カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

戦争の常識

2011-11-21 | 読書
戦争の常識/鍛冶俊樹著(文春新書)

 自国を守るという目的である防衛をするのは、当然という前提がまずある。この言葉の影に侵略は悪というか、ちょっとまずいんではないかということがあるように思われる。軍備を整えるのは自国を守るためにやむなくやっているのであって、仮想相手国に対する脅威が目的で無いということだろう。実際に先に戦争を行った歴史があり、現在の眼で見ると敵国に進攻したというのは、戦勝国であろうと敗戦国であろうと同じくあったわけだ。もちろん勝った方は進攻占領して鎮圧したことを侵略とは言わない。結果的に負けたところが侵略を犯したということになった訳で、そういう言葉に配慮して、軍備というものが防衛という言葉に置き換わったものらしい。もちろん戦勝国であっても防衛に置き換えた国は多いそうだが。
 相手国を負かすことを目的にしていることは明らか(何故なら負ける目的で準備はしない)である軍備である防衛なのだが、そういう具合になんとなく嘘っぽいものを含んでしまわざるを得ない事情がある。平時において戦争に備えるということはそういう事情のもとに行わざるを得ないという前提があるわけだ。しかしながら実際に戦争になると、自国を守るために敵国に攻め行ったりする必要は当然出てくることになるだろう。攻撃は最大の防御という言葉もある通り、守るためにやむなく攻めざるを得ないわけだ。考えてみるとこれはヤクザであっても同じで、ガンつけられたり服を汚されたり自分に被害が及んだことについて落とし前をつけるために、やむなく凄んだりしなければならないのだろう。まあ、言葉を変えたところでやることは結果的に同じな訳だ。ただ、立場としては守っている事を前提にしなければ(相手がどう思うかは別として)攻められないという訳だ。
 常識というのはお互いに共有されているから意味のあることである。片方が常識といって相手に接しても、相手方がそれを非常識と感じる場合は常識としては意味がない。この本の場合に常識という言葉をあえて使っているところを汲んで見ると、それは日本以外の常識という概念を、非常識社会日本に伝えたいという意図があるということは明確そうに思える。いや、正確には日本以外の国の国民の中にはその常識を日本の多くの国民と同じく知らないということはあるかもしれない。そうすると、この場合の常識とは戦争というものを普通に捉えて政策として考えていかざるを得ない人達の常識を、一般的な人に紹介解説するということにもなるかもしれない。もちろん日本にも常識人は既におり、結果的に軍備を持たないという憲法を持つ国に自衛隊という間違いなく強力な力を持つ軍隊が存在するのである。これを矛盾というのはたやすいし、事実であるとは子供でも知っていることだが、常識としては矛盾は成立せざるを得ないということなのである。
 本当にめんどくさいが、それが日本という国の国防問題の前提である。結果多くの場合なんだか議論がかみ合わなくなる原因でもありそうだ。当たり前に話が進まない為に、当たり前で無さそうな概念を引っ張り出して説得をする。結果的に誰も本当には説明のつかないものがそこに存在してしまう。日本という国の問題は、国防に限らず、多かれ少なかれこのような分裂症気味な結論が多くなってしまうように思う。つまるところ常識というものが、共有されていないという証明なのではあるまいか。
コメント
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