カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

学者のウソ

2011-11-07 | 読書
学者のウソ/掛谷英紀著(ソフトバンク新書)

 ここ最近は科学的学説というものと信用というものについて、大きな揺らぎのようなことが起こっているようだ。御用学者という言葉もあるし、あたかも都合のよい方便の為の学問があるようなことも言われたりする。さらに批判している人達が正しい科学的根拠を持っているのかというのが怪しいということもあり、専門家で無い人間が容易に判断できないという困った現象も起きている。当たり前だが、もともとそういった言論自体は科学でもなんでもない。
 そもそも世論というものが科学的根拠を元にしているわけではない。世論はいわば感情で、科学的事実というのはそもそも感情は関係が無い。そういうところに、ある種の誤解の根本が隠れているような気がしないではない。結局利用している方も、批判している方も、実際の科学なんて利用可能なものだと思っているのだろう。
 もちろん科学を根拠に論を進めるというのは、何よりそれは事実であるわけだから強力である。ただし、科学的事実と本当に関連のある論理なのかということの検証が必要になるということだが。
 更に非線形性という分野があって、そういうものは科学として扱うのは無理があり過ぎる。例えば気象などの未来予測については、そもそも科学として論じていいものか疑問のあるものは多い。何パーセントの確率でそうなるというのは、時間がたてばはっきりするものの、いくら議論しても結論を導き出せる問題なのではない。多数決で天気は決まらないのである。最近は地震予知などの分野に嫌疑がかけられるということもあったようだが、今後も不必要であるかはともかく、限りなく難しい分野であるのは間違いなかろう。人間として知りたいという欲求や必要性はあるにしても、それが科学的根拠として採用される日が来るのかどうかも分からないのである。
 現代人にとっては科学というのは一種の信仰のようなことになってしまっている。科学を信じているというのは科学的思考の一番対極の事のように思えるのだが(なぜなら科学はある意味で疑うことだから)、多くの人はあたかも神を信じるがごとく科学を信仰してしまっているように思える。学者の誰彼がそう言っていたとか、理解できないのは馬鹿だとか、自分の都合のよい論拠を引っ張り出して、いわばレトリックとして科学を崇拝するのである。ディベートで勝つことが科学的真理と何ら関係ない事は、まず最初に知っておくべきだ。正しいから勝つのではなく、負かしたから勝っているだけの意味の無い遊びである。人間社会の、特に政治においては意味のあることでも、自然科学では何の意味もありはしない。
 それでは困るとか、どうすればいいのか途方にくれる人もいるのかもしれないが、事実というのはそれでも存在するということに過ぎない。科学者にも政治に長けている人もいるかもしれないが、それは科学的な実績とは本来は関係が無い。
 そうはいってもやはり根拠を元に議論をする必要があって、そうして事実に基づかない話が政治的に勢力をもつことの方があんがい多くて実害が起こる。信仰というのは話し合いにおいて厄介なように、今は科学がその厄介さを助長させてしまっているのである。まあ、時間がある程度過ぎて検証をすると事実は誰でも判明できるようになるにせよ、人間寿命の所為か、せっかちな性分はそれを待てはしないだろう。その上忘れっぽいので、過去の教訓も生かせない。人間と科学というのは本来相性の悪いものなのかもしれない。
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