おいしいコーヒーの真実/マーク&ニック・フランシス監督
僕は小学生時代はコーヒーを好んで飲んでいた(自転車こいで豆を買いに行っていた)のだけれど、大人になるにつれて段々と苦手になって、ついにはほとんど飲めなくなってしまった。大人になると牛乳を飲めなくなるのと同じようなものなのかもしれない(そんなわけ無い。ちなみにもちろん牛乳は危ない)。しかしながらもともと好んで飲んでいたから、味が分からないわけではもちろん違って、体質的に受け付けなくなったという感じであって、同じく牛乳の味だっていまだに嫌いなのではない。一日誰とも会わないでいいような環境にあれば、別にコーヒーを飲んでもいいのかな、とは思う。具合が悪い時に他人様と一緒にいるのがつらいだけだから、一人ならおいしいコーヒーを飲んで苦しめば済むだけの話である。
多くの人がコーヒーを飲むようになったのは、どうしてなのだろうか。コーヒーの魅惑的な香りと味であるというのは、当然すぎる答えであろうが、いわゆる文化の香りというような憧れの飲み物である側面もあるのではないか。日本はアメリカ経由ということがまず言えるだろうけど、アメリカは反英国だったのかもしれない。
この間テレビを見ていたら、ヨーロッパでは特にイタリアが熱心に飲むらしいとのことだった。ちょっと驚いたのは流通に長けているのではなく、エスプロッソをはじめとする技術革新の成果なんだという。だから例えば国際的に有名な「イリー」というコーヒーのメーカーは、エンジニア会社と自社を考えているのだとか。なるほどね。
さて、映画の方だけど、アフリカの生産者と国際的なコーヒー買い付けの資本の搾取問題をドキュメントしたものである。今でもこのような搾取構造が抜けないのがコーヒーの背景にある社会問題であるというのはそうなのかもしれないが、一次産業というのは、多かれ少なかれこのような構造のもとに、非合理な搾取がなされているということなのであろう。もちろんそんなことを知らずに先進国といわれる国の人々は、のうのうとおいしいコーヒーを楽しんでいるという訳である。
確かに嘆かわしいことだけれど、しかしこれは生産している国の事情の方が、もっと深刻なものを生んでいる背景なのではないかとは思えた。そういうお国の事情を描くことなしに、買い付けに来るメーカーの手先を批判できるのだろうか。利益というのはあくまで差額だから、安く買い叩いて暴利を得ているというのは(そういうところもあるだろうけど)途中で抜いている連中のようにも思える。むしろ末端で販売している世界的コーヒーメーカーというのは、先ほど紹介したように技術面で躍進したり、店舗やイメージなどを作り上げて、一杯の価値をあげているのではなかろうか。また、それでもおいしいコーヒーが飲みたいという欲求を満たすためには、相当の別の理由を積み上げて出来た複雑な要素が絡み過ぎている問題なのではなかろうか。
しかしながら、だからと言ってエチオピアの苦悩はそう簡単に解決が出来ないのが現実だろう。生産している農民が真っ当に豊かになれば、国全体だって結果的に豊かになるのは道理である。そうやって多くの国は多様なものを生産するようになり、農業以外の産業を取りこんで行ったのかもしれない。対比させるだけでなく、そのようなものを融和させていく方法を考えないことには、どうにもならない気がしないではない。
僕は詳しくは知らないけれど、今はコーヒーの豆の生産地は、アフリカ諸国だけとは限らなくなっているのではなかろうか。それなりの流行りというのはあるだろうけど、いつまでもアフリカが主流であり続けるとも限らないのかもしれない。コーヒーの豆を如何に二次加工していくことが出来るのか。また、そのようなものを如何に他国に売ることが出来るのか。そんなような事を考える人が、当然エチオピアにもいるに違いないと思う。そういうことを支援できるかどうか。もしくは邪魔をしない、フェアな監視のようなことが出来るのかどうか。そういうことがコーヒーを仕入れている国が考えるべきことなのかもしれないと思ったことだった。
僕は小学生時代はコーヒーを好んで飲んでいた(自転車こいで豆を買いに行っていた)のだけれど、大人になるにつれて段々と苦手になって、ついにはほとんど飲めなくなってしまった。大人になると牛乳を飲めなくなるのと同じようなものなのかもしれない(そんなわけ無い。ちなみにもちろん牛乳は危ない)。しかしながらもともと好んで飲んでいたから、味が分からないわけではもちろん違って、体質的に受け付けなくなったという感じであって、同じく牛乳の味だっていまだに嫌いなのではない。一日誰とも会わないでいいような環境にあれば、別にコーヒーを飲んでもいいのかな、とは思う。具合が悪い時に他人様と一緒にいるのがつらいだけだから、一人ならおいしいコーヒーを飲んで苦しめば済むだけの話である。
多くの人がコーヒーを飲むようになったのは、どうしてなのだろうか。コーヒーの魅惑的な香りと味であるというのは、当然すぎる答えであろうが、いわゆる文化の香りというような憧れの飲み物である側面もあるのではないか。日本はアメリカ経由ということがまず言えるだろうけど、アメリカは反英国だったのかもしれない。
この間テレビを見ていたら、ヨーロッパでは特にイタリアが熱心に飲むらしいとのことだった。ちょっと驚いたのは流通に長けているのではなく、エスプロッソをはじめとする技術革新の成果なんだという。だから例えば国際的に有名な「イリー」というコーヒーのメーカーは、エンジニア会社と自社を考えているのだとか。なるほどね。
さて、映画の方だけど、アフリカの生産者と国際的なコーヒー買い付けの資本の搾取問題をドキュメントしたものである。今でもこのような搾取構造が抜けないのがコーヒーの背景にある社会問題であるというのはそうなのかもしれないが、一次産業というのは、多かれ少なかれこのような構造のもとに、非合理な搾取がなされているということなのであろう。もちろんそんなことを知らずに先進国といわれる国の人々は、のうのうとおいしいコーヒーを楽しんでいるという訳である。
確かに嘆かわしいことだけれど、しかしこれは生産している国の事情の方が、もっと深刻なものを生んでいる背景なのではないかとは思えた。そういうお国の事情を描くことなしに、買い付けに来るメーカーの手先を批判できるのだろうか。利益というのはあくまで差額だから、安く買い叩いて暴利を得ているというのは(そういうところもあるだろうけど)途中で抜いている連中のようにも思える。むしろ末端で販売している世界的コーヒーメーカーというのは、先ほど紹介したように技術面で躍進したり、店舗やイメージなどを作り上げて、一杯の価値をあげているのではなかろうか。また、それでもおいしいコーヒーが飲みたいという欲求を満たすためには、相当の別の理由を積み上げて出来た複雑な要素が絡み過ぎている問題なのではなかろうか。
しかしながら、だからと言ってエチオピアの苦悩はそう簡単に解決が出来ないのが現実だろう。生産している農民が真っ当に豊かになれば、国全体だって結果的に豊かになるのは道理である。そうやって多くの国は多様なものを生産するようになり、農業以外の産業を取りこんで行ったのかもしれない。対比させるだけでなく、そのようなものを融和させていく方法を考えないことには、どうにもならない気がしないではない。
僕は詳しくは知らないけれど、今はコーヒーの豆の生産地は、アフリカ諸国だけとは限らなくなっているのではなかろうか。それなりの流行りというのはあるだろうけど、いつまでもアフリカが主流であり続けるとも限らないのかもしれない。コーヒーの豆を如何に二次加工していくことが出来るのか。また、そのようなものを如何に他国に売ることが出来るのか。そんなような事を考える人が、当然エチオピアにもいるに違いないと思う。そういうことを支援できるかどうか。もしくは邪魔をしない、フェアな監視のようなことが出来るのかどうか。そういうことがコーヒーを仕入れている国が考えるべきことなのかもしれないと思ったことだった。