吉澤兄一のブログ

お江戸のど真ん中、平河町から、市井のトピックスを日記風につづりたいと思います。

食事問題の大切さー食育について

2006年07月30日 | Weblog
 Google で「食育」を検索したら実に、約230万件出てきた。平成17年7月「食育基本法」が施行されたこともあり、消費者(家庭)や、小学校や教育委員会および政府や企業においても、企業はというと食肉加工や菓子類などの食品メーカーに限らず、住宅やケミカルならびにスーパーマーケットやコンビニエンス・ストア(コンビニ)などまで、役所はというと厚生労働省や文部科学省以上に、内閣府や農水省および地方自治体まで、各分野各界で「食育」がテーマ化され、取り組まれるようになりました。
 なぜ「食育」なのか。教育や体育に続けてなのか食育。食べ物や食事が、人間生活の基本であり、大切なことは解かっているつもりですが、ここにきて、なぜ「食育」という造語が、これほど大きくクローズアップされたのかが解かりません。どのような趣旨や背景で、どのように定義されて「食育」が法律にまでなったのか、まだ理解できていません。
 栄養大学や女子大の家政学部や文部科学省では、どのように定義し、どのようなコトや内容を食育に入れているのでしょうか。衣、食、住といわれるリビング・ミニマムにおいて、まず「食べること」が最も大切なことだということ、そして何となく「食べること」について子供たちや国民があまり気づかいや感謝などのイメージを持っていないようだということは認識しています。だからと言って、内閣府はじめ各省各界、範囲を重複して取り組む問題なのか、国民の生活や文化や食事生活および食料品や食品を作ったり売ったりする企業との関連において、相互にどのように位置づけされるのだろうか。
 折りしも、6年ぶりに国民の平均寿命がわずかに低下し、ずっと世界一だった日本人の平均寿命が、女性はこれを維持したものの男性は、香港、アイスランド、スイスについで4位に下がってしまった。2005年のインフルエンザの猛威やこのところ増えている中年世代の生活習慣病などによる心疾患死などが、影響したのではないかと言われています。
 モノゆたかな社会に生まれ、育ちつつある子供や小学生などですが、スーパーやコンビニで簡単に買えるスナック菓子や飲み物を含む加工食品の波のなかで、どのように”食べ物や食料品”を捉え、”食事や食生活と健康”のことを考えるように育てるのかが問われているのだと思います。地球環境や自然や農業がどのような関わりにあり、農産物や食肉や水産物などがどのような状況にあり、消費生活者はどのように考えなければならないかが「食育」のテーマなのかもしれません。
 子供や育ちざかりのとき、食べ物がなく粗食だったことが幸いして、その後30代から50代にかなり高カロリー、高脂肪、高たんぱくの食事をとった現在の高齢者は、実はいまの30代から50代の人々よりずっと”健康”なのです。現在、働きざかりの30代から40代の人々は、彼らの子供時代や育ちざかりも”モノゆたかな時代”でしたから、子供の時代から大人までずっと高カロリー、高脂肪、高たんぱくの欧米型食事なのです。彼らは、リタイアから高齢世代になる前に生活習慣病の洗礼をいま、受けています。そして、いまの子供たちが、彼らのお子さんなのです。親子セットで「食事と健康」を食育されなければならないターゲット世代がいまの”働きざかり世代”なのです。
 子供や小学校における食育とお年寄りの健康を考えての食育と働き盛り世代向けの食育は、どのように違うのでしょうか。文化や作法などと農業や自然と食品についての知識や学習とは、どのように関わるのでしょうか。食品メーカーやスーパーなどの企業と政府関係の人々やNPOの方々の「食育」は、どのようにやればいいのでしょうか。やたら、自社のパブリシティや何とかセンターなる特殊法人だけが増えることだけは、御免こうむりたいと思います。
 都会の子供たちの食育を、泥んこになってお米や野菜づくりや農業などをしたことのない都会(派)の大人たちに託すことに、大きな危惧の念を抱いています。
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21世紀初めの日本の流行ー日経MJ「ヒット商品」より

2006年07月29日 | Weblog
 20世紀末から21世紀にかけて、宇多田ヒカルや倉田麻衣などが流行った。ハリーポッターや千と千尋の神隠しなどが爆発的な購読者や観客数を得た。一方で、景気低迷で消費者のサイフの紐がかたく、半額マックバーガーや200円牛丼およびユニクロなどが支持されたのもこの頃だ。
 21世紀に入り、世紀末の暗い経済や企業のスキャンダルに辟易した人々は、日本再生と景気回復を願い、政府も企業も人々も「改革」を合言葉にし、スポーツ成功者などにその夢を託しました。2001年のイチロー、2002年の松井秀樹や日韓W杯サッカーなどでした。
 ミキハウスからナルミヤに世代チェンジした子供プレミアム・ブランドに夢中になる若いお母さんたちが、カメラ携帯や着うた携帯を買うようになりました。携帯メールについて行けない中高年世代は、健康エコナや昭和復刻版(百恵、裕次郎やVAN)などに飛びつきました。
 芋焼酎やドラフトワンおよび第3のビールが、ヘルシア緑茶や伊右衛門(茶)などとともに消費者の支持を得ているなか、iPodミニやブログおよびブロードバンドが社会化されました。韓流なる現象に加え、アイ(藍や愛)やウィなど10代の女王が活躍、萌えが流行しました。
 サマンサタバサやはんぱ丈(パンツ)が若い女性の間で流行したりしている反面、Kidsケイタイ(GPS)やシュレッダーに加え国家の品格が売れている社会が現在(2005-2006年)ですが、「サムライブルー」を旗手に「美や武士道」などを含む日本の心や文化がルネッサンスするでしょうか。
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老若男女、誰もが利用する店「コンビニ」の悩み

2006年07月28日 | Weblog
 すっかり国民一人ひとりの利用受容を得たコンビニエンスストア(コンビニ)だ。2005年次、日本全国には43670店のコンビニ(店舗)があるという。実に2000人(15-64歳労働力人口)に、1店だ(日経MJ新聞調査)。コンビニの総売上高は年間7兆6430億円(2005年)になるというから、1店舗平均1億7500万円(月平均1460万円)になる。15才から64才の労働力人口(男女計)ベースでみると、一年間で一人あたり約9万円(1日240円)の買い物をコンビニでしていることになる。1日おきに利用すると平均480円、3日に一回利用する人は720円の買い物をその都度していることになる。
 こんなに毎日の生活に欠かせなくなったコンビニだが、あまりにも店舗数が増えたうえに、まだ引き続く出店(数)競争や売り上げ(シェア)競争の激化のためか、各社各店とも経営が苦しいという。売上げ高の頭打ちからか、”効率”重視のマーチャンダイジングや取り扱いカテゴリーの再編などが試みられている。業態開発や新業態の研究が叫ばれたり、中高年顧客の誘引や全世代対応戦略に躍起だ。既存店の不振を新店出店でカバーしたり、極端な不振店を閉鎖したりと苦労しているところに、この度(6月)の道路交通法改正に伴う”駐車”問題が、クルマ客や配送双方にマイナスに作用しているようだ。
 公共料金その他の決済業務サービスおよび携帯クレジットや電子マネー(決済)の導入ならびにATMやコンビニ銀行などに進出したりと、デジタルIT社会や生活への対応競争が激しい。加えて、難しい生鮮コンビニ化やOL、オフィス(含、弁当、昼食)対応のコンビニ化および均一(価格)ショップやドラッグストア化などの検討や採用研究だ。ドトールコーヒーのようなガソリンスタンドとの併設コンビニもトライアルされている。
 コンビニエンス(便利)コンセプトが、まるで「何でもある」(デパート)小型便利店でなければならないということのような気配だ。
 異業種との地域競争が過熱する一方、異業種とのコラボ(提携、共同)も盛んだが、同質化を嫌い”独自性や差別性”にこだわればこだわるほど、売上げシェアや収益リスクが大きくなっていることに気づかない。所詮、似たり寄ったりの同じ業界の人間、”考えても、差異化しても”結局、大きな「優位性差別」にまでは行かないのが現実だ。いっそのこと、甘んじて”同質”を受け入れ、同質のなかの”小さな工夫”による消費者支持を考えてみたらいかがだろうか。
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有限調査情報と無限知識情報、その転換

2006年07月23日 | Weblog
 「富の未来」の著者(妻ハイディさんとの共著)アルビン・トフラーが、7月23日のデイリー・ヨミウリに寄稿している。あまりにも巨大(金額)な中国の経済統計の修正と、そのような事態や公的な偽物統計(ウソの統計)が、経済や社会にもたらす影響について警告したのだ。何も、中国が近代的な統計や調査の技術や整備について特別他の国より遅れているということを理由にしたのではない。体制や権力や為政者が、国の統計や金融経済についての統計を意図的に歪曲や偽造をしたり、嘘言したりすることによる危険性の深刻さを指摘したのだ。
 ”正しそう”に見える日本や米国など先進諸国の公的調査や統計と言えども、調査の方法や設問および統計計算の仕方が、目的対象や時代に合っていないものであれば、どのようにきれいな統計表や図表になっていても、それは正確な対象や社会を映すことはないのです。社会や時代の変化の速度に大幅に遅れた調査設問データや統計情報は、トフラーのいう「死知識」でもあるが、それ以上に深刻な社会的誤解や相互不信の問題をもたらすことを警告している。
 時代遅れの設問や古びた経済的定義および時代の変化や突発的瞬時的な事象を捉えきれない調査や統計の方法が、社会システムの不確定性や不安定をもたらすであろうことは指摘されるまでもないが、企業のマーケティング・リサーチの多くの設問が、対象や目的および必要な情報などについての「素人」が作っているということについて、大きな問題意識を持ってほしいと思います。
 有限的定義の体制とその経済や社会の現況や問題状況を理解することは、足し算や掛け算および%計算などを通じて示されるデータ情報に基づいて出来るとしても、際限がなく持ち運びが出来る瞬時の移動や効用があり、かつあるものは長期の資産価値を有していたり、瞬時に「死知識」化したりする無限的知識情報の体制やその経済や社会を理解するには、現在の統計、調査および調査設問の仕方では、まったく対応が出来ないのです。知識は、どの時点で、どのような時その資産価値をどのように評価したらいいのか、これを調査や統計にどのように表現したらいいのかわかっていませんが、明らかに限りない再生産と価値をどのように見るのか、途方もなく困難な作業になりそうです。大きな国家的、国際的問題なのです。
 カオス(複雑系)や不確定性および変化性が、ますます増すことが明らかな変化の時代にあって、「変化」や「新しい定義」や体制に適応できる調査や公的統計の仕方が考えられなければなりません。新しい体制(新価値基準)や社会および企業に対応できる新しいマーケティングやマーケティング・リサーチを開発することが急務だと言えます。
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「競争」のないマーケティング・パラダイムはない。

2006年07月22日 | Weblog
 現代社会が、自由市場原理を枠組みにした企業や経済の競争的成長によりもたらされたことに異を唱える人はいないでしょう。「競争」パラダイムが、技術革新や創意工夫を生み、成長経済や豊かな社会をつくりました。結局、アルビン・トフラーのいう同時化産業に拍車をかけ、反動としての非同時化との調整問題を抱えて、21世紀を迎えました。
 「モノ」の豊かさや飽食だけが、人々の価値観のように思った20世紀がその限界社会に直面し、満腹を抑え腹八分目にして、健康や精神的なやすらぎや知的なものなどを感じることに、価値を見出すようになりました。競争原理の徹底や競争市場経済のもとでの企業経営や成長は、同質化と成長限界化をすすめました。企業の収益率は低落し、ムダという潤滑部分はそぎ落とされ、弾力性のない「効率やコスト低減」だけが追及される企業経営がすすめられました。
 「競争のない市場環境や企業経営」など、社会のファンデメンタルズ(基礎的枠組み)が変わらない限りの”夢”みたいなことを言い、「ブルーオーシャン戦略」(W.チャンキム、レネ・モボルニュ共著/有賀裕子訳)が売れ、コストや差別的優位性や収益確保のため、競争に明け暮れる既存市場(レッド・オーシャン)より、消耗戦のない未開拓市場(ブルー・オーシャン)に目を転じ、新市場を創造することが大切だと、もっともなことを言う。
 企業マケティングの対象の大部分が”ふつうの人々”で、この人々や一般の企業の大部分が、多くの生活時間や場面を過ごす社会的市場は、いわゆる既存市場なのです。おおかたの企業が、ベースキャンパスにしている既存市場を回避しようとしても、国民や人類が一挙にどこか”夢”の国や社会に引っ越すことなどないということを知っているからです。差別化や新機能の開発およびコスト(価格)低減だけが、競争戦略だと信じている人がいるとすれば、彼らはあまりにも「既存市場」を一様的に、同質的に見ているに過ぎない。
 主役である消費生活者が、すべてのモノやコトの購入や利用にあたっていつも、「嗜好と選択」という採択基準を持っているとする前提がオカシイのだ。人々は、何も考えず、無意識に、商品を手にしカゴに入れて、買うような”カテゴリー”(無意識、商品領域)と、商品を手にし、タテ、ヨコ、ナナメにチェックしたり、比較検討をして買うような”カテゴリー”(意識、商品領域)に分けている現実を見過ごしているのです。前者に後者の考え(マーケティング)で対応すると、消耗戦になりますが、後者市場と前者市場のマーケティング戦略を区別して対応することを工夫すれば、未開拓市場に行くことだけが”脱消耗戦”マーケティングだとは言えないことに気づくと思います。
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ユニセックス傾向は、本質回帰?

2006年07月18日 | Weblog
 ユニセックスが、時代のトレンドになっています。男性だか女性だか区別がつかない後ろ姿の若者を街やキャンパスで見かけます。ただ、男女共用の洋服やファッションを着ているのでもありません。若い男性が、ピアスやイアリングをし、ヘアカラーをし、いままでは女性専用だった化粧品やフレグランスを使っています。また、女性がジーンズやアーミィ ルックのようなファッションや大工さんのような格好をして街を歩いています。
 男女共用(同じ)や似たようなバッグ(セカンドバッグ)がはやったり、洋服や着物の左前や右前の男女差など何処へ行ったかというような感じです。男女両用や兼用だけでなく、逆単性的なアパレル・ファッションは、Tシャツ、ニットやトップスなどに限らず、ジャケットやパンツおよびボトムスあたりにも見られます。そういえば、最近の若い男性は多くが理容室でなく美容院を利用していますし、それ以上に香水やアロマやジュエリーなどに関心があるようです。男女雇用機会均等法だけがキッカケではないでしょうが、女性の男性化も傾向です。
 もともと、人間は「アンビバレンス」(相反するものを共に好む)な嗜好や価値観を内在していますので、「甘いものと辛いもの」「硬いものと柔らかいもの」や「女性的なものと男性的なもの」などを両方求める性格を持っています。「ユニセックス」マーケットがこれからも増えていくだろうと見られる理由です。
 男女や老若、年齢など気にせず、気に入ったものを好きな時、好きな格好で着て街を歩いたりした方が、気分が開放され、”自分”らしくなるかも知れませんよ。とりあえずは、「ユニセックス」万歳と言って置きましょうか。
 
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アルビン・トフラーの「富の未来」抄ー②

2006年07月17日 | Weblog
 「富」(Wealth)は、おおまかにいうと三つの富の体制により構成される。第一の波は農業、第二の波は工業社会、第三の波は、現在起こっている、生産、市場、社会における”脱大規模化”や”細分化”とその文化だといわれている。この三つの波が、現代社会の「富の体制」であり、富を支えるファンデメンタルズ(基礎的条件)ですが、この社会文化を支える基礎的条件が、その深部において激変していると忠告している。
 時代は、時間の変化や速さに対して、大幅に遅れたり、ズレたりしている。経済的、社会的および国家的ファンデメンタルズは、ひたすら、科学や技術の速さ、輸送や移動や通信の速さおよび同時性を後追いしていた。人々の生活や関心領域ならびに働き方や暮らし方について、これらの波が地域や日本という範囲を越え、アメリカやアジアの国々までテリトリーを広げていることも、仕事やビジネスのアウトソーシング(外注)およびインソーシング(生産消費)の混乱や社会の混沌を招いているようです。
 何世紀も変わらない文化や国柄や民族的価値観(伝統)に捉われてか、政治、行政や法律は、自国の変化にさえ後追いするもついて行けず、結局現状や時代と現実や実際の乖離が生じ、同時化と非同時化の調整問題解決の糸口も見つからず、時代的社会的な「変化」に遅れをとっているのが実際です。
 同時化と非同時化の両方の要請を調整し、解決するための大事な要件は「タイミング」(ジャストインタイム)ですが、時間や時期の適正や調整を考える「時間経済学」は、まだ体系化されていない。高速や速さを追求し、より早く先行する変化に対応しようとする同時化産業や社会ですが、加速する変化に対する処方箋や体系は出来ていないというのが実情です。
 21世紀の最大のファンデメンタルズ「知識」そのものが、時間の経過でその価値を大きく変化させること、たとえば、いまの知識が明日というより瞬時に「死知識」になること、過去の真実と明日の真実が不変でないということが大きく注意されなければならないことになります。「死知識」に圧死したりしないよう日々、新鮮な知識を生む努力をすることが大切だと思うこの頃です。
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アルビン・トフラーの「富の未来」抄ー①

2006年07月16日 | Weblog
 久しぶりの”連休”に、読み応えのある「本」に出会った。いまのような仕事を始めた頃、読んだ彼の第一作「未来の衝撃」以来の衝撃だ。「第三の波」や「パワーシフト」など彼の著作は、いつもすばらしいが、この度の「富の未来」(山田洋一訳、講談社)は、文字通り”衝撃”だ。奥様との共著(Revolutionary Wealth)だ。
 わたくしが、ふだん言ったり書いたりしている「価値基準の変化」を、「富」の概念や体制の変化として解説している。この富の変化や富の体制の変化は、人類世界の(普遍的)価値観のそれを言っている点で、極めて経済哲学的だ。いままで、金銭(価額)的に規定されていた「富」(Value)を、非金銭的経済や金銭を使わない並行経済も合わせた「富」(Wealth)に広く規定し、その体制の変化や世界地図の変わり様を考え、展望することの必要性を説いている。
 平たく言えば、人々の多様ないくつもの欲求を満たすものはすべて、「富」なのだ。したがって、富は欲求の充足や満足あるいは経済的な効用に限られず、”幸せな気分や心地よさ”や”自分の心や誇り”などを満たす絵画や文学や空間(環境)および人間的社会的関係など、金銭に表現できないものを含んでいます。
 ポスト工業社会の第三の波としてのIT、インターネット、ソフトウェアなどの情報社会やアメリカで言われたニューエコノミーの後の「いままでにない知識社会」をイメージし、新しい「富の体制」を論じているが、何も社会やその富のファンデメンタルズが、労働や技術的生産性からすべて「知識」に移行すると言っているわけではない。
 昨年7月、わたくしが上梓した「超同期社会のマーケティング」(同文舘出版)の”超同期社会”を、「同時化と非同時化の均衡」状態社会というように説明し、その調整の必要性を指摘している。先のアメリカのニューエコノミー、高度情報社会や同時化産業の進展による”同時化の必要”需要市場に、再同時化や”タイミング”の要請問題が浮上してきていることと、非同時化要請が強くなって来ていることが、社会的な混沌(複雑系)の問題を発生させていると説明している。
 時間価値が、これからの「富の体制」を左右する極めて大きな要素になることや、こらからの世界経済および日本経済の展望を示している本著の後半について、特に「時間」がどのように「富」(Wealth)を形成する要素になるかについて、後日当ブログで抄録したいと思います。
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花ざかりの「ウォーキング」マーチ

2006年07月13日 | Weblog
 日本人の総労働時間(含、時間外)は、1960年代後半、年間平均2400時間だったのだが、21世紀に入ったこの5年には平均約1850時間になっている。減った550時間が、何もしない自由時間になったのかというと、そうでもない。増えたのは、余暇(活動)時間やカルチャーなど、自分みがきや健康維持などにかける時間なのだ。
 週休二日制が浸透したことが大きく影響し、観光や温泉旅行および海外旅行を楽しむ人が増加した。休みになった土・日など、近くのアスレチック・クラブやゴルフ練習場など、入れないほど満杯だ。近郊の野山や緑地公園など、ピクニックやハイキングの家族や同僚仲間らしきグループの人々で一杯だ。家族や町内会などの「ウォーキング」も盛んだ。協会や団体および仲間の会のウォーキングの多くが「ツーデイ・マーチ大会」になっているのも面白い。
 ウォーキングといえば、全国の都道府県には必ずと言っていいほど「○○○県ウォーキング協会」があるのをご存知だろうか。「県」にウォーキング協会がなさそうな新潟、富山、奈良、高知、長崎県などにも、「歩こう会や歩け歩け会」などが散在している。加えて、全国には市区町村などの”地域”のウォーキング協会や歩こう会(含、徒歩の会、歩く会、歩け歩け会)が約240もあり、各地で「ツーデー・マーチ」や「テーマ・ウォーキング」を一年を通じて行っているのだ。
 (社)日本ウォーキング協会の「ウォーキングが人や社会にもたらす効用」には
、つい笑ってしまう(失礼)ようなセリフ(5K:健康、交流、環境、教育、観光)がみられる。何も、「効用、効果」と言わなくても、もっとライト・タッチに「楽しいウォーキング」をすすめればいいと思うのだが、「よいこと」一杯をいろいろ伝えたいらしい。汗かく”楽しさ”は、とにかく気軽な”体験”からだと思うのだが。効果、効用を考えすぎると「楽しさ」が遠ざかってしまうような気がするのだ。
 何でもそうだが、協会が出来、ガイド(ライン)が出来、役人的な主催や後援がでてくると、結局”ふつうの人々”が離れて行ったりすることを思い、ウォーキングを長く流行らせてほしいと思います。
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法律と税金のゆくえ・・?

2006年07月08日 | Weblog
 法律、判例、マニュアル、フォーマット、慣例がまったく時代の変化や環境条件の変化に合わなくなったり、変化する価値基準を組み込むことが出来なくなっても、かたくなにこれに従い遵守し、「変化」への対応を考えもしない世の中。保守というか、守旧というのか、病気化したビューロクラシイ社会だ。
 どのように人を殺めても”1人”なら無期で、”2人以上なら死刑”になるのが判例であり、遵法だという。無邪気な子供が、国や自治体が整地管理している人工砂浜を散歩していて”陥没、アリ地獄”にはまり死亡したというのに、自治体にも国にも、その担当官たちにも、「予測できなかったこと」だから、”無罪”だという。人が一人死んだ(殺された)というのに、どこにも、だれにも責任はないという適応が出来る法律や裁判がまかり通る国だ。
 多くの法律や裁判は、国や行政の権力を守り、権力を支える官僚や担当官を守るように出来ている。国や政治にダマされて、戦争に行って死んだり、移住して地獄の淵を彷徨う生活を強いられたり、よその国の権力に拉致されたりした弱者に対しては、何の保障も助けもしてくれないように出来ているのが法律や国なのだ。すべての弱い国民から、義務として強いた税金を食べて、セレブな暮らしをするものが、行政や法律の番人を仕事にする官僚や公務員という名の権力なのだ。
 今回の度重なる社会保険庁のスキャンダルというより、法律的制度的「約束」のホゴや背信は、”改革”の旗手として民間人を長官に起用してさえ、正される気配がない。教育の質的水準的低下を嘆き、文部科学省の大臣の民間からの起用などもあったが、その成果は”現状”をみればわかる。時の官僚や官僚ファミリーの見えざるマネジメントに潰されてしまったのだ。
 国の姿やあり様およびその将来を決める憲法や教育基本法でさえ、その時その時の権力や為政者の解釈により、自分たちを”肯定”するために、極めて弾力的に運用されるのだ。今回の逮捕(被疑)者や起訴者の匿名発表か公表かについての警察の自由裁量権を推したのが個人情報保護法だというのも、同じ類だ。文化的でくらしやすい情報(化)社会をつくろうとして作られた個人情報保護法が、権力や役人の「わるい顔」を公開しないように利用されるのだ。
 あぁ、わが税金よ、何処に行く。
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