カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

超常現象をなぜ信じるのか

2011-11-18 | 読書
超常現象をなぜ信じるのか/菊池聡著(講談社ブルーバックス)

 知った人に幽霊を見たことのある人がいるだろうか? 幽霊を見た人を知っている、という話まで広げてみると、たぶんほとんどの人はそういう話を聞いたことがあるに違いない。ひょっとするとご本人が見たという人だっていることだろう。そうではあるが、幽霊が居るのかいないのか、という議論になると、意見はそれなりに分かれるのではないか。
 これが例えばツチノコのような動物ならどうなのか、などと考えを広げてみてもいいかもしれない。これは数がぐっと減りそうなので、信じている人の方が少ないだろう。UFOとか宇宙人ならどうだろうか。こうなると、たぶんオカルト好きなのかどうか、という問題にもなりそうだ。
 個人的に信じる信じないというのであれば、そんなに社会的に問題のあることではないのかもしれない。しかし見たことがあるから存在するという議論になると、事はいささか厄介になる。個人の体験というのは、その個人である本人にとってはこれ以上に確かなことは無いのだが、一歩客観的に他人の立場になると、その絶対的に確かなことが証明できなくなってしまう。それは個人的な体験には再現性が無いからである。科学に解けない事があるとか、科学的に解明できないことがある、というような言われ方をする場合があるが、再現が可能な体験的現象であれば証明出来るというだけの話であって、そもそもがお門違いの議論に過ぎない。科学的アプローチでない話を、科学になすりつけてはいけない。
 他人の個人的体験が、何故確証的な証拠となり得ないか。それは人間の認知というものが、極めて確証的で無いことに由来するようだ。人間の認知は間違いやすく、いつも確かに物事をとらえ得ているのではない。空の雲がお魚に見えたくらいなら詩的で楽しいかもしれないが、UFOに見えたら騒々しくなってしまう。そもそも間違いやすいという認識を持たずに確かに観たというものが成り立っているところに、人間の認識の甘さがあるようなのだ。
 百聞は一見にしかずというじゃないか、というが、その一見で分かったというような事を思うのが一番危険なのだ。しかし人間はそんな考えを持つからこのようなことわざが真実味を持ってしまう。自分の体験は必ずしも真実なのではない。人間はたった今見た事のみならず、以前に体験した記憶まで簡単に修正してしまう生きものなのである。政治家の言葉がぶれるというが、それは実は極めて人間的な証明かもしれない。前と違うことを言うから信用できるとはいえないが、あれは極めて人間的であるという証明にはなっているのかもしれない。
 では何を信用したらいいのか。それは、そんなことを問う自分自身の問題である。何かを信用したいという自分の心情をまずは疑って考えてみたらいい。その上で事実は何なのかを再度考えてみなくてはならない。自分が見て間違いのない確かなことだから真実だというのは、実は単なる乱暴な論理なのである。
 これを読んで困ってしまう人もいるかもしれないが、そういう事実を知らないで生きていく方が、これからもっと困ることになるだろう。自分の安全のためにも読んでおこう。また、もちろんそれでも幽霊を見る人は減らないだろうが、そういう話を冷静に聞ける人になって、もっと世の中を楽しく見えるようになるかもしれない。何しろそんな人間というものが、なにより面白いのだから。
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白い巨塔

2011-11-18 | 映画
白い巨塔/山本薩夫監督

 田宮二郎といえばこのドラマであるといわれるほどの定番の映画版。というか、映画版を後にドラマ化したのだという。確かにおぼろげながらタイムリーな姿を覚えている頃より若い感じだ。しかし自殺した歳でさえ43歳だったというから、若かったんだなと改めて思う。自殺したニュースは確かに覚えていて、日本中大変な騒ぎだったように思う。
 タイムショックの司会は自殺前から既に山口崇に代わっていて、山口には酷だったと思うが、やっぱり田宮二郎だよな、というのは子供たちでも話題にしていたように思う。それくらい田宮二郎は、僕らにとっては映画俳優より司会の人だった。
 さて、しかしやはり一般的には田宮は映画のトップスターであり、今の視点から見ても実に日本人離れしたカッコよさである。現実にこんな人はあんまり居ないから一般的な話では無いが、こういう人から怒られたら怖いだろうな、などと思った。何か、そういう押しの強さというか、圧力のようなものを感じる俳優さんである。
 お話の方は映画なので複雑な話をコンパクトにまとめてあり、様々に展開していくスジの流がめまぐるしく感じる。もうここまできたら誰が悪くて誰が良いのかさえよく分からないという感じだ。いや、多くの人に問題があり過ぎて、社会というのは怖いなあと素直に感じる。昔の話だけど、人事というのは今でもこんな空気は残っているのではなかろうか。役場とか大会社とかは大変だろうなあ(勝手な誤解かもしれないけど)。
 派閥というのは別段日本だけの問題では無い。しかし同時に非常に日本的であるとも感じることだ。特にこの映画で展開される仲間意識というのは、その枠がどこにあるのか、ということで目まぐるしく意味を変える。外国の人がこれを観て、すぐに理解できるのかは疑問である。結果的にどこに転がるのか、まさに水ものなのである。科白の中でも度々出ていたが、選挙が水ものになり裁判が水ものになる。そういう不安定な乗り物に乗っているというのが、僕ら日本人の姿なのかもしれない。それに乗れない人も出てくるが、そういう人は出ていくしかない。恐ろしくも変な世界だ。
 田宮二郎がこの物語に執着したらしいことは後にも伝わっている。面白いからでもあったろうし、自分に照らし合わせて感じ入るものがあったためではあろう。田宮自身は事業に失敗し精神病に苦しんだ。しかし貪欲に目的を達成しようとする主人公の財前の姿が、自分自身の分身であったというのは、確からしくも思える。それは同時に自分自身への批評性でもあったことだろう。最終的には病苦で(だろう)生涯を閉じたわけだが、ドラマの撮影は何とかやり遂げている。そのような執念のようなものが、物語に取りついているような名作なのではなかろうか。
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