吉澤兄一のブログ

お江戸のど真ん中、平河町から、市井のトピックスを日記風につづりたいと思います。

情報後進国日本を情報先進国にするために。

2007年02月25日 | Weblog
 政府の情報機能強化検討会議(議長、塩崎官房長官)が、情報機能強化策の概要をまとめたという(2/25、朝日新聞)。情報幼児国(筆者言)というより情報(戦略)後進国の日本が”ようやく”という感じだ。情報先進国のアメリカ、中国、ロシアなどは、ともすれば安全保障秘密情報(管理)戦略性が高いということをもってそのように受け止められているようだが、広く文化や国情や民間人や要人の発言などを含む定性的な「その国のダイナミズム」を知ることが情報先進国の情報だと思う。

 そういう点で、政府の考えている情報機能強化策(イメージ)は、時代に大きく”オクレている”感じがつよい。相変わらず、各省庁からの情報(形式化情報)を新設される内閣情報分析官が、分析、評価し、その「報告書」を作って関係省庁の局長級に内閣情報官や官房副長官クラスが加わった合同情報会議が”お墨付き”を与え、内閣情報調査室がそれを”報告書”にして首相および安全保障会議に提出するという。

 政策決定者の情報鑑識眼の低さや情報知識レベルの低さを、分析、評価、客観性チェックなどを入れて”間違わない”(正確)情報や政策決定のベースや参考にしてもよい情報にしてお届けしようということらしい。信頼性の疑わしい情報によって政策決定がゆがめられるてはならないということらしい。しかるに、そのための情報の選別、分析、評価という作業は、「生の情報」を洗ったり、切ったり、煮炊きするということであり、ビタミンやその他の栄養素を抜き取る作業なのだ。

 正しい情報、客観的な情報、利用しやすい情報および情報の共有化ならびに機密情報の漏洩防止などの体制が強化されることが、情報先進国ということではあるまい。中国、韓国、アメリカやヨーロッパおよび南米、東南アジアやアフリカ諸国などが、「日本」という国や文化および人々の考えや生活行動の現在や方向を正しく知ってもらい、理解を得る情報の発信戦略が大切だ。それらの国々をよく理解し、相互交流をいかに高めるかについて資する情報を、刻々入手し、国のトップや政治に活用できることが大事なのだ。

 情報の収集、分析、評価や客観化および報告書づくりなどと言っていると、その間の時間が、情報の鮮度を落とし、品質を劣化させ、時期的タイミングのズレによる誤情報や死知識化し、よりヒドイ情報後進国化を招くことになると心配している。各省庁の情報収集、統計調査、アンケート調査や各種の白書や報告書づくりをさらに客観性チェック、分析、評価し、その報告書づくりの担当部署や担当官をつくり、"工程”を増やし"時間”をかけることが、これだけスピード、同期化している時代にあって「どのようなこと」をもたらすかを、よく考えて体制を再考してほしいと願う。
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国と国家。

2007年02月24日 | Weblog
 2007年4月1日発行予定の私のブログ・エッセイ本のタイトルが「情報幼児国日本」に決まった。最初、出版社から「情報幼児国家日本」というタイトルでどうかという提案をいただいた。何かシックリ受容できなかった。感覚で、「国家」というところを「国」に直してもらった。「情報幼児国日本」、私が2006年3月より12月末までに綴った「ブログ」エッセイ、120回分を編集したものだ。

 それにしても、自分のイメージというか感覚で単純に変えた国家と国、どのような違いがあるのだろうか。辞書や国語辞典を開いてない。私が体感的に親しみを持つ「国」は、どちらかというと郷土や故郷あるいは”土地”のようなニオイがする。「国家」は、ずばり”体制”イメージだ。何か統治または権力や管理のような、そんなニオイだ。

 この感覚に従えば、自分の社会マーケティング(ブログ)エッセイ本のメイン・テーマの流れは、国家(情報)の幼児性なのだが、これを避けた。83人の小泉チルドレンの国会登場以来、政治家、大臣および与野党国会議員や経営者の稚拙性というか政治や企業経営のチルドレン性が目立った2006年。そのイアリー・エッセイだから「情報幼児国」としたのだが、その適否は後日、読者諸氏が批評して決めてくれると思う。
 乞う、期待! 「情報幼児国日本」(武田出版)!!
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東京マラソン応援歌。

2007年02月22日 | Weblog
 東京マラソン(第一回)は、前日までの異常な暖冬とは打って変わって、冷たい小雨のなかをスタートした(2月18日)。ニューヨークシティマラソン、ボストンマラソンやその他の欧米の市民マラソンにつづく、アジアで最大級のシティ市民マラソンになった。
 お天気がよいに越したことはなかったが、困難や苦難の環境を最初に経験したことは、後々の大会の運営や進行管理および準備などのためには「よかった」のかもしれない。

 このところ、ニューヨークシティ、ボストン、ロスアンゼルスやドイツなどの市民マラソンに毎回出場し、回を追うごとに好タイムをあげている75歳になった恩師・西野義雄先生も、先月の勝田マラソンの疲れも取れないなか、「第一回の記念大会だから」と出場した。

 テレビで朝9時10分のスタートを見てすぐ、地下鉄の駅に走り”街頭声援”に向かった。行く先は銀座。有楽町線・銀座一丁目で下車、午前10時ごろ、銀座四丁目の和光前付近に着いた。9時20分あたりが、恩師のスタートラインと推測して11時少し回った頃”銀座”と考え、仲間5~6人と共に小雨の冷たい中の応援に、身を乗り出した。
 往きにこそ”走る”先生を捉え損なったが、浅草からの折り返しの銀座三越前で
声援が届いた。恩師の勇姿が晴海通りに向かうのを見てすぐ、新橋経由の「ゆりかもめ」でビッグサイトに向かった。到着グランドで、人、人の混雑を掻き分けている我々が着いたときには、本人はすでにテープを切っていた。3時間54分台での完走だった。握手した手も、身体も凍るほどの冷たさだったが、完走した笑顔と喜びを分けていただいた。

 大東京中を駆け巡る形で、こんなすばらしい市民マラソンをやった東京都と都のスタッフ職員の企画、演出、準備、進行、警備、管理の尽力に敬意と感謝を申し上げたい。都民や市民に、人々の生活や思いに鈍感(力)でなく、敏感に応え、”希望”の高まりに寄与するような、こんな催しをつづけてくれることを願う。
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考え、汗し、人類に役立つ”モノづくり”国家でいいじゃないか、日本!

2007年02月15日 | Weblog
 知識社会、富の体制が知力になるということと、”頭を使い、汗しない”ということは異なる。考え、発想や知恵を動力に、新しい暮らしや文化に資する財貨やサービスをつくるというモノづくりや創造経営を進めなければならないことは、いつの世も同じだ。
 とかく、知的経営や創造経営といったり、知識社会というと、汗しない知的創造力イコール金融や投資による資産増殖を考えがちだ。このところの国際経済における貿易収支を上回る所得収支などから、所得収支の黒字拡大のための有望な海外投資こそ、資源や人口の減少傾向にある日本の道のように言われる。国内においても、汗しないITやITなどへのファンドの投資やファンド・ビジネスとしての企業への投資やM&Aなどがはやりだ。

 モノづくり国家は、何も物質的財貨のみを”モノ”と言っているのではない。サービス、情報、システム、技術、知識やノウハウも含め、人々の生活や暮らしやすい社会に資する”モノやコト”を考えてつくる全体を指している。株式やファンドのように資金を投資して、配当や利益回収および売買差益を事業とする金融投資をもって、汗や資源およびモノづくりという工業立国を脱皮して金融立国しようとする傾向は、文字通り砂上の楼閣のような気がする。

 価値イコール金額ではないとする体系や体制が出来ていないところにも問題があるが、”モノづくり”から離れようとする傾向は危険だ。自分たち日本人の特徴を自分たちが捨てていくことになりそうだからだ。

 農業国日本が、いつの間にか工業国日本になり、地球資源を大量に消費し工業加工し、工業製品や生活用製品をつくり、大量に消費し、輸出する国になっている。もともと、日本人の高い技術や高い品質の製品をつくる素質は、農業すなわち農耕型の発想や知恵から生まれた。大自然を、すべての自然のものを神と仰ぎ、山林や田畑を「開き、耕し、蒔いて、育てて、刈る」という辛抱強い工程を、丁寧に踏む農耕型思考や行動が、技術や製品開発および製造という作業にも注がれる。この農耕型アプローチこそ、”モノづくり”日本の思考や文化の原点なのだ。

 ファンド・ビジネスや金融投資などが、いかほどに価値増殖率が高いか知らないが、右のモノを左に、お金を出して利益回収と”マネー・ゲーム”姿の経済基盤をつくることが、20世紀の大量生産、大量消費のあまりよくない遺物や問題を解決する方向なのかどうか。地球や人類の持続可能性を高める方向として、日本が世界の模範やリード役を受けるなら、今こそ農耕型の文化やライフスタイルおよび思考方法を世界の国々に広めていくことが大切だと思うのです。
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いまや古典(?)、今 和次郎先生の「考現学」に多謝!

2007年02月13日 | Weblog
 子供たちが独立・自立し、親元を離れた。年金受給者年齢になった親夫婦二人が住むのに丁度手頃なスペースの住まいに移ったこの2月、また多くの蔵書を処分した。7~8年前に同じような理由で大半の書籍を古本屋や市民清掃センターに持ち込んだのだが、また思い切って前の残り蔵書を整理することにした。ネット・オークションやブック・オフなどには、全集ものやシリーズものがいいだろうと、マンガ本のシリーズも含め、文化、美術、歴史、民族や社会学系の全集ものを処分した。自分の還暦後のリニューアルというかリステップを考慮してだ。
 
 20代半ばの頃、買い揃えた「今 和次郎集」(ドメス出版)もそのなかの一つだ。考古学が歴史学の補助学的なスタンスで、過去の人類の物質的遺物から”人類のむかし”を研究する学問なら、社会(含、文化、民族)学の補助的なスタンスで、現在(今)の物質的財貨や文化から”人々の生活”を研究するという考今学ならぬ「考現学」を体系化した今 和次郎先生の全集だ。
 「1」考現学、「2」民家論、「3」民家採集、「4」住居論、「5」生活学、「6」家政学、「7」服装史、「8」服装研究および「9」造形論の全9巻だが、川添 登氏や梅棹忠夫氏など各分野の第一人者が、解説や後記を寄せている。私が、ふつうの人々のライフスタイルや生活行動などの研究調査を、マーケティングを考えるベースにしようとした契機をくれた本だ。

 さしずめ英語訳すれば、モダノロジー(modernology) となり、古代学に対する「現代学」のようになってしまうが、今 和次郎氏の考現学は、風俗学や民俗学的な分野に、民族学、文化人類学、社会学的な学問を加え、科学的分析的な研究の前にまず、”観察する”(含、記録、スケッチ、写真)ことを姿勢にした。
 ”あるがままの今”(瞬時の存在)を、自分の目や直感で観察することを出発点にしている。研究対象と自分自身の生活舞台との同一視観や同席観に支えられる学問体系を考えている点で、柳田國男先生と双璧である。柳田先生の目が”現在から過去”に向いているのと対称的に、今 和次郎は”リアルな現実から未来”に目を向けているように思う。そのようなイメージをもっている。

 文字通り当時(約35年前)”モダーン”に映った今 和次郎先生の考現学から(民俗)生活学などは、いまでは”クラシック”に見えるから不思議だ。”あるがままを見る”という自分の出発点である古典「今 和次郎集」に感謝し、後輩にその(全集)本をおくり、つぎの”考える自分”のステップにしたい。
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「言葉」遊びだけで、少子化問題をスルーするな!

2007年02月09日 | Weblog
 ウソもある。誤用もある。ホンネや真実もあるが、嘘飾や曲解などが付きまとうのが「言葉」だ。仕草や目でモノを言うことも、行間が語る文章などもあるが、大抵の場合、人々は言葉や文字でコミュニケーションする。つい、思っていることやホンネが言葉になることも多いので、人々は言葉に敏感だ。ジャーナリストやマスコミ人ばかりでなく、広告のコピーを考えたり書いたりしている人や詩人小説家など、言葉や文章を仕事にしている人は多い。

 国民や市民を代表して、国会や地方議会の議員になった人々は、演説や議論討論をすることが仕事だ。「言葉」を介して問題や課題と自分の意見や構想を述べ、相手議員のそれらを聞き、討議し、国づくりや生活基盤にかかわる施策をつくり、国民や選挙民の負託にこたえることを、仕事にしている。何々大臣に限らず、負託された代議士や政治家と呼ばれる人々は、ただ「言葉」遊びや失言さがしをすることを以って歳費がもらえているわけではない。

 発言したり、討論したりする”言葉”ひとつひとつに、誰もが同じく理解できる言葉の定義があるわけでもないから、各議員の使う言葉や用語の意味が微妙に異なる。赤はアカ、青はアオあるいは、言ったは言ったと、誰もが同じく理解できない
”いい加減さ”や”ノイズ、巾、含み”などを持った言葉だが、「言葉」を仕事の道具にする国会議員の方々は、ふつうの人々より”言葉”を大事につかい、言葉に責任と感謝をもってほしい。言葉の性格がそうだからといって、”いつも、その時その時、いい加減な使い方”をしていると、議論や意見交換がますますいい加減で、出来なくなる。言いたい真意も伝わらない。

 柳沢大臣の”機械”や”健康(不健康)”発言は、言葉についての定義や認識以前の問題で、ましてや”国語力”の問題ではない。少子化問題担当や厚生労働省担当の大臣としての資質や適格性を欠いていると思われる。難関大学や難関上級資格試験などをスルーしても、最近の教員などと同じく、いわゆる常識やふつうの生活感などとのズレを持ち合わせるタイプの方が多い。教育再生などでは、間に合わない”いまの子供大人”なのだ。

 それにしても残念なのは、女性国会議員のみなさん方だ。それなりに著名で見識もありそうな女性議員が、ただ 柳沢大臣の少子化問題担当としての資質に欠けることや彼の女性観などから、大臣というより”人間性”などを騒々しく質問したり、騒ぎ立てて、いわゆる”男社会”を責めているのだ。女性の政治家たちが、頼りない男性社会の申し子の男性政治家の少子化問題などに対する青写真のなさや欠陥を思うなら、自分たちのビジョンや具体的な方向性や構想を示せばいい。
産科医や産科病院の不足と医学部卒業生の産科医敬遠問題、年々高まる非婚化とDINKSや一人っ子で十分というライフスタイル傾向に対し、どのような展望を描き、どのような施策をするかなどが緊急課題なのだ。

 どのような体制や国の姿と人々のライフスタイルや価値観への方向性を示せば、できるだけ早期に少子化問題脱却の展望が見出せるのかは、あなた方女性の代表議員が、国政の場で出してくれなければ、誰がリードしてくれるのですか。言葉や用語の定義および使い方が仕事(立法府)の政治家の方々とはいえ、いたずらに失言や間違いを引き出しあったり、言葉じりをとらえて騒ぎ、貴重な歳費(税金)時間を費やして欲しくないのです。
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