本多孝好 著 新潮文庫 Side A・Side B 2分冊
書店で時間が許す限り本を漁るのは意外に面白い。
まったく存在すら知らなかった本との出合いがそこにはある。
しかも同じ本を前回は全く興味が湧かず手にすら取らなかったのに
今回は読みたくなって購入することもあるということが不思議。
たまさかそれが衝撃的な出合いとなることもある。
今週、ちょいと仙台へ日帰り出張をした時のこと。
たまたま仙台駅で20分ほど時間が空いたので
帰りの新幹線ででも読めそうな本を物色に駅構内の書店に入った。
この本はまるで私を待っていたかのように目の前に平積みになっていた。
実は前回の仙台出張時、同じ本屋で同じ本を目に止めている。
しかしその時は表紙を一瞥しただけで通り過ぎてしまっていた。
2分冊ながら「上・下」でも「1・2」でもなく「Side A・Side B」であり
そんな風に洒落た辺りがちょっと鼻についた感じがしたからだ。
しかし今回は手に取りパラパラめくってみた挙げ句、ふと買ってみたのだった。
書店で選んだ本には「買って失敗」ということが私にはあまりない。
たまに「なんじゃ、こりゃ」ということもないわけではないが
大概はかなり吟味して買うから。
読み終えた後、その本は以下の3つのどこかにカテゴライズされる。
1 まぁ毒にも薬にもならず、時間潰しにはなったもの
2 かなりのインパクトを感じつつも時間とともに忘れるもの
3 いつまでも心に残り、時には詳細なディテールすら覚えていたり
時にはあとでまた読み返してみるもの。
この本は1程度の感覚で買っのだが、実は3になりそうだ。
というより、かなりの衝撃的な出合い。
大学入学直後に軽薄な「生殖目的の」サークルに嫌気をさし、
同時に同じ気持ちを抱いて飛び出した女の子との2人の世界が
大して期待してもいなかった不毛な大学生活の中心となり、
そしてある日、突然その関係が断ち切られる。
そのショックで部屋に隠っていたところを友人に発見・連れ出され、
後はお決まりの遊び呆け、
相手を取っ替え引っ替え、女性関係に周囲から眉を顰められる日々。
その過去を踏まえて物語は始まる。
どこかで聞いた話じゃないか。
あの頃の私と物語が始まるまでのこの主人公「僕」との違いは
「僕」と彼女の関係が突然断ち切られたのは彼女の死であることと
その後「僕」が相手の女性達とフィジカルな関係を持てなかったことぐらい。
この物語は心に鎧を纏ったそんな「僕」の喪失と再生を描いている。
(もしかしたらもうひとりの主人公の女性の喪失と再生も)
「僕」が大学時代に彼女を失った場面を読み、
ふと柴田翔の「されどわれらが日々」の1場面を思い出した。
やはり主人公「私」が、恋人の突然の自殺を知らされた場面だ。
(以下、その部分を抜粋)
そこで私は待っていた。
優子の死が私の中へ激しい衝撃として拡がることを。
(中略)
だが、それはなかなかやってこなかった。
真夏の中を日々は空しく過ぎていった。
(中略)
陸沿いに砂浜に戻った時、
海と白浜は白昼の光の下に色を失って白々と果てしなく拡がり
私は自分の中に決して悔恨が訪れないだろうこと、
私の中で自己嫌悪が、罪の意識が、そしてそれとの闘いが・・・(略)
物語上のニュアンスは少し異なるものの、
彼女の死により鎧を纏った「僕」も「白々と拡がる海岸」を感じていた。
そしてそれが「僕」をフィジカルな女性との実感を拒否させたのだ。
私もあの頃「白々と拡がる海岸」を感じていた。
私の場合は誰彼をそこに引っ張り込み、甘え、身を委ねただけの
ただの意気地なしだったのだけれど。
「私」は婚約者に去られながらも自分の足元を踏み締める。
(というより、婚約者「節子」が再生していく)
「僕」はいろいろあって鎧を脱ぐことができ、
しかし今度はその生身の体にキズを負うこととなるが、
キズを負いつつ・・・いつの間にか彼は逞しくなっていく。
私はあの「白々とした海岸」からこれまで、どうやって生きてきたのだ?
それにしても、「されどわれらが日々」もそうだし
今までに何度も読み返したもう1冊「ノルウエイの森」(村上春樹)もだが、
なぜ私は「喪失と再生」の物語に惹かれるのだろうか。
[追記]
この作品を検索してみたら、直木賞候補だったんだねぇ。
どうりですっかり引き込まれた私は
記憶の押し入れの奥底にしまい込んでしまった
あまり日にも当たらないから色褪せてもいない思い出を
ぐいぐい引っぱり出しながら読んじゃったよ。
あえて名付けるなら「現代の『されどわれらが日々』」、
あるいは「自分で立てるようになる『ノルウエイの森』」かな。
この作家、初めて読んだけど、今後注目してみようか。
書店で時間が許す限り本を漁るのは意外に面白い。
まったく存在すら知らなかった本との出合いがそこにはある。
しかも同じ本を前回は全く興味が湧かず手にすら取らなかったのに
今回は読みたくなって購入することもあるということが不思議。
たまさかそれが衝撃的な出合いとなることもある。
今週、ちょいと仙台へ日帰り出張をした時のこと。
たまたま仙台駅で20分ほど時間が空いたので
帰りの新幹線ででも読めそうな本を物色に駅構内の書店に入った。
この本はまるで私を待っていたかのように目の前に平積みになっていた。
実は前回の仙台出張時、同じ本屋で同じ本を目に止めている。
しかしその時は表紙を一瞥しただけで通り過ぎてしまっていた。
2分冊ながら「上・下」でも「1・2」でもなく「Side A・Side B」であり
そんな風に洒落た辺りがちょっと鼻についた感じがしたからだ。
しかし今回は手に取りパラパラめくってみた挙げ句、ふと買ってみたのだった。
書店で選んだ本には「買って失敗」ということが私にはあまりない。
たまに「なんじゃ、こりゃ」ということもないわけではないが
大概はかなり吟味して買うから。
読み終えた後、その本は以下の3つのどこかにカテゴライズされる。
1 まぁ毒にも薬にもならず、時間潰しにはなったもの
2 かなりのインパクトを感じつつも時間とともに忘れるもの
3 いつまでも心に残り、時には詳細なディテールすら覚えていたり
時にはあとでまた読み返してみるもの。
この本は1程度の感覚で買っのだが、実は3になりそうだ。
というより、かなりの衝撃的な出合い。
大学入学直後に軽薄な「生殖目的の」サークルに嫌気をさし、
同時に同じ気持ちを抱いて飛び出した女の子との2人の世界が
大して期待してもいなかった不毛な大学生活の中心となり、
そしてある日、突然その関係が断ち切られる。
そのショックで部屋に隠っていたところを友人に発見・連れ出され、
後はお決まりの遊び呆け、
相手を取っ替え引っ替え、女性関係に周囲から眉を顰められる日々。
その過去を踏まえて物語は始まる。
どこかで聞いた話じゃないか。
あの頃の私と物語が始まるまでのこの主人公「僕」との違いは
「僕」と彼女の関係が突然断ち切られたのは彼女の死であることと
その後「僕」が相手の女性達とフィジカルな関係を持てなかったことぐらい。
この物語は心に鎧を纏ったそんな「僕」の喪失と再生を描いている。
(もしかしたらもうひとりの主人公の女性の喪失と再生も)
「僕」が大学時代に彼女を失った場面を読み、
ふと柴田翔の「されどわれらが日々」の1場面を思い出した。
やはり主人公「私」が、恋人の突然の自殺を知らされた場面だ。
(以下、その部分を抜粋)
そこで私は待っていた。
優子の死が私の中へ激しい衝撃として拡がることを。
(中略)
だが、それはなかなかやってこなかった。
真夏の中を日々は空しく過ぎていった。
(中略)
陸沿いに砂浜に戻った時、
海と白浜は白昼の光の下に色を失って白々と果てしなく拡がり
私は自分の中に決して悔恨が訪れないだろうこと、
私の中で自己嫌悪が、罪の意識が、そしてそれとの闘いが・・・(略)
物語上のニュアンスは少し異なるものの、
彼女の死により鎧を纏った「僕」も「白々と拡がる海岸」を感じていた。
そしてそれが「僕」をフィジカルな女性との実感を拒否させたのだ。
私もあの頃「白々と拡がる海岸」を感じていた。
私の場合は誰彼をそこに引っ張り込み、甘え、身を委ねただけの
ただの意気地なしだったのだけれど。
「私」は婚約者に去られながらも自分の足元を踏み締める。
(というより、婚約者「節子」が再生していく)
「僕」はいろいろあって鎧を脱ぐことができ、
しかし今度はその生身の体にキズを負うこととなるが、
キズを負いつつ・・・いつの間にか彼は逞しくなっていく。
私はあの「白々とした海岸」からこれまで、どうやって生きてきたのだ?
それにしても、「されどわれらが日々」もそうだし
今までに何度も読み返したもう1冊「ノルウエイの森」(村上春樹)もだが、
なぜ私は「喪失と再生」の物語に惹かれるのだろうか。
[追記]
この作品を検索してみたら、直木賞候補だったんだねぇ。
どうりですっかり引き込まれた私は
記憶の押し入れの奥底にしまい込んでしまった
あまり日にも当たらないから色褪せてもいない思い出を
ぐいぐい引っぱり出しながら読んじゃったよ。
あえて名付けるなら「現代の『されどわれらが日々』」、
あるいは「自分で立てるようになる『ノルウエイの森』」かな。
この作家、初めて読んだけど、今後注目してみようか。