カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ツイッターとは何だろう(その①)

2010-03-03 | net & 社会
 ツイッター(twitterという横文字そのものの方が感じも近いのだけど、変換上めんどくさいので。また、なんでtwitterなのかということも、後で論じるかもしれない)関係のことについて呟き以外で考えるということは、追々必要になってくるのではないかと思っている。これをやらなければ時代遅れだとか、そういう強迫や恫喝をしたいというためなのではない。単なる期待からくる可能性ということでもない。いや、それは少しあるのかもしれないが、自分自身が珍しく参加している同時性のある社会現象として、いろいろレポートすることがあるんじゃないかという思いがあるからだ。
 まず、なんで僕がそんな事を考えなければならないかということには、僕だって少しばかりは躊躇が無いわけではない。僕がわざわざ解説せずとも、すでにごまんとツイッター解説本は巷間に溢れている。しかしながら実際に日常的にツイッターとかかわっていて思うことは、今までのそれで、本当に分かったような気分にならないことなのだ。正直言って僕にはまだこれがよく分からないのである。最大の動機はたったそれだけのこと。僕は分からないことは文章にしてみて、それで初めて輪郭をやっとつかめるというややこしい人間なのだ。つまりこの作業は、かなり自己中心的な欲求だといっていいだろう。そしてちょっとばかり社会批判かもしれない。
 僕はツイッターにどっぷりはまっている人間ということなのでもないと思う。いや、結構やってたなあ、という実感はあったのだけど、面白かったり詰らなかったり、ちょっと飽きたりということをそれなりに繰り返している。今はちょっと飽きたかな、というところに近いかもしれない。はっきり言ってめんどくさいこともあるし、イライラさせられることもある。それに物理的な問題として、ずっと付き合っていられるわけでもないのだ。ほどほどにという関係こそ、求められる理想像である。
 いまさらながら、最初の頃に抱いていたツイッター像は、ちっとも目新しくないんじゃないかということだった。だってネット上のつぶやきなんて、すでに誰だってやってたことじゃないか。いろいろなコミュニティがあるし、日本には2ちゃんねるみたいな場所がそれなりに盛況である。僕もだいぶ前に顔を出して、すでに飽きた世界だ。つながりという関係性においても、mixiみたいな閉じられているけどそれなり大きな世界がちゃんと機能している。その上に140文字という制限までついて、なんで個人のつぶやきを発信しなければならないのだろう。
 ところがですね、これがまず最初に大きな認識違いだということが段々と分かってくる。いや、最初は分からなかったんですよ。誰ともつながってないし、ただつぶやいても空しいだけだし…。
 仕方なく誰か友達がいないか探すことになるんだけど、友達がどのような名前で登録しているのか分からない。まったく探しにくいのである。思いつく名前を書いてみても、見事に誰も探し出すことなんて出来なかったのである。これが僕の最初のつまづきのようなものでもあったし、ラッキーなところでもあったのかもしれない。
 仕方ないから、なんとなく有名そうな人を探さざるを得なかった。ツイッター上で有名な人って勝間さんとか池田さんとか、大臣している(してない政治家も増えたけど)ひととか、ジャーナリストみたいな人たちが多くて、中にはかえって詰まんない人もいるにはいるけど、それなりに考えて発言している。いわば呟きの見本のような感じがあって、ものすごく勉強になるわけである。ハマコーみたいな意外性のスターも登場するし、自分のつぶやきをすることより、まずは他人のつぶやきを見物する楽しみを見出したわけだ。
 このような人たちは、フォローする人は少ないにしてもスターだから圧倒的にフォローされている数が大きい。友達や知り合いじゃないにしろ、興味を持っているという仲間ということもあるし、その上これはツイッターの最大の利点だけど、クリックするだけで関係を結べるのだから友達(フォロー)を増やす垣根がものすごく低い。有名人のフォロワーをどんどんフォローしていくだけで、自分のフォローする仲間がどんどん増えていく。そういう時にある人のつぶやきで、フォローが600を超えると世界が変わるというツイート(つぶやき)があって、ますます意を強くして、積極的にフォローを広げていったわけだ。いったいどんな風に世界が変わるのか、自分の目で確かめてやろうじゃないですか。
 このようなスターの発言にはものすごく影響力が大きくて、瞬く間に関連のつぶやきが連鎖する。小さいながら社会現象の波が、波紋を広げるように広がるのが手に取るように分かるようになる。これが僕が最初に感じたツイッターの面白さの最大のものだったかもしれない。
 ひとつひとつは、たとえば「腹減った」とかたわいのないものが混ざっているにせよ、連続してつぶやきを拾っていくと、その時間軸の中で世論のようなものが見えてくる。これは新聞やテレビなどがある意味で意識的に拾って形成していくものとはかなり違うものあるし、そのスピードや変化というものがまるで違う。そしてその話題は本当に多岐に渡って飛んで消えて行ってしまうのである。共感できるものもあるし、まったく異質のものもある。しかしある程度ランダムにフォローを広げていくということになると、やっぱり600程度のサンプルが必要になるということなのだろう。少なくとも僕はそのように理解し、小さいながらダイナミックな日本の世論形成を体験して楽しんだわけである。
 人によって感じ方はいろいろあっていいが、まさにそのいろいろあっていい世界が形としてそれなりに整っていくというのがツイッター的世界観なのではないかと思う。もちろんそれだってほんの一部の偏ったものだという見方もできるだろうけど、感覚としては生の生。メディアの意識的なものがあんまり感じられないダイナミックさが面白いのであった。(たぶん、つづく)
コメント
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