カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ウナギさんたちへ

2010-03-28 | net & 社会
 弛緩しているので声高に世間様に何か言いたいことなんかない。その前に僕の言葉は世界にとってほとんど無意味だろう。それでも人はつぶやかずにいられない動物であるというのは、いったいどうしたことなのだろう。
 ひとつは個人の精神浄化であることは疑いが無い。吐き出すというのは、排泄と同じだ。いつまでも自分自身の中に溜め込んでおくわけにはいかない。上手く出てくれると大変に気分がよろしい。
 そしてやはり共感ということを求めているのだろう。世界の中心であろうと端っこであろうと、叫んだ声を聞いてくれる人がいることが救いになるのだ。
 一見ネットというのは無反応な場合の方が多い。あきらかなミスの方が人はたやすく反応してくれて、簡単に暴力を振るうけれど、よく分からない問題は、無視すればいいのだ。
 twitterを考える際に考えてみようと思っていてまとまりきれていない問題に、この無視ということがある。多くの人は平然と無視する。しかし、それを了解済みで、人はつぶやくのだ。みられてはいる。それは間違いないのだが、無視してくれるから好きなことを言うことができる。ネットというのは双方向の対話のように解説する向きが多いのだが、実際は対話というものはちょっと違うものだと思う。かといって一方通行でもない。そういうネット社会の魅力を図らずも明らかにした姿がtwitterだったのだと思う。
 僕の叫びは誰かが聞いてはいる。それは少なくとも無影響なのではなかろう。期待は返ってくるわけでは必ずしもないけれど、まったく無駄なのでもないのである。多くの無視する背景こそが、僕らを救う鍵なのだ。
 村上春樹は読者という他者に向かって書くということとは別に、たとえばウナギに対して文章を書いているというようなことを、対談の中で語っていたことがある。ウナギっていったいなんだ。禅問答のような不思議な答えだが、そういう態度であるから、文章を書いていけるモチベーションが生まれるのではなかろうか。そこに文学としての自由が生まれるのではないか。
 ネット社会の他者は、必ずしもウナギではないのだが、物言わぬウナギであっても、無視してくれる存在ではありうるのではないだろうか。
 僕は確かに僕に対する世間の批判が怖い。多くの場合は無理解のまま糾弾されうる危険が伴っている。そういうリスクを伴いながらも、僕を含めた多くの人が、それぞれにつぶやき、または叫び声をあげる。中には馬鹿が発言する機会ができただけのことだと喝破する人もいるようだが、そしてもちろんそれは事実ではあるけれど、人々がつぶやいている本質なのではない。人々は、たとえばウナギという存在に気づきだしたということなのだと思う。
 ウナギが喜んでくれるような考えを話すことができたら、どんなにすばらしいだろう。それがtwitterが本当に増殖した大きな理由なのではないかと、僕は疑っているところなのである。
コメント
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