吉澤兄一のブログ

お江戸のど真ん中、平河町から、市井のトピックスを日記風につづりたいと思います。

不正、粉飾、汚職、スキャンダルの連鎖を回顧させる2006年、どうしましょうか!

2006年12月28日 | Weblog
 マンションの耐震偽装の問題を、姉歯氏一人の公文書偽造で決着させれば”世直し”は出来ない。建設会社も最低だが、それ以上に”このような(偽装)申請が認可される”役所や役所がつくった検査機関の”いい加減さ”とその法律や責任官庁が、最も責められる。

 堀江(ライブドア)や村上というベンチャー・ファンドの”法の網くぐり探求”が生んだ虚構の巨額利得と、マネーの番人・日銀の福井総裁や三井住友銀行の業務停止処分など、ノンバンク・アイフルなども含め金融機関のスキャンダルで幕開けした2006年、終わりもまた、日興コーディアルの大粉飾決算による社会背信になってしまった。

 このような不正会計や粉飾(決算)は、意図的だから始末が悪い。カネボウ、ペイントハウス、TTC,やNECにつづく日興コーディアルだが、これらの企業と併せて責められるべきは、中央青山監査法人のような大手監査法人だ。このような偽装、不正、隠蔽が、企業や社会を頭越したわけでもあるまいに、地方自治体の債務超過の”目くらまし”ばやりだ。破綻した夕張市だけを責めても解決しない。
 それにしても、地方自治体の”談合汚職”はすごい。県知事という地方トップのスキャンダルも業者企業と選挙や行政の癒着がオリジンだ。岐阜県、福島県、和歌山県、奈良県そして宮崎県や福井県などにつづいて、「お前もか」と、東京都の石原知事のキナクサさ。自治体の入札談合を「ある程度は、仕方ない」としている人々は、手抜きや品質不安を心配した市民向きの顔をして、”癒着”を構造化するようだ。悪弊づくりだ。

 たび重なるNHK職員の不正やマスコミ(TV、新聞)社員の不祥事が隠れてしまうように、”幼い命”や”いじめ自殺”問題。親と子の関係が変わってきているのか、教師と生徒のそれも変わっているのか解らないが、よき時代の”よい関係”の崩壊に心を痛める。

 安倍内閣の側近的”目玉”だった本間(前)政府税調会長の”せこい”不正や佐田(前)行革担当相の知らないふりした”稚拙な”不正など、社会や世の中のリーダー(?)たちの”チルドレン性”にあきれる。社会的各部門の”債務超過”問題を構造的に改革しよう(?)としてスタートした2006年、終わってみればやはり、”不正超過”問題のモラル的改革が先だと自覚してか、教育基本法改正の法案が可決されて師走は、28日の今日で、わたしの仕事おさめです。
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なぜ「上司は思いつきで、ものを言う」か。

2006年12月24日 | Weblog
 猿の世界、高崎や上野の”さる山”でも、グループや序列がある。川や海のサカナたちや森の動物たちにも、シマがあり、縄張りがある。親と子だけが序列や関係ではない。人類にも、人種や民族や国家がある。会社や職場あるいは自分が生まれ育った”故郷”(町や村)や卒業した学校(同窓)など帰属集団と言われるものがある。
 それぞれの帰属集団には、絶対的だったり、相対的だったりするイメージや偏見がある。生まれながらの平等などないのだから、努力し、汗し、帰属集団での上位やリーダーシップを得たいと思う。出世欲がだれにも内在している。
 どこのどのような集団であっても、会社や職場であってもなお更、序列や上下関係がある。管理する者と管理される者があるのが、管理社会の構図だ。上司と部下の関係が存在するのが、企業や組織やグループという普通の社会だと言ってもよいのが世の中だ。

 橋本治さんの「上司は思いつきでものを言う」(集英社新書)は、痛快だ。ずばり、100%本当だし、事実だろう。上司が思いつきでものを言うところが、会社や役所などの組織なのだ。管理社会やビューロクラシイ社会の典型だ。法律やマニュアルで共同社会の”約束ごと”を決め、管理する人を登用し、集団を構成する人々を管理する。大方の人々が、仲良く暮らし、組織(企業)内の働く人々の”汗のかき具合”をチェックしたり、各自の業務進捗をチェックしたりすることで、目標達成や完遂を管理するのだ。上司と部下が存在するのが組織だともいえる。

 上司と呼ばれる社長、役員、部長、課長や班長などは、管理者(マネージャー)ではあっても、スペシャリストや専門担当者ではなく、ゼネラリストなのだ。マネジメントという仕事だけで、業務の進捗チェックも出来映えや品質チェックもするわけではない。毎日が”暇”なのだ。することがないのだ。だから、自分が気に入らないことや気になることに目がいくし、”目についたこと”が気になるのだ。そして、”思いつく”のだ。「ああしたほうが、よかったのに」「あれを、やろう」と、突発的に思い、何か”アドバイス”や”指示”をしてみたくなるのだ。
 朝、自宅を出るときの気分や上司の上司の思いつき発言や指示で、自分も”同じ”ように、思いつき人間になるのだ。思いつきの連鎖が、普通であり、日常になる。毎日のいうことが、思いつきの繰り返しになるのが管理者でもある。

 部下として働くものは、つねに上司の発言の”思いつき性”を考えて対処しなければならない。100%上司の発言は、思いつきなのだから、即刻”対処”してはいけない。一呼吸か、中一日置いて、意図と真意を確認し、そして対処することが、肝要だ。「アイツはすぐ行動しない」とか「動きが遅い」などと言われても、「わたしは、そんなことを言っていない」とか「昨日と今日が違うのは、当たり前だろう」などと言われるよりは、”遅い対応”の方が合理的なのだ。
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どうする人口減少社会政策と超高齢社会対策。

2006年12月21日 | Weblog
 2006年12月21日は、昨日の朝日新聞の朝刊「50年後4割が高齢者」(年金、収入の5割困難)なる見出しは、センセーショナルだ。概ね”解っている”こととは言え、国立社会保障・人口問題研究所も、罪な発表(日本の将来推計人口)をする。いままで、散々指摘、批判され、そのたびに(毎年)発表値を”あいまい”に補正したりしてきた政府や役人(厚生労働省官僚)の推計値「合計特殊出生率」の見通しを、かなり現実(実現)値に近づけたからだ。50年後の推計値を、前回(02年)、1.39と発表していたのを1.26と大幅に下方修正(推計)したのだ。もう、20年ぐらい前から”ごまかし”続けていた数値を、”どうしようもない事実との乖離”から逃げ切れなくなり、(現在や将来の)事実に近づけたのだ。
 結果、一昨年(2004年)ピークを記録した日本の総人口1億2780万人が、50年後(2055年)約9000万人に減少すると推計されるという50年後の将来の現実を突きつけられた。現在の7割規模だ。国力というか国の経済的生産力なども、ほぼ7割規模近くになるのだろうか。しかも、高齢者人口の割合も、現在の20.2%の倍の40.5%になるという。労働力人口(15~64歳)3.3人で1人の高齢者(65歳以上)を支えていた時代(2005年)から、1.3人で1人を支える時代になると推計している。しかも、お年寄りの寿命は、男女とも現在(2005年)より約5歳伸び、男性83.7歳、女性90.3歳平均になるという。世界でトップの超高齢社会になる日本を、どう舵取りしていくのだろうか。
 ところが、少々目線を変えると、総人口の20.2%といわれている現在の高齢者(65歳以上)人口は、2580万人、50年後のそれ(40.5%)は 3640万人と、50年間に約1060万人増えるだけなのです。1年に約20万人増える(単純平均)程度のことに、知恵というか何の施策もできないようでは、それこそ何も出来ないことになる。しかも、平均寿命が5歳延びるわけなのだから、高齢者=65歳以上=リタイア=年金(生活)なる図式を変えて、高齢者=70歳以上=60代は働き盛り=70歳リタイア(年金)という図式を考えてもいいのではないか。いまから、国民の理解を得る努力や政策の研究提案をしていくことが肝要だろう。
 40代50代は働き盛りながら”青年”、60代になってはじめて”いい仕事”ができる。50代40代をリードするマイスター・エイジの60代ぐらいに考えたほうが”そうなる”だろう。
 もちろん、根本的には「30代にならなければ、結婚を考えない」「35歳過ぎなければ、子供も考えない」という若い男女のライフスタイルや生き方が、なぜ”このようになったのか”を探求することと、”これでいいのか。変えなければ、明日が出来ないのか”の検証および”それぞれ”を受容したときの国づくりを考えることが大切なのではないだろうか。子供(少子)と超高齢者(高齢化)の問題は、実は「30代、40代」(含、20代)の人たちの生活や暮らし方を考える問題なのです。
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国会の公聴会やタウンミーティングは、止めた方がいい?

2006年12月15日 | Weblog
 官僚や公務員などが、文字通りの「ビューロクラシィ」の推進者だと思っていたら、政治家や一般人の町内会などもそうらしい。形式や手続きという”カタチ”を重んじる国民性だから仕方ないと言っていいのか、どこもかしこも”きまったことやいままでやってきたこと”という慣例を、何の疑問もチェックもなくやる。時代や社会やライフスタイルが変わっているのに、旧来の方式や慣例に従う。ニーズや効果に反映されないことを、今日もつづける。
 公聴会は、国会などの事案審議の過程で、ふつうの人々(選挙民)の意見を聞き、自分たち(政治家や官僚)が、一般の世の中とズレていたら「それを直そう」としてやるのかと思ったら、”やれば、いい”らしい。”どのような意見がだされようとも”、役人や政治家が作った作文(法律)は、修正するところなどないのだ。呼んで、来ていただいて”無視する”ワケだから、失礼も甚だしいのだが、お上が考えたことが、一番庶民や国民のことをよく考えてあるのだから、カタチ上の公聴会をやればいいのだ(教育基本法改正関係)。
 タウンミーティングも同じだ。もっと、性格がわるい。できるだけ、国民、それも地方地方の働いている人々や議会制民主主義といって、なかなか「自分の考え」を言えないような人々の意見を、広く、生で聞くという触れ込み(イメージ)で、いろいろなところでやる。電通(含、朝日広告社やその他代理店)とかいう代理店に”丸投げ”し、総務省や各都道府県にいるたくさんの職員は、本来(?)業務に忙しく、「参加者モニターを募ったり、会場設営したり、案内や整理や安全管理をしたり、マイクを運んだり」というようなことはしないのだ。予算化し、外部の代理店に、歳費を使って”公共事業”にしてやるのが、最もお国のためだと考えている。
 包括的に仕事を請ける代理店だって、下請けやアルバイトを使い、”そそうのないよう”業務をこなし15%ぐらいのマージン(管理費)では、商売にならないのだ。1万円の人件費を2万円にし、2万円の経費単価を3万や4万円にして積算して”もうけ”を入れさせてもらうのはお互い了解の常識だ。エレベーターのボタンを押すだけの人でも、家から会場に来て、終わるまで拘束され、また電車で帰れば実際一日分の日当、1万円ぐらいほしい。もちろん、ボタンだけの人がいるわけではないが、見えない”管理、運営スタッフ”や”代理店の利益”を妥当な線まで勘定してくれてある”丸投げ”など、そうはない。下手すれば、何もしないで出張してくるエライさんの”夕べ”を持たされるのだ。仕方のない一回平均2000万円強のタウンミーティングなのだ。
 タウンミーティングや”世の中”というジャングルで、人々の「本当の願い」や「真実」に触れたり、これを知ったりするために、時には”さくら”や”やらせ”も要る。本来のホンネや真実の”呼び水”もいるからだが、汗したり、泥したりしたことのない人間は、ただ形骸化した儀式をして、これを「さも、大切そうに」繕うとする。タウンミーティングや公聴会と言わずとも、国民や選挙民の意見および願いや希望を、公平に、正しく聞き、これを政治や行政に反映させることは、最も大切なことだと思っています。 
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荒蒔康一郎さんの「こころの玉手箱」(日経「夕刊文化」)を読んで。

2006年12月12日 | Weblog
 中村桂子さんの”生命誌”観(「ゲノムが語る生命」集英社新書、2004年4月)や京都は今西錦司先生の”自然・生物社会”観は、自分のいまの生き方や物の見方および思考方法に大きく影響している。40代の若い頃、西堀栄三郎さんの座学「新製品開発講座」(11期)のメンバーに入れてもらい、赤坂の日本規格協会に通わせていただいた。その西堀先生のお勧めを得て”何も解らず、お話を伺いに”京都に行ったときの印象が強烈すぎた。
 「調査統計や分析など、難しく考えるな。じっと、昆虫や虫の”生きている”姿を見ろ」と言われたような気がする。前述の中村先生も言われているように、「あるがままをみる」ということを、いつも心に留めるようになった私のオリジンです。
 そして最近の一週間、日本経済新聞(夕刊)の荒蒔康一郎キリンビール会長の「こころの玉手箱」(エッセイ)だ。営業畑出身の社長が続いたキリンビールではじめて、化学や技術の世界からでた社長だが、あっという間にアサヒビールに取られたトップシェアを取り返した手腕は見事以上だ。5回にわたる「こころの玉手箱」は、文字通り尊敬する先輩の人柄やこころに触れたようで、うれしかった。
 商品開発や経営における真摯な姿勢と、つねにお客様や世の中および微生物や菌類など小さな生き物にまで”こころ”する態度が、このところのキリンビールの姿になったのではないかと言えば、本人は”そんなことではないよ”と謙遜するかもしれない。自分より3年先輩なのに、何倍もの社会や市場を見るキャリアをもっているように感じられ畏敬の念を強くした。誇りにも思った。
 改めていうまでもないが、小さい頃や成長期の自然体験や生き物との触れ合いの体験は、大人になってからの生き物や自然および世の中やお客様を見る目線や姿勢に好影響する。対象に目線を合わせ、”あるがままをみる”姿勢の大事さを認識させられる。不連続でも、混沌やカオスでも、”あるがまま”を見るところから、何かが見えてくるような気がします。
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小さな役所、小さな政府と言いながら、高層ビル大きな庁舎を造りつづけました。

2006年12月10日 | Weblog
 この四半世紀、”大きな役所”などと言った知事も市長さんもいませんでしたが、47都道府県の県庁庁舎ビルは、例外なく高層ビル化し、立派になりました。職員を削減し、無駄を排除し、業務を効率化し、歳費支出を抑制削減し、住民へのサービスや窓口業務を親切にすると言って、国(地方交付金、補助金)と共謀し、県庁だけでなく、ほとんどの市や区町の庁舎ビルを超高層に、大きなビルに建替えました。
 削減されたりする職員(公務員)は、さぞかし”大変だろうな”と思っていたら、47都道府県は例外なく(国や自治省のお勧めもあってか)県住宅公社や各種公団公社および特殊(行政)法人を造り、そこに職員を移し、その建物や業務やシステムの開発から立ち上げを助成(補助金)しました。これらが、「身分(公務員)保障されているのだから、職員数は削減どころか増えているのではないか」という指摘や批判をガードすべく、”第三セクター”という都合のよい独立(?)法人を造った。
 第三セクターのお仕事は、すべて”お役人発想とお役人仕事”ですから、経営やマーケティングの厳しさなど、あろうはずがありません。観光事業であれば、来場観光客数を、住宅事業であれば、その需要軒数を、道路や基盤事業であれば、その利用数や利用率を、いままでの”経済成長率や人口増加率”に回帰させて楽観展望し、発足から2~3年の立ち上げ助成や補助金が得られれば、以後”自立”し、住民や自治体の収入増にも貢献すると言ってスタートしました。結果は、すべて”赤字”。地方自治体の累積債務は年々増加、ほとんどの自治体は”破産”状態です。
 国もそうだが、自治体の赤字(負債)や破産の責任を、議会制民主主義よろしく、すべて住民に転嫁し、「業務を見直し、効率化し、職員を減らし、自分たちが造った不要な施設は売却し、小さな役所にして、住民の負担を極力増やさないこと」を誓いますと、また、第何期目とか言って、首長に立候補する人々がおおかたなのです。
 全国の、談合や汚職で逮捕されたりしている知事さん方も、ほとんどこのようなことを言って当選した人々なのです。国民の目や地域選挙民の目と選挙への参加の真剣さが、いま以上に求められる時期はないと言えます。
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脱「おたく」に向かうか”ゲーム”市場。

2006年12月09日 | Weblog
 還暦をとっくに過ぎた私に、”ゲーム”のほとんどは縁がない。機器(ハード)やソフトを買って”ゲーム”を楽しむ自分が想像できない。自分の若い頃、”ゲーム”と言えば パチンコだったり、せいぜいインベーダーゲームのようなものだった。
 ことし(2006年)の年末商戦の目玉のひとつは新発売された2つのゲーム機だ。任天堂の「Wii」(ウィー)とソニーの「PS3」(プレイステーション3)で、ともに初回出荷数や発売時期が若干違うが、国内市場への年内出荷数を100万台としているからスゴイ。初回出荷数が10万台しかないPS3は、小売店頭での行列に加え”ガフ屋”もどきが出る始末。直ちに出品されたヤフーオークションでの落札額7万円(平均)というから、理解できない。外では、2倍~3倍の価格で売られたり(海外)している。
 現実に”ゲームを楽しむ”というレベルについて、12月8日の日経MJ新聞が両機種のハード1台あたり「ソフト」購入(装着)から説明している。PS3が0.98本なのに対し、Wiiは、1.69本とゲーム専門誌エンターブレインの調査値を紹介している。Wiiスポーツ(ゲーム)のラケットのように振って楽しむコントローラー(システム、端末)に”新鮮さ”や”楽しさ性”を感じたのかも知れない。室内おたく「ゲーム」が、戸外(アウトドア)化するような、そんな期待や兆候とみることもできそうだ。
 それにしても、一昨日(12/6)朝、NHKでの特集が発表したRMT市場が150億円規模になっているというのには驚いた。通貨がバーチャル・リアリティの世界にまで入り込んだのだ。どのようなゲームかについて、昨日柏崎通信の梶谷さんが「主に、オンラインのロールプレイング・ゲームだよ」と教えてくれたが、ゲームのなかで使われる仮想通貨が現実の世界で売買されているというのだから、これ(仮想通貨)は、文字通り現実通貨ではないか。
 パチンコ(ゲーム)玉の現金化と同じ類ならば”違法”性も見え隠れするが、あるいは一種のコミュニティ限定通貨のようなものなのか、今後当局がどのように捉えるかだが、現実に「RMT」(リアルマネー・トレーディング)がますます増える世の中をみるに、しっかりとした法的見解を出す時期ではないでしょうか。
 このRMTが例えば合法的に社会化することは、パチンコ(ホール)やカジノなどとは、また異なった”ゲーム”のアウトドア化や交流化および新しいコミュニティが出来てくることを示唆する。”楽しむこと””遊ぶこと”が”食べること”についで、大きなライフスタイル市場になる兆しとも見られよう。
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佐藤ゆかり、片山さつき両議員と安倍政権のチルドレン性

2006年12月02日 | Weblog
 マスコミはいつも、目立つ人や話題性を探し、その”鵜の目鷹の目”の成果で世論に迎合したりしているのが常だが、その”鷹の目”に目をつけられた格好の両議員、お気の毒ではあるが、”チルドレン”と言われても仕方ない。
 小泉政権の(郵政)改革訴求選挙の反対派刺客として担がれ、岐阜や静岡の選挙民の支持と期待を受け、当選し、国会議員になった"小泉チルドレン”の代表的なお二人の最近の姿は、チルドレン以上の何ものでもない。
 国会議員になる前の佐藤ゆかりさんや片山さつきさんの経済や政治問題などについての発言や活躍の影すら失くしたお二人の成長ストップというより後退は残念だ。当時の体制与党自民党に、”いいことを言われ””その気になり””担がれ”立候補し、岐阜や静岡の人々の同意や支持を得て当選し、国会議員となったのでしょうに、岐阜や静岡や国民が託した一票一票の思いや期待をどの程度自覚されているのだろうか。選挙民の委託は、いつも”一期”なのだし、たかだか2~3年の代議士をすると、まるで”既得権益”をいただいたとでも思うのが誰もなのだろうか。と言って”復党組”を支持して言っているのではない。どちらのどなたもコップのなかの利権や既得のなにかに大騒ぎしているチルドレンに見えるのだ。
 経済産業委員会(官制談合防止法改正案の審議)の委員会への出席も出来ないほどの何かがあったのかと思えば、"出席できなかった”理由というより”言い訳”を聞いて、情けなくなった。とるに足らないことの言い訳の姿を見るに、前回(選挙)、お二人のようなチルドレンが83人も当選して国会議員になっていたのかと思うと、この国の体制の貧弱さが想起され落胆する。
 チルドレン性が、政権や国会議員のシンドローム(伝染病症候群)になっている様相は、彼女たちだけにみられる姿ではない。小泉改革反対派議員の(自民党)復党をめぐるドタバタや政権与党のアイデンティティのなさは、まるで小学生や最近の小中学校の教員や校長の何かの弁明会見と同じだ。チルドレン性丸出しだ。
 市民や国民の代表として国政に参加している自覚と責任、何にも増して、”やはり、二世だ。チルドレンだ。”と言われないよう国民や国の行方を展望し、人々の幸せや希望を達成するための行動に汗して欲しいと願うばかりです。
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"香り”を楽しむライフスタイル賛歌。

2006年12月01日 | Weblog
 蓬田勝之さんの「薔薇のパルファム」(求龍堂、2005年4月)を読ませていただいてから、薔薇の香りの虜になった。丁寧に、わかりやすく、化学研究者らしく書かれた”薔薇の化学的物語本”は、蓬田さんの誠実な人柄がにじみでたエッセイ本だが、バラの香りのやさしい教科書本にもみえる。薔薇の系譜や人々に愛でられてきた歴史本のようでもある。
 実際に、業や専門として薔薇や香りにかかわっているわけではないが、お香やアロマテラピーなど”香りによる心療やリラクゼーション”などに興味を強くしている。そのわたくしは、いま「アロマランプ」でいろいろな”香り”(エッセンシャルオイル)を楽しんでいる。あまり強くなく、ほのかに香り素材の香りをだす”その加減”が難しく楽しいのだ。
 Googleで「香り」を検索すると4370万件、「アロマ」で2030万件アクセスされる。フレグランス(香水)が679万件であることを考えると、化粧品や香粧品カテゴリー市場における「香水、フレグランス」の商品市場が伸びていない現状とアロマテラピーやリラグゼーションなど"香り”のサービスが受けている様相がわかる。
 香りの博物館や香りの図書館、香りの館や香りの公園、香りの湯や香りの森、香りの学校や香りのレシピ、香りの誘惑や香りの生活など、”香り”がアクセスできる楽しいライフスタイルが膨らむのも楽しいが、薔薇の香り、ハーブの香り、甘い香りや森の香り、夏の香りや季節の香り、木や緑の香りや旅の香り、ふるさとの香りや母の香りなどをイメージして、いろいろなアロマランプでの”香り”を楽しむのは至極の時間だ。
 ただ、バラの香りや薔薇と言って”フランスっぽい”ピンクのバラや”ダマスク的なバラ”を生けて飾るのもそれはそれでいいが、ずっと昔のロサ・ガリカやロサ・ダマスセナなどに思いを寄せたり、蓬田さんが整理されたモダンローズ6種の"香り”の微妙な違いを感じながら、ハイブリッドな薔薇の香りを楽しむのも奥深い。
 ”香りでブランディング”と称し、高級時計のフランクミュラーやトヨタの高級車レクサスなどが、香りでのイメージ向上や顧客の”もてなし”を考えているようだが、心地よい甘い香りが、人々の商品やブランド選びを狂わせたりしないことを祈るばかりです。CIやBIという世界にも"香り”が採り入れられるようになったことは、”香り”に関わるビジネスをやっている者のひとりとしては、大変喜ばしく思っているこの頃です。
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