カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

努力は変えられる可能性のあるものにある

2023-07-21 | culture

 日本人の働き方改革の必要性というのは、僕の若いころから言われ続けていることである。それくらい根深い問題があるようだし、それくらい絶望的な問題でもあるのかもしれない。今でいう国際比較の生産性の低さというのがあるけれど、それなりに自分たちは優秀なのでは無いかと思いながら働いているだろう日本人にとって、どうしてもなんだか納得のいっていないものがあるのではないか。しかしこれは日本の労働時間から生まれている生産性の低さはゆるぎない事実であって、生産性が上がらないまま日本で働き続けても、なかなか豊かになれないということでもありそうだ。しかしそれでも何かわかり得ないカラクリがあるのではないかと考えている人が多そうなのは、日本人は勤勉で働いているはずだという錯覚があるのではないか。
 しかし、日本人の多くもうすうす気づき始めている人もいると思うが、日本人の多くは、生産性を実際に上げる努力はあまりしてないことがあると思う。自分のやるべき仕事があまり明確ではないし、実際に何を求められているかの範囲が広すぎて、今日は何をやるべきで、どこまでやればいいのかさえよく分かっていない人が多いのではないか。そうしてそういう働き方をしていることが、仕事としてそれなりに重要だとも思っているのではないか。実際にはほとんど何も生み出していない事務仕事をする人が多くなって、しかもそういう人の人数は増えていく。仕事のための仕事が多くなって、実際に金銭的な利益を得る仕事をしている人が、下働きのような状態になっている。入ってくるお金の分配先がお金を産まないのであれば、生産性が上がる訳がない。事務仕事の必要性は無い訳では無いが、生産性を本当に支えているのは生産現場にあるはずである。もちろんそれを外注にして書類上利益が上がるように跳ねていってもいいのかもしれないが、そうやって例えば売れ続けるような商品がこの先も生み出せていくのかという問題になると、なかなかに難しさがわかるのではないか。もっともモノだけを売るのが商売では無いのだけれど、そういう総体としての生産性のまずさが、日本の社会にははびこっているのではないか。
 例えば就業時間内に勝手に帰るのはまずいかもしれないが、時間が来て帰らないのも、実のところそれと同じくらいマズイ事ではないのか。しかし帰りにくい実情があって、たったそれだけのために帰らない人がいるとしたら、それは仕事以前の問題である。そうはいっても現実に帰りにくいということはあって、それは個人には改善できる問題ではない。それではいったい誰が、そのことを改善してくれるのだろうか。
 つまりはそういう事で、改善すべきことが目の前にあったとしても、個人が努力してそれを変えようとしていないのである。そうであるならば、おそらくほかの問題であっても、改善の余地がありながら、改善が簡単にはなされていないのではないか。
 自分たちの問題を自分たちで変えられない社会で、何かを本当に良くして行けることが可能だと言えるのだろうか。それは、そもそもが不可能な挑戦なのではないか。いや、挑戦さえしていないだけのことなのだが……。
 たぶんみんなは分かっているのである。諦めているのである。何をどうすればいいという問題以前のことが、日本人を苦しめている。自分を苦しめていることに、もう少し前向きになれないのだろうか。
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