吉澤兄一のブログ

お江戸のど真ん中、平河町から、市井のトピックスを日記風につづりたいと思います。

国益と世論は、相反するベクトルですか?

2007年09月26日 | Weblog
 国益を考える政府与党に対し、世論や世論を向いて動く野党はどうも反国益に向かうことが多いという人がいる(田原総一朗「週刊朝日」10/5 号)。本当だろうか。多くの政治方向において、国益と世論は相反するベクトルにあるのだろうか。

 改革が国益のとき、世論は反(非)改革になるという。改革が世論のとき、国益は保守(現体制維持)だという。都会であれ地方であれ、財政再建や国の借金減らしが改革なら、ともに支持するのではあるまいか。財政出動による公共事業がないから地方経済が疲弊し、都会との格差が生まれたのだろうか。このとき、政府与党が財政再建という国益をいい、野党や世論は地方に公共事業を回せと反国益をいうのがツネなのだろうか。

 テロ特措法やインド洋上の給油活動の延長が国益で、2回も延長された時限立法をストップさせたり(再考)することは反(非)国益なのだろうか。いままで築いてきた国家間の関係を見直すことは反国益で、続けることが国益なのだろうか。

 世論や野党が年金の無駄遣い(グリーンピアなど)や不照合5000万件問題あるいは着服問題などで大騒ぎすることは、国益に反しているのだろうか。ことさら格差問題を喧伝するマスコミや世論は、国益を損なう方向に向いているのだろうか。

 テレビなどのマスメディアが、やたら世論迎合し、視聴率稼ぎに走る姿は批判されなければならないが、そのようなこと以上に体制や権力のチェック機能を果たし、批判的(健康的)な世論づくりに貢献してきたことを評価したい。つねに、いつも、雪崩のように”勝ち馬”や"多数”に乗る姿は、政治家もマスメディアも大差ないと思うが、メディアの方々の見識に頼る庶民の私です。
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「美しい国や美しい星」を望ましい人は、いないと思うのに!

2007年09月23日 | Weblog
 安倍首相の「美しい国へ」で、この日本が本当に美しい国になれるかどうかは疑問ですが、そこに住む人々の心や暮らしぶりおよび文化や国の姿が"美しく”あることを望まない人はいないと思う。地球や国際社会の一員としての望ましい美しい国や地球環境および地球資源の恵みを共に享受する謙虚で美しい心の人々が住む美しい国は、その国の人々にも他の国々の人々にも望まれることでしょう。

 ただ、美しい国の姿が、戦後レジュームからの脱却でできるとか、教育基本法や憲法を改正すればできるという考えに、「はい、そうですか」とは賛同できなかったのです。リーダー・シップということを、何でも自分の思いを通すこととしか考えていないような方に「美しい国」づくりを任せられないと、多くの国民が感じた結果がこの前の参議院選挙だったと思う。

 とは言っても”美しい国”にするななどとは誰も思わないでしょう。つぎの総理やこの国の政治や将来に関する方々には、ぜひ「美しい国」の姿を描き、国民に説明し、理解を得、他の国々からも尊敬され、慕われる国を目指してほしいと思う。

 この美しい国と美しい星は、かなりの部分で重なる。ポスト安倍首相の新しい総理にも安倍首相が2007年5月24日提案した「美しい星50」もすすめて行ってほしいと思う。明日辞めるというのに、近いうちに期限切れになる時限立法がベースの洋上給油活動をブッシュ大統領に約束したり、他の訪問国への支援を約束したりする拙速を”リーダー・シップ”と勘違いするような総理は、お辞めになる運命にあったように思いますが、”いいことはいい”ので、この「美しい星」や「美しい星50」はぜひ進めてほしいと思うのです。
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ますます「タイミング」が重要な時代になって!

2007年09月21日 | Weblog
 安倍内閣や安倍総理の失敗は、何事についても”タイミング”を失したことでした。ひとの出処進退や何事かをやろうとする機会における”タイミング”は、大変重要なこと。デジタル社会や情報社会が進むと、ますます重要になるのが、タイミング。時間価値のポイントだ。

 時間価値というと、速さや早いこと(時短)ばかり思ってきたいままでだが、速さだけが時間価値の源泉だというわけではない。”ゆっくりやゆったり”に価値があることも多い。大切なのは、”速すぎない/遅すぎない”こと、すなわち”タイムリーであり””ジャストインタイム”なのだ。2007年の安倍内閣は、ことごとく”タイミング”ズレを起こし、多くの指摘や批判を浴びた。

 松岡農相の自殺や赤城農相の辞任あるいは安倍総理の説明や会見のタイミングも、最後はご本人の辞任のそれも、すべて”タイミング”がわるいということだ。どちらかというとすべて”後手”または”タイミング遅れ”ということ。憲法改正への国民投票法やテロ特措法・給油活動の約束なども早すぎというより拙速行動だったのだ。

 恋愛や告白、キスや子作り、玉子焼きやレンジング、転職や退職など人生いたるところ”タイミング”がポイントなのだ。企業や店舗の売り出しや新商品の発売などの多くも、難しい戦略などの問題というより”タイミング”で、その成功不成功がきまる。タイミングを外すと、莫大な機会損失をこうむるということを経験していない企業や商店はないともいえる。

 時間価値が主役になる世の中だから、主観的時間価値のポイント”タイミング”を大切に物事にあたろうと思うこの頃です。
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国のリーダー(国会議員)たちの礼儀作法知らず。

2007年09月19日 | Weblog
 ただいま、国会開催中。だが、国会の議場にも委員会室にもネズミ一匹いない。一日3億円の経費(税金支出)がかかり、何の審議も議論も立法もない。空転、空白国会と言っていても、与党の皆さんはただ合従連衡のダイナミズム。

 このような空白づくりのキッカケ原因は、安倍総理の辞任だ。何の謝罪もない。ただ、政策が遂行できない、小沢民主党主が会談に応じない、体調がよくないなど言っているが、診察加療を要するカラダだったということが大きな理由らしい。つい前日、国会開会時”所信表明”をし、これから質問や討論が始まるという矢先に”辞める”ということがどういうことなのか”知らない”での辞任ですか。

 一番大切な作法や礼を忘れてはいませんか。知らないのですか。まずは、国民に対する”謝罪”(お詫び)が”ふつう”ではありませんか。野党の皆さんや同僚与党の国会議員の方々に対するお詫びも大事だが、国民や国にこれだけの迷惑やリスク不安を与え、問題課題を山積みして放り出すことについて、まず謝罪することは最低限の作法でしょう。総理安倍さんだけでなく安倍内閣や与党トップの国会議員の方々も同罪だと思いますが、だれも一言も”お詫び”しないこの不思議だ。

 つぎはほぼ福田康夫さんだと、なだれのような”勝ち馬”乗り現象の自民党。昔の姿はあっても、主義主張どのように国政に参加するかのご自分がない国会議員のお集まりの姿だ。年金問題、政治とカネなど総理大臣や体制が変わると、どこかに言ってしまいそうなこの心配を消してください。

 ついこの間の自民党総裁・小泉首相の改革政治は、国民に大きなイタミやキズをもたらし、格差を助長させたから、その(アフター)ケアをしなければならないなどと、同舟だった自民党の皆さんがいう。その姿が”昔がえり””派閥がえり””勝ち馬乗り”では、あまりにもオソマツではありませんか。

 小泉さんのしたことだから、安倍さんの言ったことだから、わたしは知りませんといった雰囲気の福田康夫さんやその周辺の保守がえりの方々、年金(解決)問題も、政治とカネの問題も、テロ特措法や自衛隊の国際貢献活動の問題も、美しい国や美しい星への課題も、私たちへの約束なのですよ。時間の経過待ちをすることで歳費をいただけるなどと思っておられる方はいないでしょうが、そのように映ります。

 つい蛇足しますが、みっともない(小泉)チルドレンといわれる方々は、すべて今期かぎりで政治や政界から身を引いてください。つぎの選挙などに出ない見識を持ってこれからの人生を再設計してください。それが国民に貢献する最大のことになります。
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遅ればせながら、地震被災のお見舞いに柏崎に。

2007年09月17日 | Weblog
 2007年7月17日、あの中越沖地震のテレビ中継を見て以来ずっと気になっていた柏崎見舞い。一昨日の9月15日上野発午後一時過ぎの2階建ての新幹線で長岡に向かった。この13日やっと復旧開通した信越線で長岡から柏崎に着いたのが午後4時近くだ。

 何年も会っていない友人、梶谷恭巨君が出札口に迎えてくれた。お互いだろうが、団塊世代の典型の彼も大分老けて見えた。彼の友人、竹田君のクルマで、最も地震被災のツメ跡がひどく残る商店街を経由して、下方の彼の家に着いた。

 彼のお子さんや奥さんの迎えをうけ、初めて彼の家(震災の少し前その前の地震のあと再築)に入った。あまり被災の影響を受けなかったとは、メール通信などで聞いていたが、かなり書斎の本やその他の散らかりに被災の程度が、推察できた。もっとも、地震のせいばかりではない本やPC機器端末配線などの散らかりであることは、昔の彼を知る自分にはすぐ理解できた。

 早速のビールや焼酎で、地震や被災の話に昔話が交錯し、畏まってお見舞いの言葉をいうタイミングを失った。40年近く前の、二人とも20代後半の企業戦士時代の回顧話に花が咲いた。友人の竹田君の関心など”そこのけ”の勝手な盛り上がりで、いま恐縮している。ローカルな話といえば、私の出身地の茨城県北部(常陸太田市)と彼の出身地広島太田地域とこの柏崎市地域の”共通”は、地名に表れているという確認話だった。不思議な話は、納得した歴史と人脈史の話題からだ。

 教え子だったという彼の奥さんの特別のもてなしは、翌朝の朝からのクリご飯やもぎ立てのイチジクのおいしさにもつづいた。夕べから深夜までのアルコールが勝手な一泊を誘発、お陰で彼の奥さんに翌朝の厄介をかけた。

 また、竹田さんのクルマで寺泊とは別のフィッシャーマン・ケープに鮮魚土産を求め、日本海沿岸から佐渡がかすむ日本海の水平線とその景色をゴチになり、柏崎から長岡に向かった。お見舞いならぬ新潟柏崎へのショート・トリップでした。
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朝青龍と同じ類にしたくない安倍総理の逃避。

2007年09月13日 | Weblog
 衝撃や驚愕の日の2007年6月12日。早めのランチを上野でと午前11時、事務所を出た。昼食をとって、トプカプ(宮殿)至宝展を観に東京都美術館に足を向けた。

 わが国がまだ聖徳太子の時代から室町幕府や戦国時代の頃、オスマン帝国(そのスルタン)は、その栄華の頂点にあった。まばゆいばかりの黄金や宝石宝飾などの至宝に圧倒されて、平河町の事務所に戻ったのが、午後2時半ごろ。パソコンに触れた途端の”ビックリ”衝撃が、安倍総理の辞任表明だ。昨日、改造内閣での臨時国会で所信表明した安倍総理が今日”辞める”という。

 直接の動機や誘因が理解できない。一国の総理、国の舵取りをかって出たその人が、野党民主党の小沢党首が会談に応じてくれないからという。体調がすぐれないからとも伝わる。任命したばかりの閣僚が”カネ”スキャンダルで、とにかく自分がやろうとする政策が遂行できないからだともいう。「君は誰ぞ」「他愛も無いことをよく言うよ」わがまま自己の言い分が通らず”ダダ”をこねる子供だ。このような方が、わたしどものリーダー・総理だったのかと情けない。

 朝青龍と相似だ。ウソの申告やズルなどをとおり越して、横綱や国技の大相撲や親方および相撲協会のあり方は云々などといえない。採り上げるのもイヤなニュースだが、一大トピックには違いない。ダイアリー・ブログを書いている身としては、何か所見を残さなければならない。遺憾だ。

 育ちや家柄も学歴もないふつうの庶民にさえ、その程度の”ヨシアシ”はわかろうと思うのに、何不自由なく庶民社会とかけ離れて育つと、このような”ふつう”の判断も出来なくなるのかと、再び情けない。
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法律問題までバラエティ化するメディア(TV)の責任。

2007年09月12日 | Weblog
 目くじらを立てるほどのことではないのかもしれない。「行列ができる法律相談所」(日テレ)などのような番組が、多くの一般の人々に法律を身近なものとして考えるようにした実績を認めながらも、少々”遊びすぎ”の感もする。

 ただ低レベルにし、バラエティ番組化し、面白おかしく”視聴率”を稼ぐことに指向している。「たかじんのそこまで言って委員会」(読売TV)の5月27日の特番(光市母子殺害事件の裁判)をキッカケにバトルした(現)弁護士団の弁護士会への4022件(9月現在)の懲戒請求の発生と弁護士・橋本徹さん問題などもテレビが起こしたといえる。

 メディアやテレビは、何かというと報道の自由やメディアの独立公平性をかざし、”どこにでも”泥足で踏み込む。メディアの社会性や人々に与える影響をいうと、”メディア・リテラシー”が求められる時代などと言って、自己弁護に走り、自己反省や自己革新を怠る。

 庶民感覚からすると、確かに不信する山口・光市の母子殺害事件の裁判の推移だ。だから、テレビでいま売れている橋本徹弁護士をして”バトル”させればという発想は、裁判や法律を真摯に考えたり、当事者にいる人々に”不信”させる。

 偏見や偏向で真実や世論、市民感覚から乖離しないよう注意しても、テレビ企画や記事を書く人も人間だから完璧はないでしょう。だから、集団や業界としてのメディア倫理からのチェック体制が求められているといえる。正当にみえる社会感情さえ、メディアが作ったことは多いのですから。

 それにしても、弁護士さんは”もっと、ご自分のドメイン”を大切にしてください。第二第三の丸山弁護士や橋本弁護士を作らないよう努めてください。テレビ・メディアの方にお願いします。
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谷 文晁とその門人たちの教え!

2007年09月09日 | Weblog
 この週末(2007年9月8日)、板橋区立美術館まで約30分のウォーキングをした。江戸時代後期画壇の巨匠・谷 文晁展(谷 文晁とその一門展)を鑑賞するためだ。芸術や書画音痴のわたしだが、入館して展示ルームに入った途端、その”何かわからないスバラシさ”に圧倒された。

 水墨画のような墨彩画のような、日本画なのか中国画なのか私にはわからない。南画的であり写生画とも解説されていたが、洋画的日本画にも見える。自由奔放のようでもあり繊細なところも見せる。対象やテーマ、あるいはその時の自分の気持や考えで、書き方というか画法を選択しているようだ。

 一説には2000人の門人がいたともいわれる文晁の画塾は、江戸にあって写山楼と呼ばれていたが、絵画を学ぶ門人ばかりではなく、多くの文人や書家および趣味人が出入りしていたという。円山応挙や狩野派など幕府や藩御用達の正統派巨匠に反発するように町民や町の絵画家や文人に愛された文晁とその絵のようだ。形式や流儀に捉われない自由な画風が、多彩な門人たちを輩出したようだ。

 渡辺崋山ぐらいしか彼の門人を知らない自分が、文晁や彼の門人たちの絵や画風などをあれこれ言えないが、技法や描き方などを自分にも、門人にもシバラず、押し付けず自由に個性を、対象を表現させるようにしたことは、”教育とは何か”に悩むわたしたちに大きな教えをくれているようだ。

 こだわらず、押し付けず、発想やテーマを尊重し、個人個人の主観や特性を生かす教えは、創造性や革新が求められる現代にこそ大切なのではあるまいか。多くの教えをいただいた週末のちょっと暑さの残るショート・ウォーキングでした。
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「閉じこもる」20代の若者への応援歌!

2007年09月08日 | Weblog
 団塊の世代がアクティブシニア・マーケットをリードすると言って、リタイア市場や高齢者市場における戦略的マーケティングの展開が競われている。その旺盛な消費や活動で世の中を牽引してきた団塊世代の子供の団塊ジュニアも、多分に活動的で”ゆたかな生活”を享受して育った。いまもその”つづき”にある。

 この団塊世代のあとのニューファミリー世代は現在50代だが、この世代の子供たちがいま”若者”といわれる20代だ。景気後退からデフレ経済下における生活経験が長い親家庭で育ったこの子供・若者たちは、何かと団塊ジュニアよりキビシイ時代に育った。

 最近、ある新聞(日経MJ)が、20代の若者についての調査結果を発表した。出費に慎重な現代の20代若者の姿を興味深く要約してくれていた。

 何も若者に限ったことではなく、消費者の消費や行動を後退させたり縮小させたりしている大きな理由は、実質所得の低迷にあるが、それ以上に交通費や水道光熱費などの生活インフラ物価の相対的な上昇にある。出かけるにも、活動するにも、"動く”と生活コストがグーっと高まるのだ。渋谷、青山や六本木などやディズニーランドや郊外レジャーに出かけるにも”かかる”費用がバカにならないのだ。だから”外出しなくなる”のだ。

 自宅や1マイル以内で暮らすことが多くなる。遠出や高い買い物への興味を抑え、身の回り品などへの関心を高めるのだ。便利だと思っていたコンビニも割高だと感じたり、年金問題などから先行き不安を増幅させたり、いつ自分が”下流”に転落するかもしれないと思ったりするから、とにかく”貯金”するのだ。少々ケイタイの料金が下がったとはいえ、音楽やCDやパソコンなど”家の中にいても”お金はかかるのだ。割高な外食や外出と友達づきあいを控え、少しでも”貯める”ことに精出す若者の20代なのだ。

 マーケットやこれからの世の中をリードする20代の若者が、こもりや縮まっていては先行き明るくないのだ。外に、街に、レジャーや交友に活発な関心を抱くようになってほしい。政治や社会が明るい先行きや希望をセットしてほしい。世の中の明るさをリードしてほしい20代若者を応援します。
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政治とカネの今昔物語、この半世紀。

2007年09月06日 | Weblog
 戦後60年、権力指向、利権指向、金権指向と、政界や政治家の赴くところも変化する。時代や社会の価値基準の変化とは、大いに異なる。高度成長期とその前後にあって、政界を揺るがした事件スキャンダルといえば、造船疑獄(1954)、殖産住宅事件(1972)、ロッキード事件(1976)やリクルート事件(1988)だ。

 いずれも、時の総理の退陣や内閣総辞職などを誘引した。現在の政治とカネ問題との違いに気づくだろう。利権を求める企業と政治や政治家の癒着や、関係癒着を求めて止まない体制政治家は派閥を率いる大物政治家で、贈賄する企業は政治市場がほしい成り上がろうとする政治銘柄企業だ。大型贈収賄が起こる土壌だったのかもしれない。

 裏のカネ、簿外のカネが派閥の親分政治家から派閥の子分政治家に”暮れのモチ代”や”選挙資金”として渡された。税金で政治資金が払われ、政治資金規制法ができ、お金での関係やお金の心配をしないで”政治”が出来るようになったから、このところの”問題”なのか、30年ほど前とは大いに異なる。

 安倍政権になってからの政治とカネ問題や事件の中心は、何と”事務所費”なのだ。税金からの資金や議員としての歳費や諸経費の支援を考えれば、起こりそうもない事務所費問題だから呆れるのだ。品格や品位をいう以前の問題だ。

 玉沢元農水相の領収書五重複写使用を聞くに、政治家の事務経費は”ひとつの領収書を彼らが持つ政治団体の数だけコピーし、何重の計上もできる”らしい。まさかひとつの領収書が(複写し)何重にも使えるなど会社や税務署からも聞いたことがない。事務所費の多重計上や付け替えは、証左につける領収書が複写でも通用する政治家や政治団体に限られるのだろうか。

 佐田前行革相、伊吹文科相、松岡前農水相、赤城前農水相そして改造内閣の遠藤前農水相や若林大臣まで何とか外務政務官や玉沢元農水相まで、みんな事務所費の付け替えや二重多重計上だ。浮かせたお金は何にどこに消えたのだろうか。

 事務方のミスや知らなかったで”修正したり、返金すれば”大した問題ではない公文書偽造や横領や脱税らしいが、詐欺やこそ泥に国の政治を委ねたと思うと何とも情けない。社保庁や市町村窓口の職員が着服横領した3億円があっても、誰も裁判や刑務所に入ってないのも、このような政治家だから役人を糺すことも処罰することもできないということだろう。
 こそ泥や詐欺まがいの事務所費付け替えや多重計上をしたりせず、大型の贈収賄でもやれと言っているわけではないことを断らなければならないのもイヤな世の中だ。
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