服装なんてどうだっていい問題だとは思うものの、会議だとか仮に営業などで客に会いに行くとなれば、ちゃんとスーツを着ていくことになる。自分ではどうだっていい信念だが、相手がそうではないかもしれないから、妥協策としてそうしていると漠然と思っていた。しかしながら、やはりこれはどうでもよいという信念にまで到達していない自分がいるからこそ妥協している、ということにも気づかされる。本当にどうでもいいのであれば、そんなことを気にしても仕方がない。仕事は失うかもしれないが、どうでもよいのであれば、そのために失ってもいいはずである。つまりはどうでもよいという気分は自分の中にあったとしても、実際にはどうでもよい問題でもないことも、自分は同時に知っているわけだ。
人は見かけだけで判断されるべきではないことは、誰だって知っている常識である。見た目だけでその人がどんな人間かなんてわかり得ないのだし、それだけで判断されるというのは、偏見を助長することでもある。だから欧米では履歴書には写真が貼られることはない。見た目で判断されることを、一時的な審査になりかねない履歴書の情報として削除されているわけだ。実際にそうされることで、面接を受ける前に人種であるとか、そのような見た目の判断で除外されることを防いでいるとされる。それは面接をする側にそのような判断をしませんよ、というサインでもある。それをまた好ましいと考える人間を集めることで、その会社には最終的に得るものがあるということでもあろうし、社会規範として既にそのような考えが浸透しているのであろう。また、欧米には実際に様々な人種の人が暮らしている背景があるので、見た目を気にしている社会は、そもそもが規範として成り立たなくなっている、ということが言えるようだ。
そうすると日本なのだが、履歴書に写真を張るのは、いまだに常識である。考えられるのは、日本人はいまだに見た目の判断を大切にしているともいえるし、あまり多様な人種を受け入れていない多様性に乏しい社会であることも関係がありそうだ。履歴書の写真を上手く撮ることで有名な写真館もあるというし、そもそも写真は加工も可能である。インスタに限らず若い人はふつうに加工しているわけで、そのような世代間において写真自体は本当にその人の見た目を担保するものでは無くなっているのではないか。それでも履歴書には旧態依然として写真を張る欄が残っていて、それに無頓着な人が、少なくとも日本の多くの会社のような社会においては、普通であるということかもしれない。文房具屋(もしくは今は100円ショップか)などには、写真欄の無い履歴書が売ってあるのだろうか。ネットでプリントも考えられるが、いくらそういうものがあったとしても、やはり履歴書を書く側として、それらは選択されないのかもしれない。
しかしながら最終的には面接をするのだから関係ないのではないか、と思う人もいるかもしれない。もちろんそうだが、学歴も含め書類で一次審査のあるような会社ほど、書面段階での情報として、写真はある種の判断になりかねない。そういうチャンスの芽として写真の存在があるのであれば、やはりそれは見た目の判断を重視しているのである。日本人の隠れた差別意識というものが現れているのは、そのような名残をとどめていることなのかもしれないのである。