじみとそのようなテーマに多くの男性がうつつを抜かしているのがよく分かる。よく分かるが少女とは何かは相変わらずよく分からない。本当に不思議な生き物なのである。そういう少女性を見事に描いた映画であったとは、二重に驚くべき事件だった。
淡々と少女の日常を追っているだけなんだけど、そのことが既にファンタジーになっている。ものすごく不思議な世界に迷い込んで行って、そうして不安になり、頭が溶けていきそうになる。気を失い掛けそうになりながら、本当に現実の幻を観てしまう。あくまでイメージ的にそんな感じなのである。本当は少女が子供であるばかりに現実を勘違いしているだけなのだけど、勘違いしながら現実の足跡を勝手に解釈していくうちに、だんだんと空想の方が、現実の物事の方を微妙に歪めて凌駕してしまう。そういうファンタジーが現実に起こってしまうのである。フランケンシュタインは映画の中の人物だったのに、少女の日常に現実に現れうる存在に変化するのである。
これをどのように捉えるのかというのにはあんまり興味はない。はっきり言ってしまうと、いきなりこれは現実の物語なのだと言いたくなる。それこそが、僕らの知らない少女性というものなのではなかろうか。僕には恐ろしくもあるのだけれど、やはりこれは美しいというべきだろう。
大人になっても不思議な女の人はいるにはいるけど、そうなってしまうと結構迷惑だったりする。少女性というのははかなくも消えてしまうからこそ、美しく切ない貴重さがあるのではなかろうか。この映画に出ていた少女も、今は誰かの母になっているのかもしれない。もしかしたらその子は娘なのかもしれなくて、そうしてその少女性を引き継いでくれればいいんじゃないだろうか。かくて少女性は永遠も獲得する。それはひょっとすると目撃されないものなのかもしれないのだけど、存在するのは間違いのないことなのである。
スペイン映画のカルト的名作。中古のセル・ビデオは見たことがあったけど、馬鹿っ高いのでせこく躊躇して未見だった。そのまま何年も忘れていたけど、衛星で放映されるというありがたい事件が起こった。こういう時だけ受診料を払っているという誇りを感じる。
子供とは何か、ではなく、少女とは何か、という問題があるように思う。僕が男だというのもあるとは思うが、このような映画を観ると、しみじみとそのようなテーマに多くの男性がうつつを抜かしているのがよく分かる。よく分かるが少女とは何かは相変わらずよく分からない。本当に不思議な生き物なのである。そういう少女性を見事に描いた映画であったとは、二重に驚くべき事件だった。
淡々と少女の日常を追っているだけなんだけど、そのことが既にファンタジーになっている。ものすごく不思議な世界に迷い込んで行って、そうして不安になり、頭が溶けていきそうになる。気を失い掛けそうになりながら、本当に現実の幻を観てしまう。あくまでイメージ的にそんな感じなのである。本当は少女が子供であるばかりに現実を勘違いしているだけなのだけど、勘違いしながら現実の足跡を勝手に解釈していくうちに、だんだんと空想の方が、現実の物事の方を微妙に歪めて凌駕してしまう。そういうファンタジーが現実に起こってしまうのである。フランケンシュタインは映画の中の人物だったのに、少女の日常に現実に現れうる存在に変化するのである。
これをどのように捉えるのかというのにはあんまり興味はない。はっきり言ってしまうと、いきなりこれは現実の物語なのだと言いたくなる。それこそが、僕らの知らない少女性というものなのではなかろうか。僕には恐ろしくもあるのだけれど、やはりこれは美しいというべきだろう。
大人になっても不思議な女の人はいるにはいるけど、そうなってしまうと結構迷惑だったりする。少女性というのははかなくも消えてしまうからこそ、美しく切ない貴重さがあるのではなかろうか。この映画に出ていた少女も、今は誰かの母になっているのかもしれない。もしかしたらその子は娘なのかもしれなくて、そうしてその少女性を引き継いでくれればいいんじゃないだろうか。かくて少女性は永遠も獲得する。それはひょっとすると目撃されないものなのかもしれないのだけど、存在するのは間違いのないことなのである。