カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

脅威だからこそ対話

2011-11-16 | HORROR

 録画していたNHK特集を観る。
 尖閣諸島近海の中国と日本の緊迫した状態を伝えたドキュメンタリーで、日本の自衛隊幹部(元も含むようだ)と中国人民解放軍との対話の場面も紹介されていた。むしろこの対話というのが、実際の衝突をギリギリのところで回避させているともとれて、なかなか興味深い内容だった。お互いにかなり危険な立場にいることと、相手の行動に対して率直に意見を交わしていることが分かった。
 一方的に領海に侵入したり威嚇ともとれる行動を取っているように見える中国だが、台湾問題の懸念や自国領域の資源の問題、日本の監視に対する神経質な対応や、米国と日本との関係に神経を尖らせていたり、結局はその米国そのものに対する脅威についてや、中国国内世論の圧力などによって困惑している軍部の姿も映し出されていた。ある意味で日本の自衛隊も同じように困惑しているということなのだろう。前線にいる軍人にとっては、まさに生死をかけた(結果的には両国国民もそうなのだけど)やりとりが続いているわけで、対話無しに、相手の考えのディティールの理解なしにおられないというのは、まったくそのとおりだろうと思った。今後とも密な対話が途切れることは、許されることではないのであろう。
 また、尖閣諸島問題を最重要としてあえて取り上げない(事実上棚上げ)という申し合わせを提案したり、進行役をしているときは、微妙にはぐらかしたりする人民解放軍の姿もあって、苦悩が感じられるとともに、やはり本当に危険な緊迫状態にあることに変わりがない事は間違いなさそうだった。本音としては衝突したくないが、衝突もやむなしの時はやるのだということなのかもしれない。
 日本の潜水艦の演習も紹介されていて、実際には首相の命令が無ければ発射出来ない魚雷の発射訓練もごく普通に行われていた。現場というのは、当たり前に準備をしているのだ。
 力に対しては力でねじ伏せるというのは威勢のいい話だが(もっともそういうバランスを取る努力は怠れないのだが)、結局は仲のいい相手なら、実際の脅威にはなり得ない。しかしながら、隣人問題というのは非常に厄介で、仲が良くても衝突は当然起こり得るものなのだ。脅威は脅威として無くなりはしないものの、だからこそ政治に左右されずに対話ができる関係が大切になるわけだ。
 衝突が起きない事が何より大切だけど、衝突や紛争に発展した場合にもどのような対応を取るべきなのか、考えておく必要もあると思う。あってはならないことだから考えない、というのが日本の姿勢のようにも思えて、これはもっとも危険な対応だろうと思えてならないのだった。
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ブラック・スネーク・モーン

2011-11-15 | 映画
ブラック・スネーク・モーン/クレイグ・ブリュワー監督

 クリスティーナ・リッチを鎖で繋いで監禁するってのは嘘じゃないんだけど、お話としてはその後の方が重要という感じのひっかけ映画ではある。もちろんいい意味で裏切られてびっくりだ。素直に残念だった人もいるんだろうけど、まあ、それなりに期待されるサービス場面はあったような気がするし、許してやってもいいんじゃなかろうか。だいたいサミュエル・L・ジャクソンから説教されるのは、映画的に常識化しているので、最初から疑っていた人の方が正解なんである。まあ、随分年取ったなあ、という感じはしたけど…。
 僕は本当に女の人のことはよく分からないんだけど、いわゆるセックス中毒というのは本当にあるんだろうかという疑問は湧いた。特に好きな人がいるというのは普通のことだろうし、男であってもそりゃあ激しい人も知らない訳ではない(それでも男性は限界が具体的だけど)。だからと言ってそういう僕の知っている狭い範囲のことではあろうが、いわゆるセックス中毒というような症状の人はまったく知らない。ましてや出来なくて体の疼きを抑えられないなんて話が、女の人に本当にあるもんなんだろうか。まあ、そんなことを知ったところでどうにもなるわけじゃないけれど、後学のために知っている人があったら教えて下さい。
 しかしながらこの映画はあんがい純愛の映画だったりもする訳である。若いながらのもろくもバランスの釣りあった状態とは何なのか。恐らくそういう紆余曲折が、夫婦というものを形作っていくんでしょうね。そうかと思うと損なわれたものが大きすぎて元には戻らないということもあるわけで、男女関係というのは本当に難しいものであります。
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草食系と肉食系

2011-11-14 | HORROR

 近年では草食系男子という言葉もあって、いわゆる奥手の男性(ま、若い人ね)を揶揄している風潮もあるわけだが、そんな人は昔からゴマンといたはずであるし、本当にそうであるなら人口も抑制されて地球にやさしく大変に結構だ。
 という話ではなくて、先日あるご仁(五十台中ほど)と酒を飲んでいて、率直に結構圧倒されてしまった。エロ話はもちろんなのだが、はっきり言って本当に貪欲に獰猛なのである。特にお触り系のお店では無いのだけど、ボックス席に座った女性に猛烈にアタックしておられる。キスする音も凄まじいのだが、パンストを破かせろとか、上に乗ってドウノコウノだとか要求が忙しくて大変である。その合間に僕らともお話はされるのだけど、なんだか本当にエスカレートしていって、本気で始める気になっているんじゃなかろうかと心配された。もちろんそこまでは杞憂だったのだけど、凄いものです。
 それでもお子さんはお二人とのことで、草食系だろうと肉食系だろうと、あんまり人口問題とは関係ないのかもしれませんね。
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眼下の敵

2011-11-13 | 映画
眼下の敵/ディック・パウエル監督

 かわぐちかいじは絶対この映画を観たんだろうな、と思った。
 よく考えてみると変な話だし、ちょっと結末近くは卑怯な感じもぬぐえないんだけど、まあ、女っ気まったくなしの男の世界として面白く観ることができた。物量の圧倒的な差があるので、もともとかなり不公平な戦いなんだろうけど、駆逐艦と潜水艦の緊迫した戦いを描いた名作だろう。人間ドラマやエピソードもなかなか面白い。実際に敵同士がこのような友情をもつものなのかは正直に言って僕にはよく分からないのだが、映画としてはアリということなんだと思う。鬼畜米英だとかイエローモンキーじゃないと人間を殺しにくいという感情があるとは思うんだが、好敵手としての尊敬というのは、軍人の世界にはあるものなのかもしれない。本当はお互いに人間だというは職業軍人の多くは知っていたはずで、そうであるならやはりその道の凄さというものに対して敬意を抱いてもおかしくないのかもしれない。
 最近のCG満載の特撮と比べると、細部はだいぶチャチなものがあるのは確かだけど、しかし船から落とす爆弾の爆発は恐らく本物のようで、かえってその迫力が際立っていた。撮影のために本物を爆発させることができるアメリカという国は、単純な役人国家では無いのだろうな、などと勘繰ったりした。日本だとかなり難しいだろうね。
 それにしても個人的には、潜水艦の中でじっとしているのはかなりつらいだろうなと同情した。それも集団でなんて。また、水圧の恐怖も描かれていて、後の潜水艦映画の定番的な演出も冴えていた。見つからない為に音を立ててはなら無いという緊迫感もよかった。結局辛抱しっぱなしは一方的に潜水艦の方で、観ているものはいつの間にか敵であるドイツにも肩入れしたくなる構成になっているのではなかったか。だからと言ってドイツが勝つ話ではそれこそ話にならない。まあ、そういう訳で結局見事な解決策だったのかな、とも思ったのだった。
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フェルマーの最終定理

2011-11-12 | 読書
フェルマーの最終定理/サイモン・シン著(新潮社)

 面白い本を紹介してくれといわれても、やはり人には好みと傾向というものがあるから、ある意味でその人にあったものでなければ紹介がむつかしいと思うことが多い。しかしながらそういう分野を超えて、手放しでめちゃくちゃ面白い本というのはあるわけで、つまりこの本がそうです。数学の功績を紹介したドキュメンタリーだから、そういう方面が苦手な人は敬遠してしまうのだろうけど、しかしむしろ数学がからっきし苦手であるような人ほど、この本は読みやすいという仕掛けもあるようだ。その上数学の理解は数段あがるはずだから、ものすごく有益な本だともいえる。これは中学生くらいの人には特に絶対に読ませるべき課題図書とすべきなのではないかとさえ思える。もちろん大人だって子供に読ませて人生を喪失したまま生きていくのがもったいないです。
 という訳でとにかく読むべし、ということに尽きるわけだし、実際読みだせば手放せなくなる人がほとんどだろうから何も言うことは無いのだけど、改めて数学というものが、人間が生きていく人間性そのものなんだということに気づくことは、大変に大切なことのように思える。そうして数学は美術のように、人間を美しさで魅了してしまうのだ。
 誰もが名前だけは知っているピュタゴラスの定理の偉大さや、数学の歴史やあゆみ、数が無限であることの厄介さや、最新と思われる数学理論も幅広く知ることができる。特に日本人である僕らは、谷山志村予想というものが、フェルマーの定理を解く重要なカギであったことを知るだけでも、随分誇らしい気分を味わえるのではないか。ノーベル賞だけで無い日本人の偉大な功績は多い筈なのだ。もっともこの話は結構悲しい面も含んでいるのだが…。
 もちろんこの本を読んだからと言って数学の問題がスラスラ解けるようになるとは限らない。しかし、この本を読んだことによって数学リテラシーがあがるだけでなく、分野としてまったく違った人間であっても、数学の道を歩むようになる可能性がある。それくらい数学というものが魅力的であるのが素直に理解できる本なのである。数学嫌いを治す本、というたぐいの本は実にたくさん出版され続けているわけだが、実際はそれくらい数学というものはとっつきにくい代物であるという証明にもなっているようなのだが、このようなドキュメンタリーを一つ読むだけで、おおむねそのような問題は解決されるものと思われる。まさに画期的面白本として、名著として歴史に残るに違いないのである。
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ぼくの伯父さん

2011-11-11 | 映画
ぼくの伯父さん/ジャック・タチ監督

 今の眼で見るとあんまり笑えないなあ、と思いながら観た。目新しさが、逆に古臭いというか。そうして結局現代的な方向とは少しずれていて、まあ、そういうのは面白かったかもしれないが…。
 それにしても、お金がある程度ある方が、人間の見栄というのは助長されていくのかもしれない。実際の金持の生態をよく知らないから的外れかもしれないが、金をもっているはずの人々が、なんとなく貧弱な見栄で生きているようにも見えて、まあ、それがこの映画のシュールな笑いになっているわけだが、それなりに悲しい感じも同時にあるのであった。
 しかしながら、親戚あたりにそのような成金というか、適当に成功してしまうような人が現れると、そうでない場合の立場になってしまうだけで、随分不幸なことになるということはあるのかもしれない。それはどうにも仕方無いことのように見えて、身近にある不幸ということなのかもしれない。みんな不幸ならみんないいということは言えないにせよ、その辺の塩梅がちょうどいいという社会の実現は、たいへんに難しいように思える。結局人類というのはそのような不公平な感情を抱きながら、そういう位置が変化していく歴史を刻んで行くしかないのかもしれない。生きているうちに逆転の無い人生もあるだろうけど、そこんところは運なんでありましょう。
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タイムリーじゃ無い話

2011-11-10 | 掲示板

 ほぼ毎日更新しているのでタイムリーに見せかけているけど、実は仕掛けを白状すると、書きためたものが自動更新されているというだけの話である。だから映画評とか、タイムリーじゃない記事が多いという訳。空いた時間とかにまとめていくつか書き飛ばして、日時だけ指定してあげておく。付いている写真もおおむね記事とは無関係だから、あんまり気にもしていない。まあ、白状するのは、いつ書いていると聞かれることがあるからだけど、そういう訳で何時書いているかはよく分かりません。あえて言えば貧乏症的な性格があって、ボーっとしたくない空いた時間ということになるかもしれない。書かなければ本を読んでいるような時間かな。
 とはいえ、出張も多かったし会議も多かった。パソコンの前にいなければ(というかキーボードじゃなきゃ書く気にならない)書かないから、書きためたストックがほとんど底をつきそうだという状態に度々陥った。まあ絶対更新しなければならない義務も無いのだけど、なんとなくそういう状態は落ち着かないものである。目の前の仕事もなんだか手に付かないような、変な切迫した心持ちになるものである。更に白状すると今現在がそんなようなことで、ストックが尽きちゃった。
 以前作家の森博嗣が、ストックをしないことによりアイデアは水が流れるように湧いてくるのだというような意味の事を書いておられた。まあ、そのような天才の人のいうことが参考になるわけがないのだけれど、単に羨ましがっても仕方がない。また、同じく脚本家(だけで無いが)の三谷幸喜が、自分を狭い制約の中に置くことで、さらに難しい状況だからアイデアが生まれるというような事を言っていた。ほとんどマゾだけど、閉め切り効果ということもあるわけだし、それはウソでは無いのだろう。
 さて、そういう訳で何のアイデアも無いままでも確かに書き飛ばすことは可能だということは僕でも証明出来たわけであるが、それでいいのかどうかというのはよく分からない。特に商売で書いているわけでもない文章を、確かになんで僕は書いているんだろうとは時々思います。汚いけど、精神の排泄ということは言えて、たぶんそういうことに尽きるんだろうけど、でもまあ書けないことも当然あるわけで、そういうのはどうしようかな、とは思う訳で…。時間が経過すると書けるようになることはあるので、そういう将来に期待してください。もっとも時間が経つと、忘れたり、もうどうでもよくなったりすることもあるので、今の興味と傾向ということでは、やっぱり日々の更新はそれなりにタイムリーな記録でもあるんだよな、という事でございます。
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おいしいコーヒーの真実

2011-11-09 | 映画
おいしいコーヒーの真実/マーク&ニック・フランシス監督

 僕は小学生時代はコーヒーを好んで飲んでいた(自転車こいで豆を買いに行っていた)のだけれど、大人になるにつれて段々と苦手になって、ついにはほとんど飲めなくなってしまった。大人になると牛乳を飲めなくなるのと同じようなものなのかもしれない(そんなわけ無い。ちなみにもちろん牛乳は危ない)。しかしながらもともと好んで飲んでいたから、味が分からないわけではもちろん違って、体質的に受け付けなくなったという感じであって、同じく牛乳の味だっていまだに嫌いなのではない。一日誰とも会わないでいいような環境にあれば、別にコーヒーを飲んでもいいのかな、とは思う。具合が悪い時に他人様と一緒にいるのがつらいだけだから、一人ならおいしいコーヒーを飲んで苦しめば済むだけの話である。
 多くの人がコーヒーを飲むようになったのは、どうしてなのだろうか。コーヒーの魅惑的な香りと味であるというのは、当然すぎる答えであろうが、いわゆる文化の香りというような憧れの飲み物である側面もあるのではないか。日本はアメリカ経由ということがまず言えるだろうけど、アメリカは反英国だったのかもしれない。
 この間テレビを見ていたら、ヨーロッパでは特にイタリアが熱心に飲むらしいとのことだった。ちょっと驚いたのは流通に長けているのではなく、エスプロッソをはじめとする技術革新の成果なんだという。だから例えば国際的に有名な「イリー」というコーヒーのメーカーは、エンジニア会社と自社を考えているのだとか。なるほどね。
 さて、映画の方だけど、アフリカの生産者と国際的なコーヒー買い付けの資本の搾取問題をドキュメントしたものである。今でもこのような搾取構造が抜けないのがコーヒーの背景にある社会問題であるというのはそうなのかもしれないが、一次産業というのは、多かれ少なかれこのような構造のもとに、非合理な搾取がなされているということなのであろう。もちろんそんなことを知らずに先進国といわれる国の人々は、のうのうとおいしいコーヒーを楽しんでいるという訳である。
 確かに嘆かわしいことだけれど、しかしこれは生産している国の事情の方が、もっと深刻なものを生んでいる背景なのではないかとは思えた。そういうお国の事情を描くことなしに、買い付けに来るメーカーの手先を批判できるのだろうか。利益というのはあくまで差額だから、安く買い叩いて暴利を得ているというのは(そういうところもあるだろうけど)途中で抜いている連中のようにも思える。むしろ末端で販売している世界的コーヒーメーカーというのは、先ほど紹介したように技術面で躍進したり、店舗やイメージなどを作り上げて、一杯の価値をあげているのではなかろうか。また、それでもおいしいコーヒーが飲みたいという欲求を満たすためには、相当の別の理由を積み上げて出来た複雑な要素が絡み過ぎている問題なのではなかろうか。
 しかしながら、だからと言ってエチオピアの苦悩はそう簡単に解決が出来ないのが現実だろう。生産している農民が真っ当に豊かになれば、国全体だって結果的に豊かになるのは道理である。そうやって多くの国は多様なものを生産するようになり、農業以外の産業を取りこんで行ったのかもしれない。対比させるだけでなく、そのようなものを融和させていく方法を考えないことには、どうにもならない気がしないではない。
 僕は詳しくは知らないけれど、今はコーヒーの豆の生産地は、アフリカ諸国だけとは限らなくなっているのではなかろうか。それなりの流行りというのはあるだろうけど、いつまでもアフリカが主流であり続けるとも限らないのかもしれない。コーヒーの豆を如何に二次加工していくことが出来るのか。また、そのようなものを如何に他国に売ることが出来るのか。そんなような事を考える人が、当然エチオピアにもいるに違いないと思う。そういうことを支援できるかどうか。もしくは邪魔をしない、フェアな監視のようなことが出来るのかどうか。そういうことがコーヒーを仕入れている国が考えるべきことなのかもしれないと思ったことだった。
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イアン・ハンターとモット・ザ・フープル

2011-11-08 | 音楽
IAN HUNTER 3 Central park n West 3 of 10 NYC 81


 とにかく懐かしくなって。遠征試合の移動の車の中でウォークマン(もちろんカセットテープ)で聞いてました。僕は万年二軍選手だったから試合で活躍できる機会は少なかったけど、移動の車の中でみんなが寝ているときにウォークマンを聞きながら風景を眺めているのが好きでした。

 実はイアン・ハンターがモットだったとは知らずに聞いてました。当時はインタビュアーの質問が気に食わなくて殴ったとかそういう話題が多かったようですが、まあ、そういう時代の空気というのは、何故だか歓迎されていたようにも思いますね。もっとやってくれっていう感じでしょうか。
 確か頭が薄くなってどうだとかいう話題もあったような気がするんだけど、映像では分かりませんね。まあ、分からなくて何も困らないんだけど。

Mott the Hoople All The Young Dudes
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学者のウソ

2011-11-07 | 読書
学者のウソ/掛谷英紀著(ソフトバンク新書)

 ここ最近は科学的学説というものと信用というものについて、大きな揺らぎのようなことが起こっているようだ。御用学者という言葉もあるし、あたかも都合のよい方便の為の学問があるようなことも言われたりする。さらに批判している人達が正しい科学的根拠を持っているのかというのが怪しいということもあり、専門家で無い人間が容易に判断できないという困った現象も起きている。当たり前だが、もともとそういった言論自体は科学でもなんでもない。
 そもそも世論というものが科学的根拠を元にしているわけではない。世論はいわば感情で、科学的事実というのはそもそも感情は関係が無い。そういうところに、ある種の誤解の根本が隠れているような気がしないではない。結局利用している方も、批判している方も、実際の科学なんて利用可能なものだと思っているのだろう。
 もちろん科学を根拠に論を進めるというのは、何よりそれは事実であるわけだから強力である。ただし、科学的事実と本当に関連のある論理なのかということの検証が必要になるということだが。
 更に非線形性という分野があって、そういうものは科学として扱うのは無理があり過ぎる。例えば気象などの未来予測については、そもそも科学として論じていいものか疑問のあるものは多い。何パーセントの確率でそうなるというのは、時間がたてばはっきりするものの、いくら議論しても結論を導き出せる問題なのではない。多数決で天気は決まらないのである。最近は地震予知などの分野に嫌疑がかけられるということもあったようだが、今後も不必要であるかはともかく、限りなく難しい分野であるのは間違いなかろう。人間として知りたいという欲求や必要性はあるにしても、それが科学的根拠として採用される日が来るのかどうかも分からないのである。
 現代人にとっては科学というのは一種の信仰のようなことになってしまっている。科学を信じているというのは科学的思考の一番対極の事のように思えるのだが(なぜなら科学はある意味で疑うことだから)、多くの人はあたかも神を信じるがごとく科学を信仰してしまっているように思える。学者の誰彼がそう言っていたとか、理解できないのは馬鹿だとか、自分の都合のよい論拠を引っ張り出して、いわばレトリックとして科学を崇拝するのである。ディベートで勝つことが科学的真理と何ら関係ない事は、まず最初に知っておくべきだ。正しいから勝つのではなく、負かしたから勝っているだけの意味の無い遊びである。人間社会の、特に政治においては意味のあることでも、自然科学では何の意味もありはしない。
 それでは困るとか、どうすればいいのか途方にくれる人もいるのかもしれないが、事実というのはそれでも存在するということに過ぎない。科学者にも政治に長けている人もいるかもしれないが、それは科学的な実績とは本来は関係が無い。
 そうはいってもやはり根拠を元に議論をする必要があって、そうして事実に基づかない話が政治的に勢力をもつことの方があんがい多くて実害が起こる。信仰というのは話し合いにおいて厄介なように、今は科学がその厄介さを助長させてしまっているのである。まあ、時間がある程度過ぎて検証をすると事実は誰でも判明できるようになるにせよ、人間寿命の所為か、せっかちな性分はそれを待てはしないだろう。その上忘れっぽいので、過去の教訓も生かせない。人間と科学というのは本来相性の悪いものなのかもしれない。
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煙突の見える場所

2011-11-06 | 映画
煙突の見える場所/五所平之助監督

 昔は大村にもお化け煙突があったのにな、と思った。すんません、ローカルで。
 煙突というのはそういう失われた日本の風景であることは間違いあるまい。いつの間にか日本の風景はすっかり変わってしまった。多くの場合それはいいことの方が多いのだけれど、年を取るとそう思わない人がいるらしいことも確かだ。まあ、個人的に若い頃が面白可笑しかったというのは分からんでは無いですがね。
 お話の方は戦後の庶民生活の、なんとなくいい加減だったり、大変だったりする風景がふんだんにあって、そうして二枚目俳優の上原謙が二枚目半を演じていて、コメディということになっているようだ。確かにいろいろと思うところあって面白いのだが、やはりそれは戦後の貧しい切実さが感じられる方が、さらに楽しめる仕組みになっているようだ。
 戦後生まれの僕にしても、共感としては理解できるものはあっても、もう少し自分たち以外で考えるなどしないのかな、などと無理な想像をついつい挟んでしまうのであった。そういうものとは独立して暮さなければならないという考えが、どうにも上手く飲み込めないのだろう。
 僕は個人的に、貧しいからむしろ慈悲の心が育つという考え方には疑いを持っているのだけど、そうではあっても、貧しくあっても慈悲の心がよりどころになるような心もちが育つというようなことはあるのかもしれない、とは思うのである。まさにこの映画の展開がそれで、最初はただ困ったり、そのことが原因で不条理な事を言ってみたりしているけれど、最終的には赤ん坊の事が可愛くなっていくくだりなどは、なるほどそうかもなあ、と思うのだ。むしろ現代であれば最後まで拒んでしまう方が現実的だろうけど、いや、当時であってもやはり難しい問題には変わりは無いけど、困りながらもこれからどうなるかも分からないまま、なんとかなるような楽観のような気持ちも同時に持ち合わせていたことも確かなのではなかろうか。
 そういう訳で、やはり人間ドラマとして鋭いものがあるというか、むしろ精神的には豊かなものを描こうとしているというか、しみじみと説教くさくなく共感をもって希望を語るような映画になっている。その後の世界がどうなったかは、僕らは知っているわけだけれど、以前の人たちが望んだ世界だったのかどうかは、ちょっとだけ気になるところでありましょう。皆さん、ご年配の人に尋ねて見て下さいませ。
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デュエリスト・決闘者

2011-11-05 | 映画
デュエリスト・決闘者/リドリー・スコット監督

 村上春樹のエッセイのある一遍を読んで、そこで紹介されていたプーシキンの短編をどうしても読みたくなって、(それはスペードの女王という短編集に入っている「その一発」というものだった)古本で購入して読んだ。短編は大変面白かったのだけど、ついでながらこの映画を思い出したという訳だ。
 ヨーロッパの中世の騎士はメンツが高かったらしく、しょっちゅう決闘をして命を落としたようだ。プライドが高いというか、命知らずというか、見栄っ張りだったようだ。そうしてそういうメンツがあるから人間的に高尚だとでも感じていたのだろう。まあ、日本の武士もそんなようなところがあるから、人間というのは本来的にそのような心持で生きていく社会性があるものと見える。
 さて、どうして思い出したのかというと、どちらも決闘の物語だったからだ。そしてそういうメンツはともあれ、両方とも死の恐怖というものを実に見事に表していると感心したからだろう。ホラー映画でも死の恐怖は味わえるが、そのような脅かしでは無くて、自分を置き換えて味わう死の恐怖というものは、なかなか感慨深いものがある。本当に死を覚悟の上で、しかしながら生きていたいという人間の葛藤というのは、現代社会だと映画や小説などで無ければ、そうそう味わえるものではない。まあ、そのような現実の中で生きていく過酷な世界で無くて良かったね、ということではあるにせよ。
 映画に話を絞るが、主人公が決闘に巻き込まれてしまうのは、実に不条理な話からであった。本人も本当には納得がいかないながら、やはり決闘を申し込まれたからには断れないというメンツがあるのだろう。いや、そのメンツのみの為に、命を掛けなければならないのである。しかもその相手は軽々しく決闘を申し込んでくるだけあって、ちっとも死に関して頓着してなどいない。率直に自分が勝つことを信じられる性格であるらしく、自分の怒りの前に死の恐怖などみじんもないのである。しかし吹っ掛けられた方としては、理由がよく分からず納得もいかない不条理なものである上に、戦うということの死の恐怖で頭がいっぱいなのである。しかも偶然もあるようだが力も互角であるようで、一度ならず何度も何度も戦いを強いられていくのである。これはいったい何という人生なのだろうと、見ていて頭を抱えたくなるような状況なのだ。そうして度重なる戦いの最後には…、という結末もなかなか感慨深いのである。これは小説の方も同じで、可能な方は僕のように合わせて楽しむことをお勧めします。
 こういうことを言うと身も蓋もないのだけれど、人生というのはあんがいこのような不条理との戦いの中にあって、実は自分自身の独りよがりなのではないかと思うことがある。相手があって自分があるというのは、確かにそれはそうなのだが、自分の感情は自分自身のものなのだ。社会性の中で虚栄を張らなければ生きにくいというのはあるにせよ、自分の心は自分で解決していくより仕方がない。もちろんこのような目に遭うのはまっぴらだし、今の世の中なら素直に逃げてもいい訳だけど。
 それにしてもルース・ベネディクトが、日本人は恥の文化だと言ったのは改めて完全に間違いだったなあとも思うのだった(繰り返すが、既に学問上では常識だけど、世間一般ではいまだに信仰されているようなので)。むしろ恥の文化は中世のヨーロッパの方が強いようだ。そうしてそんなことにうんざりしてしまって、反省して捨ててでもしてしまったのではなかろうか。現代人の眼から傲慢に言うならば、まさに正解、というしかないのであろう。
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おおきなカブ、むつかしいアボカド

2011-11-04 | 読書
おおきなカブ、むつかしいアボカド(村上ラジオ2)/村上春樹著(マガジンハウス)

 村上春樹の文体というのは悪魔的なところがあって、はまってしまうとどういう訳か頭の中のつぶやきまで支配してしまう。だからと言って特にどうしようもないのだけれど。ぶつぶつ(という感じになってしまう訳だ)。これが嫌な人にはどうにもダメらしいのだが、時には僕もそのような気分も良く分かりはするものの、しかしやはり愛おしいような、そんな感じのする特別さがある。
 エッセイの方は小説とはやはり違って、少し遊び風にふざけてみたり、そうして時には思想のようなものを押し出したりすることがある。そうであるから魅力的なのだけれど、しかし一見何の変哲もないように見せかけているところがまた、村上流(龍だと違う人だ)という感じはした。当たり前だが構成が上手くて、思わずなるほどと唸ってしまう。たとえ話も一見かけ離れた、むしろ遠い話のようでいて、しかし密接に感覚として絡んでいるのである。当たり前だけれど、それなりに吟味しつつ書きあげているのだろうな、と想像するのだった。まったく違うかもしれないけど。
 又、アンチ村上が煙たがるちょっとだけスノッブだったり、実は独りよがりだったりというところも随所に見られて、まあ、昔ながらのファンならこれもそれなりにいいとしか言いようがない。実をいうと彼のような世代間の言論には僕は思想的に与しないのだけれど、まあ、村上さんならいいじゃん、と思ってしまう訳だ。
 今となっては第二村上世代の作家の作品の方がよっぽどムラカミハルキ的な世界観で、なおかつお話も面白かったりするわけだけど、やはりオリジナル・ムラカミの力はそれなりに強力で、分量が少なくてスラスラページがめくれていくのが、やはり惜しいのだった。
 しかしながらあんまり影響を受け過ぎると、日頃考えているペースというか、感覚のようなものがちょっとだけねじれていくような気がする。息抜きのために読んでいてこれでは、ちょっと困るような困らないような…。
 世間ではノーベル何とか賞を取って欲しいという欲求の方が強力なようだけれど(それにひょっとすると本人もまんざらではないかもしれないが)、でもやっぱりそういうものとは無縁の方がいいような気がする人であるのも確かだ。もっと人気の無い人に譲ってやったらいいのである。
 このようなエッセイや考えを読むにつけ、もっと小説の方でもたいしたことない作品を書いてくれるといいのにな、とも思うのであった。まあ、ものすごい作品だってたまに書いてくれても、何の文句もありませんけどね。
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ウイちゃんがみえるもの

2011-11-03 | 読書
ウイちゃんがみえるもの/衿沢世衣子著(講談社)

 絵本や児童文学を読んでいて時々本当に感心するのは、作者は現在恐らく大人になっているにもかかわらず、よくもまあ子供の考えている事を理解しているものだなあ、ということだ。かつては大人だったくせに実に勝手ながら、大人というのは見事に子供時代の自分のことをすっかり忘れてしまっているものだ。そうすることによって社会性を獲得し、人間として生きていくことが出来るようになったという側面はあるのかもしれないけれど、実に薄情なものである。しかしながら忘れてしまっている状態なので、ある時ふっと思い出すことは出来るようだ。完全には思いだせないものの、ちょっとしたきっかけや思い出さされ方が上手だと、あっ、そういえば、と衝撃を受ける事なんかがある。子供の頃の記憶はダイナミックなものが多いのだ。
 さて、子供の頃には確かに持っていた能力にアニミズムというようなものがある。僕は家から見える山の向こうに、ゴジラのような怪獣の気配を感じ取っていたし、確かにおもちゃと真剣に会話していたようである。時々話しかけられるのだけど、それがどんな言葉だったかは残念ながらまったく思い出せないが…。
 そういう不思議な世界を、不思議は不思議であるのだけれど、実に自然に表現したものであると思う。特にリアルに描かれているわけではないが、なんというか、実に自然なのである。僕の感じていたアニミズム世界とはぜんぜん違うものであるが、なるほど現代の子供ならこんな感じかもしれないな、とは思うのであった。
 また、自分の父親に人見知りするなど、子供としてかなり内気な性格らしいし、はちきれたものはあんまり無いのだけれど、それが却って本当の子供らしいというか、なるほど子供の立場としては、こんな感じなのかもしれないな、と感心したのだった。僕は父親なのでそういう場面に身につまされるものがあり、悲しいながら、なんとなく救われるような気分になった。
 漫画なんだけどそういうところは絵本的で、そうしてやはり文学的なのだ。僕は世間や世界を知らない大人なんだなと改めて感じさせられて、大変面白い読書体験になった。
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スマパン

2011-11-02 | 音楽
The Smashing Pumpkins - 1979


 中国留学から帰ってきたらスマパンが流行っていて、当然のように繰り返し聞いていた。その頃はいろいろあってなんとなく失意の毎日を送っており、スマパンの表裏のある曲の変化に妙に同調して感じ入っていたということなのかもしれない。
 当時は現物のビリー・コーガンの姿はまだ知らなくて、後にそれなりに驚いた。きっと繊細な感じのか細い人だと勝手に思っていたようだ。

 最近また活動しているようで、なによりでございます。


スマッシング・パンプキンズ 「トゥナイト、トゥナイト」
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