カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

幽体離脱とメタ認知

2010-03-14 | 雑記
 総会シーズン。死のロードが続いております。まあ、総会とは関係ないものもあるけど、いろんなものがごっちゃになってしちめんどくさいのでごっちゃなままにしておきます。職場にはちょっとだけ顔を出す程度で、何日も仕事らしい仕事はほっぽり出して会合にばかり出ていると、人生の浪費というか無駄とは何かとか、愚痴ばかり考えてしまいます。ぜんぜん不必要であるわけではないとは思うものの、結局こんなことにかかわりの無い人間はかかわり無く済ませて生きて行っておられる事を思うと、誰かのための浪費を肩代わりしているだけの人生のように思えて虚しいのかもしれません。
 人間というのはこのような無意味なことをしていることを認めたくないという心理があるらしくて、実際にこのような会合を命のように張り切っている人もおられるのがさらに厄介でうっとうしく思われます。何事も前向きに生きている人は、単なる害悪だけでなく、邪悪な悪魔のようなものだと悟る必要があります。ぶつからず通り過ぎるのをただじっと待ってやり過ごすより方法がないのであります。何しろ彼らの方が世間知においては残念ながら圧倒的に正しいのですから。僕らのようなまともな人間はひとたまりもなく取り込まれて圧死させられるのがオチなのであります。
 おっと、しかし楽しいこともあるんですよ。人間というのは精神においては自由です。拷問を受けながらでも精神を自由に羽ばたかせることはできるんだと思います。ものすごい時間的浪費をしながらも、自由な浮遊した精神を遊ばせて楽しむことは可能だし、あたかも幽体離脱するがごとくメタ認知を働かせて思索にふけることはできます。なれてくるとそれなりに楽しくなったりすることもあるので、できるだけくだらない内容の方がありがたかったりすることもあるわけです。変に興味深いことにぶち当たったりすると、集中して離脱することが却って困難になります。ただ参加させられているような、無意味な時間だからこそ逃避が簡単なことが実際にあるのだと思います。
 さて、そういうわけで、やっと今日は自宅にいられるというありがたくボーっとした時間をかみ締めながら、また午後からは旅立ちたいと思います。つぶやきの方は可能かもしれないので、そういう浮遊したライブ感を磨いてみたいものだと考えております。どの道永遠に続く道などありません。三月だって、いつかは終わってくれるという、それだけが神の与えてくれた救いなのでありましょう。
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いまだにそんなところで…

2010-03-11 | 時事
年金:旧社保庁職員のアンケ基に新たな解決策 記録回復委
 年金記録を正確に回復するのって、すでに不可能なんじゃないかと思う。
 亡くなった父の年金記録にも空白のところがあって、母と一緒に出張所に行ったことがある。父が以前勤めていた病院での記録がすっぽり抜けていたからだ。
 いろいろと調べてもらったが、その空白がなぜなのかは結局分からずじまいだった。院長をはじめその病院の全職員が厚生年金に加入している中で、父の記録だけが無いということだった。そんなことがあり得るのか、とかなり疑問に思ったが、現に記録が無いとしか言いようがないですね、ということでお終いだった。
 窓口の対応は申し分なく良かったのだけど、だからといって疑問がぬぐえないまま諦めるよりなかった。仮に父だけがどうしても年金加入を拒否していたとしても、それが何故だったかは今となっては僕らにも分からない。父はその後転職をするのだが、それ以降はもちろん年金に加入している。
 無くなった記録が復活するとは思えない。勤めていた事実は分かっていても記録がなければ無いとしか言いようがないだろう。もちろん父の記録が間違っているかどうかが断定はできないことは分かっている。正しいという可能性もむしろ高いのだろう。だって、現に記録がないのだから。
 しかしながら比較的分かりやすい過去であってもこのようなものなのだから、何万、何百万件とあるそれぞれの情報が正確に戻ると考える方が無理があるように思う。消えた年金記録を取り戻すことより、持続可能な年金システムを団塊の世代が年金を受け取りはじめる今すぐにやることの方が何百倍も重要なことである。年金は破綻していないと強弁しているけど、今のまま50年もたないことは事実として確実なことなのである。時間をかけることの方がはるかに罪深い。いっそのこと年金制度はご破算にしてしまった方が合理的なのではあるまいか。
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愛のむきだし

2010-03-10 | 映画
愛のむきだし:予告


愛のむきだし/園子温監督

 あまりの名作かげんに呆れてしまう。いや、打ちのめされる。
 4時間という時間に躊躇していたし、この予告編を観て分かるとおり、自宅でつれあいと思春期の息子達と一緒に観るということも、かなり問題のようにも思われる。しかし、傑作という真意は確かめてみなくては…。
 しかしながらぜんぜんそんな心配はおかまい無しに、いきなりその面白さに没頭してしまう。実は前半と後半は日時を分けて観たのだけど、特に前半の爆発力にはまいった。多少コメディタッチではあるけど、ものすごい映画であることは間違いない。エロだけでなくグロも満載だけど、純文学より純粋だ。本当に素直に、愛とは何だ、と頭の中でリフレインが続く。他人の勃起をみるだけでこんなに感動をすることがあるとは、思いもよらないことだった。こんな説明してもかえって支離滅裂に聞こえることはなんとなくわかるのだが、ぜんぜん冗談で言っているわけでないので困るのである。愛ゆえに死ぬほど苦悩し、人間として生きるために再生し離脱するという、正真正銘の感動の物語なのである。
 それにしても、実話が元だと言ったって、これは凄すぎるだろうというという世界。後半は宗教の恐ろしさも考えさせられて、実にお得な満足感も得られる。エンタティメントに徹していながら欲張りに芸術的かつ哲学的テーマを紐解く世界観に脱帽するよりない。なんという力強さ、そしてカタルシスだろう。
 愛の物語を真面目にやると、どこか「ケッ」という恥ずかしさをいだいしてしまう屈折した人間にとって、愛というものは素直に生きる力だということを言っていいのだと分からせてしまえる見事な名作であると言わざるを得ない。おそらくこれは人を選ばない。勇気を持って観ることをお勧めいたします(いや、やっぱり観ない方がいいかも…)。

追伸:安藤サクラって、奥田瑛二の娘なんだ…。
 本当にDVD買ってしまうかもしれない。少なくとも人生のうち何度か見直すことになるんじゃないだろうか…。

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なんでそうなる、芦田の毎日

2010-03-09 | 雑記
 ツイッターで紹介されていたものを孫引き。芦田の毎日
 紹介ツイートは何処に行ったか分からなくなった。ゴメン。
 何なんだこの世界観。という感じ。話の展開も落ち着いていく結末もまったく予期不能だったので唖然としてしまった。
 世の中にはいろんな人がいるというか、類は類を呼ぶというか。
 何というか、誰が災難だったのだろうか? でも面白かったのでよかったです。
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賢い人間が少なすぎる結果

2010-03-09 | 読書
シゴトの渋滞、解消します!/西成活浩著(朝日新聞出版)

 結論からいうと仕事においても渋滞緩和策と同じ対応で解決できるということ。つまり車間距離をあける。仕事を車に例えるなら仕事と仕事の間に隙間をつくる。そんなこと出来ないよって思う人もいるかもしれないけど、要は余裕を持って仕事をこなすということ。計画を立てて時間割をつくって、その通りに作業をするというそれだけのことができていないから、仕事であっても渋滞を起こしてしまう。一度詰まってしまうとさらに効率が落ちるので、渋滞をつくらないことの方が大切だということのようだ。まさに耳が痛い。詰まらせているのは、たぶん意識的に先を急ぐということにもあるらしい。もっと要約すると、余裕が無いからさらに渋滞を無理に作ってしまうことにあるようなのだ。
 もちろん精神論で片付かないから、具体的な方法もいくつか紹介してある。これも基本的には分業することが基本に置いてある。日中仕事をする上で集中力を奪う仕事は何か。職場によっても様々だろうが、たとえば電話に注目する。電話を時間をきめて順番で取るという役割(ルール)をつくってはどうかと提案している。少しずつ負担を散らすことで、集中する詰まりの原因を散らすことができる。
 日中やろうと思っていた仕事が捗らず、結局5時以降になって集中して片付けるという経験を持っている人も多いことだろう。誰もサボっていないのに、自分の仕事も減らせる要素も無いのに、どうにもならない問題のように思える。結局仕事を片付けるために重要なのは集中力なのに、仕事の中に集中を阻害する仕事が多すぎることがあるようなのだ。
 普通ならここで、如何に自分の時間を確保するか。分業するならいかに自分の仕事を人にやらせるか、というようなことになってしまうのかもしれない。マネージメントの本なんて、つまるところ人にやらせる方法論だ。しかしながらこの本が勧めている方法はちょっと違う。みんなにちょっとづつ我慢してもらうことと、目いっぱいがんばらず、7割くらいの力でコツコツやることを勧めているのだ。個人の利益より全体の利益を考える方が、結局は効率が上がるということらしいのだ。
 経済学には比較優位という考え方があって、個人や会社の得意分野に特化して仕事をする方が、最終的には全体的な利益は上がるということが言われている。経済効率を考えた上でも、実際に仕事を分担して行う上でも、もちろんその通りなのだろう。しかしながら不思議なことに、仕事の内容に特化してそれだけをやってもらうよう分けて見ると、逆にいろいろと不協和音が聞こえるという話もよく聞くものなのである。日本人の仕事のやり方にも問題があるのかもしれないが、営業は現場が分かっていないとか、現場は客の要望が分かっていないだとか…。もちろん程度問題もあるし、そういう溝はどうしても埋められるものではないという考え方もあるだろう。しかしながらスペシャリスト集団が必ずしも最大の効率を達成できるとは限らないわけである。
 結局は相手の気持ちをどれだけ理解しようとして譲歩できるか。そのためにはスペシャリストも不要とまでは言えないまでも、ある程度全体を俯瞰できるような、あえて自分とは関係ない仕事をしていくことも必要になってくるのだろう。それだけをやっていれば全部いいなんていう単純な社会では、そもそも世の中の成り立ちは違うらしい。
 どこかに問題が起こることの多くは、何かの詰まり、渋滞のようなものを起こしている場合が多いのかもしれない。それぞれが効率よく動くために、皆が少しづつ譲り合うということができると、全体の利益は飛躍的に向上する。その分かりきった事実を頭では知っていながら、実際に実行できる賢い人間が実に少ない。実行すれば自分だけが損をするのではない。実は巡り巡って自分に帰ってくる利益なのだ。先を急ぎたいならゆっくり進む。これはモラルの問題ではなく、実に効率的な学問的な根拠に基づく人間の叡智なのである。
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羽衣あられ

2010-03-08 | 
 子供のころ友人のM田の家に遊びに行くと、なぜかおやつがこれだった。懐かしくなって買ってしまった。今でも当たり前のように売ってあって妙に嬉しかったのだが、僕のように一時心が離れていても(僕はお菓子を買う習慣が無いから仕方が無いのだ)当たり前のように変わらずに人気があるということなのであろう。
 この紹介にあるとおり古い会社らしく、その上理念もなかなか立派だ。ブルボンなんて変な名前だと思っていたけど、全面的に考え直すべきは僕の方かもしれない。
 塩加減はちょっとからめだけど、改めて偉大なお菓子のような気がしてきた。また目にしたら買い占めてしまいそうである(実は今回も4袋買ってしまったのだった)。
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Sheryl Crow - Hard To Make A Stand - liv...

2010-03-07 | 音楽
Sheryl Crow - Hard To Make A Stand - live


 シェリル・クロウのインタビューを読んだ。彼女の音楽のキャリアの始まりはマイケル・ジャクソンの「バッド」のツアーのバックコーラスからだったのだという。へえ。
 いかにもアメリカの(成功した)ミュージシャンらしい発言がたくさんあって、まあ、ちょっと割り引くにしても元気になる。
 
 あなたが学んだ最大の教訓とは
「大事なものを見落とすなということ。キャリアで人生が決まるのではない。人生の目的は愛なのよ」

 うーん、やっぱり彼女は僕のロックスターだ。
 いろんなものを見落としながらキャリアを積んできた僕としては、憧れをもって座右の銘にしたいものである。人生の目的なんてなんだって良いので、適当に書き換えて大事なものを選択すればいいのだと思う。ま、これがけっこう難しいのだけどね。浮世の義理が世間なのだから…。
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休日の分散化を決めてほしいか…

2010-03-05 | culture
 観光庁が検討している休暇の分散化についていろいろと反応が出ているようだ。実現化されるとすると早くても2012年からということらしいから、すでにそう遠い先の話ということでも無くなっているのだろう。
 僕の事業所の話でいうと、もともとそんなに関係のない話ではある。仕事はシフトを組んで行うので休日と個人の休みというのはあんまり関係が無いからだ。その上年中無休。別に特殊な形態とも思えないし、多くのサービス業も似たようなものだろう。だから個人がどのように休むのかということの方が大切なことで、出来るだけ一人一人が長期休暇を取れるよう年間で計画を立てることの方が課題といえば課題だ。休みも給与のうちということは誰も了解していることだと思う。仕事は第一に考えてほしいことは本音としてあるにせよ、個人が仕事で埋没するのは本末転倒である。また、祭日が関係なくなると有給休暇の取得率は上がる。経営者の人は一度そのような現実には目を向けた方がいいんじゃないかと思うほどだが、まあ、それは別の機会にでも。
 僕がほんのちょっと気になったのは、祭日の意味というところかもしれない。お上が決めた休みだからそういうことをいうのかとも思うけど、祭日は休めばいいってものでもなかろう。休日という前に祭日という意味が優先するのは当たり前だろう。国民の祝日というのはやはりその日に意味があってのことだというのは、実にまっとうな感覚だと思う。
 僕は長年地元の祭りにかかわっていたこともあって、この感覚は実に自然なものだと感じている。土日に開催して参加しやすいものにすべきだという、一見真っ当というか、経済優先(そういう思惑で盛り上げるという立場があるのは当然としても)というか、そういう圧力と長年戦って来たこともあって、何度も祭りというものはそういうものではないと抗弁する立場に立たされ続けてきたのだった。今となっては懐かしいが、本当に毎年判で押したように同じことをいう人が現れるのには呆れたものである。誕生日や結婚記念日が毎年変わればおかしいと誰もが思うだろうけど、祭りなんてそんな認識なんだと悲しくなったものだった。
 さてしかし、今は何でも経済効率優先ということであるらしい。経済無視より少しはましかもしれないけれど、さすが共産主義国家のような計画経済を企てる日本のお役所らしい発想だな、と思ったら、もともとは観光業界の要望にこたえてのものだという。お上に要望を立てて救ってもらおうなんていう発想を捨てきれないから駄目なんだという気もしないではないが、確かにゴールデンウイークに祭日が集中するというのは効率が悪いことなのかもしれない。僕の知り合いの波佐見の住人は、その時期にはものすごい渋滞に見舞われ不便極まりないので、家にこもるか脱出せざるを得ないという愚痴をこぼしていた。何事も渋滞するのは非効率だという合理精神を鑑み、流れを良くするという緩和策を考えざるを得ない立場になれば、このような案を立ち上げなければならなくなったというのも分からないではない。なるべく意見のまとまらないバラバラなことの好きな人間である僕の立場からすると、このような火種はなかなか面白い現象を呼ぶかもしれないとは思うのであった。
 まあしかし、やはり個人の認識がこのように国家の政策次第でコロコロ変わるような国民性であるかぎり、どのように変えたとしても似たようなものにしかならないのではないか。観光業界が要望するというのは、いろんな休みの地区に、ぜんぶ参加するような人を取り込もうということもあるのかもしれないが、逆にこの計画に敗れて規模を縮小するところは必ず出てくることだろう。
 日本という国は本当に不思議な国だと遠い目をしてしまうのだけど、やっぱりそれでも自主性が無いから国が悪いとしか思わない人が多いのだろうと悲しくなるしかないのだった。僕の生きている間には、おそらく変わりなく日本人は日本人のままなのかもしれない。
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アキレスと亀

2010-03-04 | 映画
Achilles to kame


アキレスと亀/北野武監督

 映画として鼻につくところが無いわけではないが、安定して面白いしなかなか考えさせられるところもあった。
 基本的にコメディなので笑ってしまっていいことなのだけど、片隅のところでなんとなく怒ってしまうような、そんな気分になるところがあるのだ。それはたぶん芸術なんてやってやがって、というおでん屋のおやじのようなところが、僕の中にもあるためだろう。同時にしかし、それを言ったら死ぬよりないな、と思ったら、本当に自殺してしまったりして大変に驚いた。
 僕は飯を食うために働くという刹那的な、しかしある意味で現実的な見方を否定はしないし、今言ったように僕の中にもある感情だということは認めはする。しかし、どこかもっと違うところで、人間は食べるために働くのではない、というような事を思いたい理想的な自分を捨てきれないでもいる。実はそうありたいというだけでなく、飯を食う以上に、ひょっとすると大切なのではないかという思いがあるらしいのである。だからといって芸術を肯定するということを同時に出来るような器量が足りないのは問題だと思うが、それはたぶん象徴的なことなのであって、監督であるたけし自身も、たとえば自分の本分(って、わからなくなっていくところはあるにせよ)であるお笑いだって、本当は何にも役に立たないことが分かっていて、しかし大切なものだということをいいたいに違いないのではないかとは思うのであった。いや、それは、この映画のように、本当に分かってもらおうなんていうことなのではあるまい。達観的に自分の決意としてこれからもやっていこうということなのだろう。
 しかしながら仕事の多くは、他者からの支持が無ければ続けられないし、事実食ってはいけない。食える人は、才能も関係ないではないが、実は単に宝くじが当たったような、そのような運があるということが何より重要なのである。それはだから、本来的な仕事なのではやはりどこか違うのである。僕の中の分裂症的な感覚は、仕事としての芸術的なものごとに対してということなのであろうと思う。だから、人間が生きるということは、必ずしも仕事イコールではないということもあるわけだから、乱暴にひとくくりにすることの方が、思考を妨害していると考えた方がいい。
 そういう訳で、このような生き方があってもいいのだけれど、身内にこのような人がいると、まわりの人は不幸になるのである。自分はハッピーだからそれでいいというようなものではないのだから、芸術は厄介だなと思うのである。もちろん一定以上の距離があるから、このようにコメディとして楽しめるにせよだ。
 芸術家は努力すればするほど、まわりの人を偉くしていく。実はそんなようなことも考えさせられてしまった。つまり芸術を受け入れられる社会というのは、やっぱりそれだけ余裕のある豊かな社会だということが言えるのだろうと思う。本来は迷惑を掛ける側になりたい自分は、やりたい事を捨てては駄目だということも思う訳だ。その両立を果たせる人生こそ、何よりしあわせなものなのかもしれない。単に賭けに当たるようなことだとしても…。

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ツイッターとは何だろう(その①)

2010-03-03 | net & 社会
 ツイッター(twitterという横文字そのものの方が感じも近いのだけど、変換上めんどくさいので。また、なんでtwitterなのかということも、後で論じるかもしれない)関係のことについて呟き以外で考えるということは、追々必要になってくるのではないかと思っている。これをやらなければ時代遅れだとか、そういう強迫や恫喝をしたいというためなのではない。単なる期待からくる可能性ということでもない。いや、それは少しあるのかもしれないが、自分自身が珍しく参加している同時性のある社会現象として、いろいろレポートすることがあるんじゃないかという思いがあるからだ。
 まず、なんで僕がそんな事を考えなければならないかということには、僕だって少しばかりは躊躇が無いわけではない。僕がわざわざ解説せずとも、すでにごまんとツイッター解説本は巷間に溢れている。しかしながら実際に日常的にツイッターとかかわっていて思うことは、今までのそれで、本当に分かったような気分にならないことなのだ。正直言って僕にはまだこれがよく分からないのである。最大の動機はたったそれだけのこと。僕は分からないことは文章にしてみて、それで初めて輪郭をやっとつかめるというややこしい人間なのだ。つまりこの作業は、かなり自己中心的な欲求だといっていいだろう。そしてちょっとばかり社会批判かもしれない。
 僕はツイッターにどっぷりはまっている人間ということなのでもないと思う。いや、結構やってたなあ、という実感はあったのだけど、面白かったり詰らなかったり、ちょっと飽きたりということをそれなりに繰り返している。今はちょっと飽きたかな、というところに近いかもしれない。はっきり言ってめんどくさいこともあるし、イライラさせられることもある。それに物理的な問題として、ずっと付き合っていられるわけでもないのだ。ほどほどにという関係こそ、求められる理想像である。
 いまさらながら、最初の頃に抱いていたツイッター像は、ちっとも目新しくないんじゃないかということだった。だってネット上のつぶやきなんて、すでに誰だってやってたことじゃないか。いろいろなコミュニティがあるし、日本には2ちゃんねるみたいな場所がそれなりに盛況である。僕もだいぶ前に顔を出して、すでに飽きた世界だ。つながりという関係性においても、mixiみたいな閉じられているけどそれなり大きな世界がちゃんと機能している。その上に140文字という制限までついて、なんで個人のつぶやきを発信しなければならないのだろう。
 ところがですね、これがまず最初に大きな認識違いだということが段々と分かってくる。いや、最初は分からなかったんですよ。誰ともつながってないし、ただつぶやいても空しいだけだし…。
 仕方なく誰か友達がいないか探すことになるんだけど、友達がどのような名前で登録しているのか分からない。まったく探しにくいのである。思いつく名前を書いてみても、見事に誰も探し出すことなんて出来なかったのである。これが僕の最初のつまづきのようなものでもあったし、ラッキーなところでもあったのかもしれない。
 仕方ないから、なんとなく有名そうな人を探さざるを得なかった。ツイッター上で有名な人って勝間さんとか池田さんとか、大臣している(してない政治家も増えたけど)ひととか、ジャーナリストみたいな人たちが多くて、中にはかえって詰まんない人もいるにはいるけど、それなりに考えて発言している。いわば呟きの見本のような感じがあって、ものすごく勉強になるわけである。ハマコーみたいな意外性のスターも登場するし、自分のつぶやきをすることより、まずは他人のつぶやきを見物する楽しみを見出したわけだ。
 このような人たちは、フォローする人は少ないにしてもスターだから圧倒的にフォローされている数が大きい。友達や知り合いじゃないにしろ、興味を持っているという仲間ということもあるし、その上これはツイッターの最大の利点だけど、クリックするだけで関係を結べるのだから友達(フォロー)を増やす垣根がものすごく低い。有名人のフォロワーをどんどんフォローしていくだけで、自分のフォローする仲間がどんどん増えていく。そういう時にある人のつぶやきで、フォローが600を超えると世界が変わるというツイート(つぶやき)があって、ますます意を強くして、積極的にフォローを広げていったわけだ。いったいどんな風に世界が変わるのか、自分の目で確かめてやろうじゃないですか。
 このようなスターの発言にはものすごく影響力が大きくて、瞬く間に関連のつぶやきが連鎖する。小さいながら社会現象の波が、波紋を広げるように広がるのが手に取るように分かるようになる。これが僕が最初に感じたツイッターの面白さの最大のものだったかもしれない。
 ひとつひとつは、たとえば「腹減った」とかたわいのないものが混ざっているにせよ、連続してつぶやきを拾っていくと、その時間軸の中で世論のようなものが見えてくる。これは新聞やテレビなどがある意味で意識的に拾って形成していくものとはかなり違うものあるし、そのスピードや変化というものがまるで違う。そしてその話題は本当に多岐に渡って飛んで消えて行ってしまうのである。共感できるものもあるし、まったく異質のものもある。しかしある程度ランダムにフォローを広げていくということになると、やっぱり600程度のサンプルが必要になるということなのだろう。少なくとも僕はそのように理解し、小さいながらダイナミックな日本の世論形成を体験して楽しんだわけである。
 人によって感じ方はいろいろあっていいが、まさにそのいろいろあっていい世界が形としてそれなりに整っていくというのがツイッター的世界観なのではないかと思う。もちろんそれだってほんの一部の偏ったものだという見方もできるだろうけど、感覚としては生の生。メディアの意識的なものがあんまり感じられないダイナミックさが面白いのであった。(たぶん、つづく)
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治療が必要なのは…

2010-03-02 | 時事
ロシヤのチンパンジー、喫煙と飲酒のリハビリ施設に入所
 まあなんというか、ユーモラスなニュースという受け止め方をすればいいということなんだろう。人間の多くもそのような立場にいるのではないかという警告と揶揄も含んで。
 しかしながら冷静に考えると、与える人がいない限りそのような習慣が続くはずはない訳で、そういう環境から避難せざるを得ないという可能性は無いのだろうか。そういう環境というか、人間からの逃避である。本来はそのような人間の方が問題なのだが、そのような人間の方は矯正が難しいということも含んでいるような気がする。第一チンパンジーに対処できるリハビリ施設という存在が限りなく怪しいのである。
 本来喫煙や飲酒は病気では無い。しかし病的だと判断する人間がいるということが問題なのである。それ自体が病的な社会であって、治療が必要なのではないだろうか。
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バスに乗って行こう

2010-03-01 | 散歩
 訳あって久しぶりに乗合バスに乗った。
 バスに乗らなくなったのは自家用車を持っていることが何より大きいと思う。普段の生活で利用する必要が無い。特に田舎では車なしでの生活は考えられないレベルにあるので、成人したらバスを利用しなくなるのは、いわば当然の帰結と言える。
 という訳で日曜日の日中にバスを利用すると、実にのんびりした感じでなかなか楽しめた。長崎市内の端の方の路線に乗ったので、蛇行する山間の道を大きなバスが縫うように走るだけで感動してしまうのだ。運転手さんって(ドライブテクニックが)凄いなあと思う訳だ。僕はアジアの都市での経験しか知らないが、路上駐車がびっしりの中で走るマカオの小型バスも凄いと思うし、ベトナムの自転車やバイクの群れに突っ込むバスも凄いのだけれど、やはり長崎の山の上を走るバスは、のどかな中でもさりげなく凄いのであった。
 さてしかし、僕以外での利用者を見ると、圧倒的に高齢者ばかりなのである。一人だけ小さい子供を連れたお母さんがいただけで、あとはほぼ少なくとも子育ては済んだという世代の人たちばかりなのである。なるほど、自家用車を自分で運転しない人たちということなのであろう。
 日曜の昼の時間帯ということもあるのだろうけど、座席が全部は埋まらないという程度の利用率である。平日との違いは分からないが、これでもそれなりに利用が多い方なのではないかとも思うのである。僕の住む地方のまちで、5人以上人が乗っているバスを観ることの方が珍しい。
 僕は散歩が好きなので、よっぽど飲んで帰りが遅すぎない限りはタクシーは利用しない。出張に行く都市部は電車で事足りる。リムジンバスを利用する場合もないではないが、それはよっぽど事前に調べてのことである。雨が降っていたり荷物が多すぎたり誰かと一緒だったりしない限り、タクシーなどの乗り物にはむしろ乗りたくないという心理がある。
 バスを利用する機会が少ないさらなる理由は、バスしか通らないところにはいかなくなったということが大きいのだろう。バスはそういう路線のために生き残っているということなのではないか。
 またバスというのは、なんとも言えず敷居が高い感じもするのである。行き先が分かっていても、どこで乗ればいいのか、バス停の時刻表を見てもすぐには分かりづらい。さらに料金がいくらになるのかもよく分からない。東京なんかだと先払いしなくちゃならなくて、さらに乗るのが億劫だ。かと言って後払いでも、どのように料金が上がるのか、なんとなくドキドキしてしまう。小銭の両替をするタイミングだって注目を集めそうで恥ずかしい。十円単位くらいなら無視してもよいけれど、何百円かのところを1000円で支払うのもかえって気障すぎてカッコ悪い。降りるときにボタンを押すのも、なんとなく気恥ずかしい。誰かほかの人が押してくれたらいいのだけれど、自分しか降りないというのはものすごく不安である。そういう準備が必要と考えただけで、やはり急にバスに乗ろうという気分になれるわけが無い。
さらに待ち時間というのがある。たぶんほとんど時刻表通りには運行されているには違いないのだろうけど、待つというのは不安なのだ。また雨が降っていたりなんかすると、さらに心細くなることだろう。
 もちろんだからといって、そのような問題がそう簡単に解決されるとはやはり思わない。今でも十分にバスは努力してきたのだろうし、僕のような人のためにバスがあるのではもともと違うのであろう。たまに乗る分には、それくらいは事前に調べるくらいのことをするべきなんだろう。
 しかしながら今回久しぶりに乗ってみると、たまには乗るのもいいとは感じたのだった。通勤にバスにしたいとも思わないし、またそれは不可能にしろ、日曜にブラブラするには、バスに乗るというのはあんがいウキウキ出来るのではないか。立ち寄った店で少しばかりビールを飲んでもいいだろうし、歩きたくなれば途中下車すればいいのだ。
 まあそれでもまたしばらくは、バスに乗る機会が増えるとは思えない。それくらいの付き合いである方が、僕らにとってはしあわせなことなのかもしれない。
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