映画『ハート・ロッカー』予告編
ハート・ロッカー/キャサリン・ビグロー監督
リアルな戦争という映画はたくさんつくられている。現実の戦争はこういう世界だ、という文法は、すでに目新しいものではない。しかしそうであっても、映画というものはあくまで疑似体験であって、本物に似せれば似せるほど、実は作りものであるという現実から逃れられないジレンマを伴っている。ではいっそのこと作りものに徹するか、似せたものでなくオリジナルの戦争をつくるか、ということになっていくのかもしれない。
この映画にはスジらしいスジは特にない。主に爆弾処理を通じたイラク戦争という現場世界を描こうとしているが、戦争賛美や反戦映画ですらないのかもしれない。いつ爆発するか分からない、つまりいつ死んでもおかしくない状態がどういうものか、ということに徹しているのかもしれない。そういう状況として、単に戦争という設定を選んだということなのかもしれないのだ。そう、人は無理やり死と向き合うとどういう状態になるのか。監督がそういうテーマで描きたかったかどうかは知らないが、少なくとも観る者には、その場面を観るだけで、そういうテーマを考えざるを得なくなる。
ところが、この映画の主人公は、死と対面するという究極の緊張感の中に立たされながら、どこか滑稽なまでに、その状態を楽しんでいるように見える。いや、もちろん死の恐怖におののいていることは見て取れる。実際苦悩のあまり、奇矯な行動を取ったりもする。しかしながら、本当に死と隣り合わせに立たされている時間そのものには、むしろ開き直るというよりは、積極的にその時間に身を寄せて楽しんでいる(もしくは充実しているとでもいえるか)というような事を感じさせられる。チームとして爆弾処理にかかわっている仲間たちは、そうした彼自身の行動に、むしろイライラし、精神的に追い詰められていく。死の場面に耐えられない人間としての素直な姿との対比は、おそらく観ている観客も同じ気持ちになるのではないか。
吾妻ひでおの漫画を読んでいたら、彼が実は酒があまり得意ではなかったということを示唆している場面があった。酒のように不味い(もしくは苦しい)ものに対して、激しい嫌悪を感じていたにもかかわらず、彼はいわゆるアル中になっていくのである。ジャンキーというのは、むしろ嫌悪しているものの中に浸かる状態なのかもしれない。それってマゾだからそうなのではなく、本質的にそういう魅力のないものだからこそ、いや、嫌悪するものだからこそ、その人を捉えて離さなくなるのではなかろうか。
戦争というものは、おそらく誰だって最初から好きな人間など稀だろう(あえて居ないとは言えないが)。本当に死ぬのが好きなら、自分で死んでしまえば済むことだ。死ぬ事はまっぴらごめんだし、死ぬほど嫌なことであるはずなのに、しかし真正面から死と向きあうと、たまらなく人を捉えて離さない本質を持っているのではないか。
もちろんきっかけは大義あってのものだったろう。誰かの命を守るため、本当に必要とされているからこそ、軍隊に入り戦地に赴いたはずなのだ。
ハート・ロッカーは戦争を賛美している映画ではない。しかし究極の死の恐怖の世界であっても、人間はそういう世界に憑かれる生物だということを見事に描き出している。決して爽快感のある映画ではないけれど、ある意味で観客までも突き放した現実を描ききって潔い映画だと感じた。そういう意味では流石に賞を取るだけの映画だということが堂々と言える見事な作品ではなかろうか。
ハート・ロッカー/キャサリン・ビグロー監督
リアルな戦争という映画はたくさんつくられている。現実の戦争はこういう世界だ、という文法は、すでに目新しいものではない。しかしそうであっても、映画というものはあくまで疑似体験であって、本物に似せれば似せるほど、実は作りものであるという現実から逃れられないジレンマを伴っている。ではいっそのこと作りものに徹するか、似せたものでなくオリジナルの戦争をつくるか、ということになっていくのかもしれない。
この映画にはスジらしいスジは特にない。主に爆弾処理を通じたイラク戦争という現場世界を描こうとしているが、戦争賛美や反戦映画ですらないのかもしれない。いつ爆発するか分からない、つまりいつ死んでもおかしくない状態がどういうものか、ということに徹しているのかもしれない。そういう状況として、単に戦争という設定を選んだということなのかもしれないのだ。そう、人は無理やり死と向き合うとどういう状態になるのか。監督がそういうテーマで描きたかったかどうかは知らないが、少なくとも観る者には、その場面を観るだけで、そういうテーマを考えざるを得なくなる。
ところが、この映画の主人公は、死と対面するという究極の緊張感の中に立たされながら、どこか滑稽なまでに、その状態を楽しんでいるように見える。いや、もちろん死の恐怖におののいていることは見て取れる。実際苦悩のあまり、奇矯な行動を取ったりもする。しかしながら、本当に死と隣り合わせに立たされている時間そのものには、むしろ開き直るというよりは、積極的にその時間に身を寄せて楽しんでいる(もしくは充実しているとでもいえるか)というような事を感じさせられる。チームとして爆弾処理にかかわっている仲間たちは、そうした彼自身の行動に、むしろイライラし、精神的に追い詰められていく。死の場面に耐えられない人間としての素直な姿との対比は、おそらく観ている観客も同じ気持ちになるのではないか。
吾妻ひでおの漫画を読んでいたら、彼が実は酒があまり得意ではなかったということを示唆している場面があった。酒のように不味い(もしくは苦しい)ものに対して、激しい嫌悪を感じていたにもかかわらず、彼はいわゆるアル中になっていくのである。ジャンキーというのは、むしろ嫌悪しているものの中に浸かる状態なのかもしれない。それってマゾだからそうなのではなく、本質的にそういう魅力のないものだからこそ、いや、嫌悪するものだからこそ、その人を捉えて離さなくなるのではなかろうか。
戦争というものは、おそらく誰だって最初から好きな人間など稀だろう(あえて居ないとは言えないが)。本当に死ぬのが好きなら、自分で死んでしまえば済むことだ。死ぬ事はまっぴらごめんだし、死ぬほど嫌なことであるはずなのに、しかし真正面から死と向きあうと、たまらなく人を捉えて離さない本質を持っているのではないか。
もちろんきっかけは大義あってのものだったろう。誰かの命を守るため、本当に必要とされているからこそ、軍隊に入り戦地に赴いたはずなのだ。
ハート・ロッカーは戦争を賛美している映画ではない。しかし究極の死の恐怖の世界であっても、人間はそういう世界に憑かれる生物だということを見事に描き出している。決して爽快感のある映画ではないけれど、ある意味で観客までも突き放した現実を描ききって潔い映画だと感じた。そういう意味では流石に賞を取るだけの映画だということが堂々と言える見事な作品ではなかろうか。