吉澤兄一のブログ

お江戸のど真ん中、平河町から、市井のトピックスを日記風につづりたいと思います。

半世紀(1965~2015)の自分史と世情変化の抄誌①

2020年05月07日 | Weblog
「1」1965年~1975年:
私が大学を卒業し初めて就職した昭和40(1965)年、ラーメン一杯60円(東京都新
宿区)だった。戦後の復興期が終盤になり高度成長期の入り口(いざなぎ景気)あたり
だったが、為替はまだ固定相場で1米ドル360円だった。1米ドル360円の昭和46
(1971)、私は推薦を得て「国際経営戦略シンポジューム団」なる厳めしい名前の米国
視察、米国マーケティング学習40日のバス・ツアーに参加した。

入社5年後(1970年)、5年前60円だったラーメン一杯は95円前後になり、さらに
5年経った昭和50(1975)年には、210円になっていた(10年で3.5倍)。

この間、ベトナム戦争などに苦戦していたアメリカの国際収支は大幅な赤字で、いわ
ゆるドル・ショックを招来した。貿易黒字が突出していた日本の1米ドル360円の固定
相場が非難され、その圧力から1米ドル308円(1971年)なる暫定変動相場になった。

多摩ニュータウンの建設や山陽新幹線の開通などと田中角栄首相の「列島改造論」や
日中国交正常化などにみられるごとく高度成長を果実にした日本は 結局、円の変動相
場制を受け入れ(1973/昭和48年)、為替レイトは1米ドル264円になった。その後、オ
イル・ショックや1974年の狂乱物価期を迎えた。この年(1974年)、私は9年余りお世
話になったマーケティングリサーチ会社を退社した。

「2」1975年~1985年:
マクドナルド日本の一号店出店や日清のカップヌードル発売および読売巨人軍長嶋選手引退や田中角栄首相(ロッキード事件)の引退(1976年)などに、時代の変化を感じた1978年から81年の間、私はアメリカ・シカゴに本社を置く外資系化粧品の会社で働いた。

1982(昭和57)年、わたくしは小さなベンチャー会社を設立。リサーチやマーケティングのコンサルや代理店としての活動を始めた。「New ton」(教育社)の創刊や「おいしい生活」(西武百貨店/糸井重里)や東北新幹線と上越新幹線の開通や青函トンネルの貫通と東京デズニーランドの開園(1983/昭和58年)などを横目に、つくば科学博関係のシゴトからNTTやJTなどの民営化関連の業務などで過ぎた(1985/昭和60年)。

この頃の街のラーメンは、一杯380円。為替レイトは1米ドル238円(1985年)だったのだが、当時 翌年の168円や翌々年の144円を、誰が想像したしただろうか。
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