今週は会議とか研修とかが続いた。来週も同じようにつづく。
これは明らかな病理だと思うが、中には仕方の無いことも無いわけではない。そういうことで、なかなか改善も難しい。わずらわしいことには手をつけないほうがいい場合もある。悲しいが僕にはどうにもならない問題なのである。もっとわずらわしい立場になると改善が可能になるのだが、そういうものを買って出るほどお人よしではないし、僕の求められる立場ではない。仕事というのは人の必要であって自分のしたいことではない。そういうわけで、こういう状態が年度末なのである。
名刺には書かないが肩書きだけが多すぎる。担ぐには重たくなってきた。少なくともかなりわずらわしい。少しばかり抵抗するとしたら、役割はちゃんと果たさないことである。時々は小さなミスをする。大きなミスだと誰かに迷惑をかけかねない。自分の評価だけ下がるように、小さいミスを犯すことである。もちろんこれは勇気のいる行為である。誰だって悪く思われたくは無いものだ。しかしながらあんまり意味があるとは思えないことをしなくてはならないのだから仕方が無いのである。どうせやるならしっかりやったほうが結果的にはいいことが無いわけではない。しかし、そう思ってやりすぎると、意味の無いことは簡単に膨張してしまう。かえって人に迷惑を掛けかねない。それに正直に言うと、たいした能力は無いので大成功というのはそれなりに難しい。だからといってそこそこ頑張ると、評価は積み重なってしまう。だから狙いどころは考えなければならないのである。誰がやっても同じだが、少しばかりまどろっこしいぐらいのミスを積み重ねることである。まあ、そのためにはそれなりの経験も必要で、意外と難しい技術もいるのであるが、そういう馬鹿なことをしなければ、誰も分かってくれないのである。
そうは言っても役割はそつなくこなしてしまった。いや、結果的にうまくいってしまった。世の中は皮肉なものだとつくづく思う。また五月ごろになったら、こういう会議が重なりだす。その前には今年ならではの行事もあるようだし、結局気合の入れなおしだな。
つい愚痴を書いてしまってごめんなさい。できるだけ明るい話にしようと思うのだが、吐き出すものを吐き出しておくのである。
帰りの車の中で日本人論になる。いろいろ話をしていたが、ことごとく意見が食い違うようだ。つまるところ僕の見方というのはかなり独自であるという。しかし、外れているというわけではないらしい。僕の説明を聞くたびに、驚かれながらも「ああ、そうか」と納得はしてもらえるようだ。
結局中国に行ったことが良かったのではないかといわれる。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。日本人には日本のことがよく分からない。たぶん、そういうことではないだろうか。
僕は生粋の日本人だけれど、そういうものを抱えて生きていくより無いと思っているし、それでいいとは思う。しかし多くの日本の人はそう思っていないように僕には見える。世界の中の日本の立場を、まどろっこしいものと捉えているように思える。それはそうだが、だからといってそれは本当に問題なのだろうか。ほとんどは勝手に勘違いして心配しているだけではないのか。
そういえば、日本の文化を広く世界に理解してもらおうという運動があるという報道を聞くことがある。ばかげたことだと思う。日本の文化というのは狭いから独自でいられるのである。広げて理解できるほど薄めて意義があるものか。
日本のアニメや漫画は、憧れられるほど自然に広がるのである。そうして日本語も熱心に勉強されるようになっているのだ。世界の流れはグローバル・スタンダート化などしていない。勘違いしているのは日本の一部の人たちだけであろう。
世界に目を向けるほどそういうことは自然と目に入るようになる。結局真剣に世の中を見ていないから見えないだけである。別に外の視点から日本を眺めているだけではない。自分の都合で情報を選んでいるから、都合の悪いところはよく見えなくなっているのだろうと思う。それは何も日本人だけの特徴なのではないが、選択した情報だけで判断するのは危険である。日本の報道は確かにひどいけれど、普通に見ていると嘘も分かるようになる(時々ちゃんと騙されるけどね)。おかしなことはおかしく報道している。結局大切なことは、自分の考えであると思う。
そもそも日本人論なんていうことに自分を当てはめることなど無いと思う。昔から日本人は多様であったし、これからもそれは変わりなかろう。唯一確かにはっきりいえるのは、勤勉なのは大きな武器である。既に有利な立場なのだから、さらに勤勉であることがこれからの立場を担保する道であろう。世の中は想像以上に常識的である。時々奇跡は起こるにしても、それは自分がおこしていることではあるまい。だとしたら自分は何をするか。答えはそこにしかないのだと残念ながら思うだけである。