吉澤兄一のブログ

お江戸のど真ん中、平河町から、市井のトピックスを日記風につづりたいと思います。

ランチは、おにぎりとカップはるさめ(はるさめスープ)!

2006年03月30日 | Weblog
カップはるさめ(はるさめスープ)が、コンビニやスーパーの売場で目立っています。この3月、「カップはるさめ」市場の急激な伸びと消費者受容の背景や理由などについて消費者の食事やランチとその意識面から調査するお手伝いをしました。
「カップはるさめ」、その商品アイテムや味のバリエーションの豊富さにも驚きましたが、職場での若いOLたちの「カップはるさめとおにぎり」ランチや、一人、家庭で昼食をとる中高年主婦たちが朝の残り「ご飯」やコンビニ「おにぎり」とカップはるさめを食べている姿が、なぜか笑顔を添えて浮かんできます。
一時、ライフスタイル化した即席「袋入りラーメン」もそろそろ「簡便食」から解放されたのでしょうか。それとも、「カップめん」などよりもライトな味や低カロリーの食品を好む傾向が強まったからなのでしょうか。
ついこの間は、北海道で牛乳(生乳)が1000リットルも処分されている様子をテレビが伝えていました。ジュースや炭酸飲料が飲まれなくなったり、牛乳や硬い
干物や小魚などの摂取が減少し、カルシュウム不足や栄養バランスの偏りが言われています。やわらかいものや軽いものあるいは味のないものへの嗜好なのでしょうか、ペットボトルのウーロン茶や緑茶および水(ミネラルウォーター)などを好むのは大人ばかりではないようです。最近のお子さんは、味のあるジュースなどより味のないお水やウーロン茶を、食事のお供にしているようです。
これだけ豊富にいろいろな食べ物が世の中に出回って、いろいろな飲食物がたくさんの種類飲食できるようになっているのですから、ひとつひとつの食品に入っている調味料や栄養成分やカロリーが低くても、結局はいままで以上のそれらを摂取している理屈になります。低カロリー化、ライト化や味なし化は、時代的嗜好の流れなのでしょうか。
しかし、このような傾向の中にあって、トクホ系食品や健康(栄養)補助食品やサプリメントなる商品の数は年々増え、これらを摂取する傾向が高まっているのは、どのような食生活(食育というらしい)やライフスタイル化や価値観からなのでしょうか。考えています。
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流通業(?)の明日?

2006年03月28日 | Weblog
 今日の午後は、縁あって日本スーパーマーケット協会主催の勉強会(JSA拡大流通セミナー)に出させていただきました。聴講する立場なのですが、そのタイトルの仰々しさと現実の講話などのギャップには驚かされました。何をやるにも「人を集める」というためには、このようなキャッチフレーズでやらなければならないのかも知れませんが、日常のスーパーマーケットなどの「チラシ」や「セール」などは、「こうあってほしくないな」と思ったりしたものでした。
 今日ちょうど40歳になったばかりというライフコーポレーションの若い社長のお話は、それはそれで大変勉強になりました。日々の地道な努力のみが「信頼」の経営を具体化する道なのだということを教わりました。
 斜めまえの前列に太田美和子さんの後ろ姿がみえました。ずっと前の「食品商業」の記事を読ませていただいたお礼も言わず、ただ忙しくしていたので、セミナーも途中で失礼しました。ちょっとお酒が入ってただいま自宅に帰り、キイボードに向かいましたが、「何を言っているのか??」のブログ日誌で失礼します。
 タイトルの「流通業の明日」についての私なりの考えを記事にするのは、後日の機会ということでお許しください。
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アンビバレンスの高まり

2006年03月26日 | Weblog
 複雑系やカオスなどといわれ、不確実性や不連続性をつよくする社会や世の中の事象の明日を展望すること(予測)が難しくなった。右肩上がりで、連続的な成長曲線上にあった「いままで」は、それまでの傾向を単純に引き伸ばせば、少々の近い将来の予測が出来た。
 極大社会という右肩上がりや人口増加社会の終着駅みたいな時期を過ぎた日本は、社会の様相だけでなく、人々のライフスタイルやその内にある価値基準の変化さえ、読めなくなってきています。100%自由原理市場主義というか自由資本主義の経済社会の日本なのか、規制や計画管理を多用する社会主義か官僚主義的日本なのかさえ、「どちらともいえない」というのが多くの人の印象だと思います。
 もともと、人間には アンビバレント(両面価値的)な要素がつよく、相反(矛盾)する感情を同時に持ち合わせる性質を共有していると思います。「暑い夏も好きだが、寒い雪の冬も好き」「静かに映画を観ることも好きだが、汗とドロにまみれて競争するスポーツをするのも好き」「女性らしいドレスファッションも好きだが、男性らしいジーンズスタイルも好き」というような相反する嗜好や感情をともに受け入れています。極端なのは「辛いお酒も、甘いスイーツも両方好き」とか
「女も好きだが、男も好き」というようなのが、ふつうの人間なのです。
 けさの読売新聞でちらっとみましたが、だから余計、いまの保守本流(宏池会)や保守リベラル(岸系森派)などに、前者に谷垣さんと後者的な麻生さんがいたり、後者にタカ派的安倍さんとハト派か親中派かわからない福田さんがいて、「ねじれ」小泉後継の競い合いが起きているのですから、複雑です。
 この政策基準のわからなさは、一般の人々の価値基準のわからなさと同じで、アンビバレンスなのか、多様化なのかをわからなくしています。男の女性化や女の男性化などもひとつの現象でしょうが、相反する両端の特性を同時に満たす製品づくりやマーケティングまで求められる企業、その舵取り(経営)の難しさが解ろうというものです。
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”ごちゃっぺ”すんなよ!

2006年03月24日 | Weblog
世の中”ごちゃっぺ”のような気がして、少々郷愁をさそうような方言をタイトルにしました。このような言葉、聞いたことありませんか。常陸の国茨城の専用方言かも
知れませんが、「っぺ」ことばの代表格の”ごちゃっぺ”、私の高校3年のときのクラスメイト(当然、茨城出身)で、(株)語学春秋社の社長をしている井村 敦君など、よくこの言葉を使います。
先日もよく行く湯島の「三四郎」で、だいぶビールがすすんで言ってました。「おまえ、ごちゃっぺすんなよ」と。二次会かゴルフ予定かなんかで、アップサイドダウン
して、気に入らなかったのかもしれません。
すでに決まっていたこと、地域や仲間の了解事項を覆したり、せっかく組み立てたモデルやその途中のものをひっくり返したり、きれいに揃えたものをぐちゃぐちゃにしたりするような意味に考えていますが、この言葉、「村の決まりやしきたり」を尊重し、秩序を壊すことをあまり好まない保守的なお国がらだから、よく使われるようになった方言なのでしょうか。やっぱり、「えばらぎ」は古いべさ。
さしずめ、小泉純一郎さんは「自民党をごちゃっぺする」と言って、大勝利し、自民党ならぬ国の姿や国の安心を”ごちゃっぺ”しているようです。「改革」という言葉の響きはよいのですが、「その必要性」や「何を、どこを、どのように」ということが不明瞭だったり、省略された「改革」はして欲しくないと思います。企業にまで、改革や革新という言葉が横行していますが、そのように言えば言うほど「何もしていない」サラリーマン社長やCEOやCOOが目立ちます。
はやく”ごちゃっぺ”しなくてもいいような社会や”ごちゃっぺ”してもお互い許しあえるような友人関係が見られるような、そんなことを希望しています。
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新富裕層は、BoBos族?

2006年03月21日 | Weblog
 最近の経済や社会の特徴や問題のひとつは、「格差社会」のようです。三浦展さんの「下流社会」(光文社新書)が出て以来、人々の所得格差、資産格差や生活格差に加え、価値基準やライフスタイルにかかわる教育、知識および文化格差が目立つようになりました。
 100%義務教育が定着し、文盲率ゼロ%といわれる日本ですが、さらに高等学校や大学などの高等教育を受ける国民がほとんどの現在、知識や文化面で
価値観やライフスタイルの格差が生まれていると聞くと、その背因は何だろうかと
考えてしまいます。
 いわゆる従来とは何か異なる価値基準や自分なりの「こだわり」を持つという「ポピュリッチ」層(日経MJ新聞)をみる反面、ブランドやステイタス・スタイルおよび一般に言われる富裕層的価値基準にこだわらない「富裕な自由人」という
ような「BoBos族」(Broujois Bophemian)が目立ってきています。
 ダブル・スタンダード(二重基準)なのか、アンビバレント(両面価値的)な価値基準が趨勢なのか、両方なのか言いかねますが、多様性とか十人十色とかで片付けず、わたくしたちが、見据え展望しなければならないのは、人々の価値基準のであり、その方向性だと思います。
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春二番ぐらいの風かおる日曜日

2006年03月19日 | Weblog
 結構、速読乱読家の自分が、少し「ゆっくり」一冊の本に目を通しています。「女はなぜ突然怒り出すのか?」(姫野友美著、角川書店)と「乱世を生きる市場原理は嘘かも知れない」(橋本治著、集英社新書)という二冊の文庫(新書)本を読み終えたあとの一冊です。(株)紀文食品に勤める(チーフマーケティングアドバイザー)浅田和実さんの「商品開発マーケティング」(日本能率協会マネジメントセンター、2006年3月1日刊)という本です。テーマごとに「図解」が入った親切で解りやすい力作です。
 ゆっくりお話したことはありませんが、ときどき一緒に調査や議論の実務の場でアドバイスをいただいたりしています。雪印食品や紀文食品で長いことマーケティングや商品開発の実務を経験されている方が「まとめ」上げられただけに、商品開発マーケティングの実践書として、多くのこのような企業マーケィングで働くスタッフの方がたはじめ一般の方々にもお勧めできる著作です。
 ふだんは、誠実で地味にお仕事をすすめる浅田さんが印象ですが、このような著作を出版されたご努力に敬意と御礼を申し上げます。
 久しぶりにこのような「本」での勉強をさせていただいた今日の日曜日(3月19日)の午後ですが、外は少々強い春二番ぐらいの風が、梅から桜への香りの移りを伝えています。ありがとうございました。
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三十三間堂の仏像達

2006年03月18日 | Weblog
 わたくしが、大変尊敬しているデザイン・アーチストの谷内田孝さんが、「三十三間堂への道」という墨彩画仏画の個展を、この4月21日から26日、六本木のアクシス4階ギャラリーで開催します。昨日、その前夜祭パーティへのご招待をいただきました。感激です。もうすぐ、一千三十一体すべての仏像達が描き上げられるだろうという一年ほど前、仕事場横の部屋で見せていただいた感動がまだ残っています。
 13年4765日、毎夜描かれたその気概と信念行動は、わたしなどの想像をはるかに超えたものだと思いますが、「ご苦労さまでした」と言わせていただきたくお願い申し上げます。信念とか感謝という言葉を、身をもって教えてくださった谷内田さんにならい、わたくしも私なりの専らの道を精進しようと思っています。
 この「よしざわのブログ」を読んでくださっている仲間のみなさん、「ぜひ、谷内田さんの三十三間堂の仏像達」展を観賞に、六本木のアクシス4階まで足を運んでください。きっと、「生きること」の栄養が得られると思います。
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400(人)インタビューシートからの宝さがし

2006年03月16日 | Weblog
 情報および意見や人々からのアイディアシートなどからの「コンセプト」(マーケティング戦略概念)探しほど難しい作業はない。いかに確実性や成功性の高い仮説をもって臨んでも、アンケートや質問回答肢法で得た調査結果で、これを検証し、そのコンセプトや戦略化の方向性を導き出す(コンセプトリサーチ)ことは、これまた至難の業と言わざるを得ない。ひとりわたくしが、アンストラクチュアード(非質問回答肢法)のフェイスtoフェイス インタビューやデプスインタビューなどを、おすすめしている理由です。フォーカスドグループインタビューでのコンセプト探しや確認をする場合も、プランナー、リサーチャーおよび司会者が、高く、かつ同水準の知識、認識、問題意識を持ち合わせていなければ成功しない。
 このデプスインタビューや観察などを含むプロービング・インタビューは、ターゲット消費者を30人ぐらい実行すれば「よい」のが普通ですが、何を血迷ってか、今回は10倍の400人もやってしまった。合理的な別の目的の機会にあわせて実施してしまったからです。一人仕事では出来ない相談なので、10人(延べ)
の専門インタビューアの協力を得てやったのですが、インタビューアのスキルや
性格などによる深耕のバラツキがあるのは、やむをえないのですが、商品化コンセプト探検ということの目的と目標が確認されていたのは当然です。とは言え10
人のインタビューアと地域や会場でのバラツキを内包していることは否定できませんが、わたしにとっては、400枚の宝くじや400の宝物収納箱のようなものなのです。誰かと分担して400からの宝探しを行うための基準やマニュアルを作る
ことは、もっと難しいことになります。400(人)シートからの「宝探し」は、
一種のシェフ料理人か鉱脈探しの山師のような仕事です。
 単に、キイ・ワード検索やデータ・マイニングではうまくいかない多くの経験が
「かたい」「やわらかい」などというワード検索分析を越え、どのようにかたい、
かたいのはいいこと、かたいのは好きでない、・・・というようなところまで、
マイニングしても結局 ある程度に文章化し、これを要約、積算していることに変わりないと思います。「かたい」という言葉の周辺に、無数のドロやキズなどが付いていることがわかると、これを洗ったり、切ったり、からめたり、調理することは、まるでプロの料理人か職人かにしか出来ない芸当のように思います。
 六畳の畳の部屋いっぱいに3日間、このインタビューシートを広げ、一人かるた
とりをした先週の金-土-日は、久しぶりに汗しました。400(人)シートからの「宝」は、とりあえず A4-5枚ほどにまとまりました。小さな職人の一人よがりの日誌でした。
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若い企業人によせるメッセージ

2006年03月15日 | Weblog
 2006年3月14日、ことのほか、寒い朝でした。還暦自分祝いということで一人フランスの方へ旅にでるという妻を、早朝6時に送り出した私も、いつもより
早めの電車で事務所に向かった。ちょっとした残務やメールをチェックしてすぐ「
年間MD販促カレンダー、2006年版」をお願いしているオールの和田君と打ち合わせしながらの早目のランチを八重洲の地下街でとった。
 12時50分発の京都方面行、新幹線「のぞみ」に乗り、京都経由で福知山市に向かった。青年会議所の若いエネルギッシュな方々にお会いするためだ。京都から山陰線は「はしだて、5号」での福知山行きは、ちょっとした感激を私にくれた。沿線の古風で伝統的なつぎつぎに集落的にある民家は、日本家屋のすてきさを、私に教えてくれているようだった。ときどき、降る雪の姿というかカタチが、誠に風情のある景色をみせてくれた。雪の降り様が、地域地域でこんなに違うものか
という発見を、関東出のわたしに教えてくれたようだ。
 福知山JCIで、世話役をしている植田さんが駅に迎えにきてくれていた。駅からホテルへ、少ししてまたホテルから会場のホールまで植田さんは、忙しい仕事の
合間を縫ってアッシー君をやってくれた。以前お会いしたことのある大槻副理事長
や森下理事長の挨拶や案内を受け、わたしの稚拙な講演に入った。
 「まち」づくりにマーケティングアプローチをという福知山青年会議所の思いを
大事に受けとめて「マーケティング」について概要や考え方や応用方法を解説しようと思って話はじめたのですが、いつの間にか話している大半が、二宮尊徳の業
績や思想の夜話になってしまいました。少し話を本線に戻すのですが脱線話ばかりが多かったことをお許しください。しかし、日本のマケティングがかなり、尊徳翁
が出発点になっていることや、彼の手法(報徳仕法や推譲の理論など)が、いまでも「まち」づくりや国づくりに応用できることを勉強できたと思います。
 「知る」「学ぶ」ということは、それ自身大切ではありますが、それ以上に大切なことは「考える」ことだということを肝に命じてほしいと思います。知識や情報
が脳内に占める割合が多いと、その分「考える」スペースが減るということが理屈だとすると、「考える」ことに重心を置く人は、できればあんまり博識やもの知りだったりしないことの方がよいぐらいに考えてほしいと思います。
 トコトン考え、その考えとそこに至った思考過程を、会議の場で開示することが
習慣化したころ、自分たちの「まち」の希望する姿がみえてくると思います。福知山が、若いみなさんも勿論、お年寄りも子供たちも、働く女性や男の人たちにとっても、「いい街や地域」になっていくことを祈って、私の日記を終わります。ありがとうございました。
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のれんや伝統の功罪?

2006年03月11日 | Weblog
 二宮尊徳は、わが国のマーケティングの元祖のような人です。小学校の銅像からみた二宮金次郎は、勤倹節約や親孝行の手本で、薪を背に運びながら「本」を
読んでいるほどの勤勉家ですが、とてもそのように山道を歩きながら「本」を読むことなど出来ないということは、やってみれば解ります。もっともっと現代に生きる私たちの暮らしや生活や社会のあり方の基になるような理論や体系のようなものを、後世にのこした大変偉い人なのです。
 人というか人間が逆立ちしても敵わない「天地自然」を崇高なものとして仰ぎ、謙虚にいきることを諭し、「天の理(ことわり)」「人の道」を説きました。エコロジーや環境マーケティングといって、ただ「自然や生物など」に触れることなく、当らぬ神にたたりなしよろしく、受動的に過ごすだけをもって自然(天)に対して謙虚だと言っていては、人間の生存や生命および生活が成り立たないことになりますから、ここに「人の道」を諭したのでした。
 樹木を伐採して住宅をつくり、海や川の魚を獲って食べたりすることも「人の
道」として受け入れていますが、言ってみれば人の道は、人間が生存していく
ためのリビング・ミニマムみたいなもので、天の理(地球や自然のサステナビリテイ)との”すり合わせ”を諭しました。
 報徳仕法(事業やマーケティング手法)の根幹にある推譲の理論は、この
リビング・ミニマムを「分度」として節約節制して暮らすように言い、分度を越えた部分を推譲しなさいと諭しました。この推譲を自分や家族のために蓄える自譲と
他人が困ったときに資する他譲として貯蓄(後者は共済相互保険)し、将来や災害に備える体系をつくりました。
 二宮尊徳の飢饉天災60年周期説は、いまも政治や行政に考慮されているようですが、ヨシザワの企業100年ライフサイクル説は、あまりおすすめできる説では
ありません。100年も歴史を刻むと、企業や会社といわれるところにも、その文化や風土が出来、これが組織やそこに働く人々をお役所よろしくマンネリ化や硬直化やビューロクラシーを生み、結局枯木の倒木みたいに朽ちていくようになります。長い歴史やのれんや伝統のある企業の産業再生機構入りやファンドの傘下に入る姿をみるに、柔軟性や柔らかさの大切さが解ろうというものです。
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