今日は色んなところからの検索がかけられそうな単語が
いくつか出てくる話題になるので、
ちょっと緊張しながらの記事のUPになる。
花巻市西部にある私が住む地域のことを
これまで私はあえて「地区(地域・コミュニティー)」と書いてきた。
が、ここに住む人達は自分達が住む地域を通常「」と言う。
ごく普通に、さも当たり前のことのように。
それは「集落」と同義語として扱われているだけであり、
別にこの地域が何かしら特別な地域なのではない。
いやそれどころか、花巻市郊外に拡がる田園地帯に住む人達はみな
同じような感覚で自分の地域を「おらほの」と言う。
正直言って
「」という言葉が地方によっては特別な意味を持つことを
恥ずかしいことに私はほんの10年ほど前まで知らなかった。
少なくとも私が知る限りにおいて
花巻市内、いや岩手県全体を見回しても、
そういう特殊な意味の「」ということばを使うところはない。
被差別や差別される人達がいないのだ。
だからいまだに何で差別されているのか理解することは大変難しい。
まぁ蝦夷の時代や戌辰戦争の頃の南部版の時代から
岩手の人全員が差別されてきた歴史を持っているとも言えるので
ここ全体が被差別なのかも知れないが。
ところで岩手を代表する食べ物のひとつに盛岡冷麺がある。
これは終戦直後に盛岡に住んでいた在日朝鮮の方々が
生活のために飲食店を経営し、そこで名物となったことが始まり。
盛岡の人達、その後岩手県全体の人達が冷麺を好み、
みんなでそういう店に食べに行ったことが今につながっている。
そこには在日の方々への差別の意識は一切ない(と思う)。
今思い返してみると、私が小学校、中学校時代も
学年には何人か、すぐわかる在日の同級生達がいた。
だからといって(これまた少なくとも私が知る限りにおいては)、
彼らをスポイルするような言動も事件もまったくなかったと思う。
そういう意味では無神経だったとも言えるのかも知れないが、
でも私は友人たちの中にそういう同級生達がいても
今思い返さなければ気がつかないほどに
別に気にもしなければ、気を使うことも全くなかった。
今もそうだけど。
「国境のハーモニカ」池永陽 角川文庫 539円 を読んだ。
実はこれは以前単行本で読んだ
「アンクルトムズ・ケビンの幽霊」(角川書店 1,365円)
を改題した文庫版だったことにすぐに気づいてがっかりしたのだが、
それでも以前と同じように最後まで夢中で読んだ。
在日女性に対する痛い思い出を持つ冴えない中年男の話。
私は差別する側も、される側も経験したことがないので
そういうものなのか・・・と前回は読み流しただけだったけれど、
今回は「もしかしたら気づかないうちに差別してたのかもしれない」と
ふと背筋が寒くなるような感覚を抱いた。
それって、もしかしたら一番残酷な仕打ちだよね。
これまでの人生で一度もなかったらいいと願うしかないのだが。
昔読んだ遠藤周作の「白い人」の中に
「フランス人は人種差別はしない。『区別』する。
差別はまだ相手を人間として認めているが・・・」
という一節があったように思う。
遠藤周作が留学した当時のフランスがどんなだったのか
本当のところはわからないけれども、
同じ人間を差別するというのは自分のコンプレックスの裏返し。
する方もされる方も、とても哀しいと私は思うのだ。
いくつか出てくる話題になるので、
ちょっと緊張しながらの記事のUPになる。
花巻市西部にある私が住む地域のことを
これまで私はあえて「地区(地域・コミュニティー)」と書いてきた。
が、ここに住む人達は自分達が住む地域を通常「」と言う。
ごく普通に、さも当たり前のことのように。
それは「集落」と同義語として扱われているだけであり、
別にこの地域が何かしら特別な地域なのではない。
いやそれどころか、花巻市郊外に拡がる田園地帯に住む人達はみな
同じような感覚で自分の地域を「おらほの」と言う。
正直言って
「」という言葉が地方によっては特別な意味を持つことを
恥ずかしいことに私はほんの10年ほど前まで知らなかった。
少なくとも私が知る限りにおいて
花巻市内、いや岩手県全体を見回しても、
そういう特殊な意味の「」ということばを使うところはない。
被差別や差別される人達がいないのだ。
だからいまだに何で差別されているのか理解することは大変難しい。
まぁ蝦夷の時代や戌辰戦争の頃の南部版の時代から
岩手の人全員が差別されてきた歴史を持っているとも言えるので
ここ全体が被差別なのかも知れないが。
ところで岩手を代表する食べ物のひとつに盛岡冷麺がある。
これは終戦直後に盛岡に住んでいた在日朝鮮の方々が
生活のために飲食店を経営し、そこで名物となったことが始まり。
盛岡の人達、その後岩手県全体の人達が冷麺を好み、
みんなでそういう店に食べに行ったことが今につながっている。
そこには在日の方々への差別の意識は一切ない(と思う)。
今思い返してみると、私が小学校、中学校時代も
学年には何人か、すぐわかる在日の同級生達がいた。
だからといって(これまた少なくとも私が知る限りにおいては)、
彼らをスポイルするような言動も事件もまったくなかったと思う。
そういう意味では無神経だったとも言えるのかも知れないが、
でも私は友人たちの中にそういう同級生達がいても
今思い返さなければ気がつかないほどに
別に気にもしなければ、気を使うことも全くなかった。
今もそうだけど。
「国境のハーモニカ」池永陽 角川文庫 539円 を読んだ。
実はこれは以前単行本で読んだ
「アンクルトムズ・ケビンの幽霊」(角川書店 1,365円)
を改題した文庫版だったことにすぐに気づいてがっかりしたのだが、
それでも以前と同じように最後まで夢中で読んだ。
在日女性に対する痛い思い出を持つ冴えない中年男の話。
私は差別する側も、される側も経験したことがないので
そういうものなのか・・・と前回は読み流しただけだったけれど、
今回は「もしかしたら気づかないうちに差別してたのかもしれない」と
ふと背筋が寒くなるような感覚を抱いた。
それって、もしかしたら一番残酷な仕打ちだよね。
これまでの人生で一度もなかったらいいと願うしかないのだが。
昔読んだ遠藤周作の「白い人」の中に
「フランス人は人種差別はしない。『区別』する。
差別はまだ相手を人間として認めているが・・・」
という一節があったように思う。
遠藤周作が留学した当時のフランスがどんなだったのか
本当のところはわからないけれども、
同じ人間を差別するというのは自分のコンプレックスの裏返し。
する方もされる方も、とても哀しいと私は思うのだ。