吉澤兄一のブログ

お江戸のど真ん中、平河町から、市井のトピックスを日記風につづりたいと思います。

同質化と差異化のなかのオリジナル

2006年09月30日 | Weblog
 同期社会や同時化社会の基本的な価値基準やライフスタイルは、同質化または同質性にある。”みんなと同じように””お隣と同じように”という暮らし方やライフスタイルが基本。だから、「格差」(違い)が問題になるのだ。人には、欲や向上心がある。上位指向や上質指向の源だ。同期、同質化社会だからこそ、”ちょっと違った”ライフスタイルや自分演出(個性表現)をしたいのだ。
 この差異化や差別性を強め、90年代のデパートやDCブランドに負けじと出てきたのが、「セレクトショップ」だ。シップスやビームスからユナイテッドアローズと、独自性や差異性を打ち出すセレクトショップが、若い女性を惹きつけた。つい2・3年前のことだ。渋カジとか言って、渋谷、原宿、青山あたりのストリートファッションとも重なっていた。
 これらのセレクトショップの多くは、成長し、企業性を高めた。企画、マーケティング、生産、店舗演出など、どこも独自性に高級感を組み込んだマーチャンダイジングに努めた。急成長し、急拡大し、頂点を極めたというのか、このところ各社減速からやや右肩下がりの兆候がみえる。競争原理のもと、みんなで同じような差異性や独自性を探求してきた結果だが、若い女性からみれば”同質”と映ってしまうようだ。
 個々のショップの問題以上に、業界としての工夫や研究と共同戦略が求められているのだ。リバイバルを期待したい。
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世相の語り部「ゴルフ」

2006年09月29日 | Weblog
 今日2006年9月28日のランチは、仲間(?)11人、丸の内帝国劇場の地下一階「日平亭」で、久しぶりの”日比谷界隈”の仲間だ。いつも世話をやいてくれる最長老(失礼)の岡田良一さんのアレンジだ。楡郁太郎さんのエッセイ集「ゴルフ徒然草」(興和堂、2006年7月出版)の上梓を祝うオシャベリの会だ。近くの旭化成で現役する2人も含め、現役とリタイア半々のメンバーだった。
 仕事のこと、会社のこと、仲間のこと、家族のこと、そして昔のことなど最初は遠慮がちにオシャベリするのだが、そのうちそれぞれのマイペースになるのが常だ。この本は、挿絵を描いた三井敏雄さんとの合作のような本だと楡さんが言うが、その挿絵の主が発熱したとかで、この席にいなかったことがやや盛り上がりを欠くことになった。
 1-2時間あれば、一気に読み切れる”本”だが、挿絵が多いからではない。楡さんの文章がスマートで、読みやすいからだ。仲間のこと、ゴルフ華やかし頃のサラリーマン ゴルファーのプレイやマナーなどが日記風になっているだけでもない。ゴルフいろいろについてのウンチクがゆたかなのだ。だから、ちょっと興味を深耕し、ある部分に読みいると、前に進まなくなってしまう。ウンチク(薀蓄)にダフッてしまうのだ。
 ゴルフは、その人の”育ちや人柄を表す”という。うっかり、ゴルフしてはいけないということか。紳士(含、淑女)のスポーツといわれ、マナーやエチケットに厳しいと言われる。しかし、どうもこれは、ゴルフをするのには、ひとつの”こころのステータスを”などと思うようなそんな狭量な輩が言い出したことのようだ。ゴルフに限らずスポーツやスポーツをする人は、みんな共同生活や社会性をわきまえた常識人だ。もちろん、ゴルフを特別視したりもしない社会性や人間性ゆたかな人たちがほとんど。
 会社でも、地域や社会でも、人が何人かで暮らすには、お互い法律やルールがなくても、守らなければならない暗黙の了解がある。マナーやエチケットや常識といわれている。いつも、審判員や同伴者がついて回ってくれないゴルフだけが特別ではないのだ。ふつうの暮らしでも法律や他人の目を気にしてばかりいたら、日々の暮らしが気持ちよくいかないだろう。他人へのルールやマナーというより”自分”へのそれなのは、普段の生活もゴルフも同じなのだ。
 10年ほど前のゴルフ人口(%)は、男女あわせて平均すると、コースに出る人10~15%、練習場だけの人15~20%だったが、今(2005年)はコース・ゴルファー10%前後、練習場ゴルファー10%弱。女性のゴルファー率(コース3%前後、練習場5%前後)は、あまり変わってない(今が少し多い)ので、男性だけをみると、10年前はコース、練習場ともそれぞれ20~30%だったが、いま(2005年)は15~20%に減っている。楡郁太郎さんたちが、同僚や上司および取引先の人たちと競ってゴルフをした頃のゴルフ場やゴルファー模様といまのそれは、これらの数字以上に異なった風景なのかもしれません。
 「ご趣味は?」と聞かれ、「ゴルフやマージャン」としか答えられなかった中高年も、最近は「旅行や年に一回の海外旅行」とか「水彩画や隔週のウォーキング・マーチ」などに加え、「ブログやエッセイを書くこと」などがゴルフやテニスに加わったようで、大変いいことだと思っています。月一のコンサートや映画や落語なども含め、ただ”多様化”などということは文字通りの短絡で、人々の価値観や生き方が変わってきたと見られます。ゴルフ・マーケティングを考えている方の視野の広がりや視座の転換を期待する次第です。
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越後タイムスだからか「学際ネットワーク」論の連載

2006年09月24日 | Weblog
 柏崎通信<quercus@freeml.com>というフリーメールの友人・梶谷恭巨氏から「越後タイムス」(タブロイド版の柏崎コミュニティ紙)の最近のバックナンバーが数部送られてきた。梶谷氏とはずっと昔の若い頃、一緒に仕事したり、議論したりしたことはあるが、いまは離れたところで、フリーメールやこの私のブログなどで、勝手なことを言ったり、”あいまい”な意見交換やコミュニケーションをしている仲だ。彼の<quercus>柏崎通信やこの越後タイムスに連載している柏崎発「学際ネットワーク」は、かなり最近の自分を刺激している。自分の脳や思考方法に幾分の幅をもたせることに貢献している。
 この「学際ネットワーク」は、ただ趣味や思いつきで、江戸や幕末の学問や学者の関係や繋がりを調べ書きしているのではなさそうだ。ITコンサルタントと言われているように、彼の専門はいわゆるシステム・デザインであり、コンピューターシステム・エンジニアなのだが、このネットワークやシステムを専門にしている彼だからして、人の交流や知の交流およびその地域間や拠点間の関わりを紐とくことが大切だということから、出発してのことらしい。
 江戸から幕末にかけての先達の学問的ネットワークを、「柏崎」という居住地を拠点に、全国的に学者間や学問間の関係や交流のネットワークを探求している。見た目には、地域的、人的繋がりの事実や推論を書いただけのものなのだが、何故か自分には難しい。さらっと読んで理解しようと思うのだが、読んでいるうちに”引き込まれる”のだ。余計、難しさに落ち込んでしまう。
 この「学際ネットワーク」の連載も含む「越後タイムス」の読者の皆さんには、ホントに頭が下がる。この連載に限らず「タイムス抄」(社説か?)をはじめ新聞の内容全体が、高度というか難しいのだ。何部ぐらい発行され、どのような市民が読者層なのだろうか。などと思うのだが、それでどうするのと言われると二の句が告げない。地域の情報紙というより知的交流紙とみられる。
 時代は、地方だし、地方発だ。霞ヶ関や東京からの情報が時代遅れの色合いを高めているのかもしれない。首相交代を機に、内閣官房発の「メールマガジン」も、時代や地方に遅れないよう模様替えをしてほしいと思う。
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デパートの先をゆく「アラサー」(30歳前後)女性!

2006年09月22日 | Weblog
 ここ5年、百貨店の売上高は横這い状態。伸び悩みというより必死で昨対を割らない売上高確保に躍起のようだ。アパレル・ファッションといわれる衣料品の売上げが伸びていないこともあり、何とか、仕事を終えて帰るOLという女性に立ち寄ってほしいと、食料品に力を入れたりしている。デパ地下だ。
 会社帰りの(帰路)立ち寄り客の多くは、夕食のオカズや翌朝の朝食を買う客だ。自宅近くのコンビニもあれば、スーパーマーケットも結構遅くまでやっている。デパ地下と言ってもいまは、郊外のコンビニやスーパーと競争しなければならない。ゆっくり買い物してくれるわけではないので、勤め帰りの彼女たちもデパート向きの顧客層とはいえない状況だ。
 年代幅を広げてお客様を呼ぼうとすると、余計このように郊外やほかの業態の店といろいろな競争を考慮しなければならなくなる。ターゲット(層)は絞りたいと思っているのにだ。団塊ジュニアをフォローしているうち、彼女たちも30代半ばを過ぎ、結婚したり、子供が生まれたりして、余計地元化してしまった。土日だけでなく、アフター6の働く女性や少々リッチなサイフの女性をネライたいと、”アラサー”とか言われる30歳前後の女性や働くプチセレブ女性を誘惑中なのは、デパートもセレクトショップも同じ。
 アパレル服飾雑貨など、おしゃれアイテムや少々高級なものやサービスで顧客吸引したいと思って、婦人衣料というより女性の服飾衣料や美容関連を充実させてきた。ただ、従来のプレミアム(DC)ブランドを置いても魅力的ではない。新しく上質で、時代のファッションを先取りしたブランドがほしい。衣料品各社がこぞって、新しい秋冬ブランドを出した背景だとも言える。
 プチセレブ(年収500万円以上)やミリオネーゼ(年収1000万円以上)がターゲットのようだが、彼女たち、必ずしも”デパート好き”とはいえない価値観やライフスタイルを持っている。何かでゼイタクする一方、地球環境への配慮やロハスなどを取り入れたりしている。株式や投資信託をすすめるわけでもないのだから、デパートはもっと的を得たターゲット顧客層の研究を深めなければならない。一人で来る顧客より、友達同士やまだ若くありたいと思っている母親と二人で来てくれるような、そんな顧客がデパートで、つい”いいもの”を買ってしまう。
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ヒット商品(日経MJ新聞)にみる世の中の移り変わり

2006年09月18日 | Weblog
 日経MJ新聞が「ヒット商品番付」を、毎年公表している。規準はわからないが、面白い。発表が楽しみにもなる。
 2000年に入ってから最近までをトレンドでみると、毎年「コンビニもの」が入っている。00年DAKARA,01年お茶飲料、02年コンビニおにぎり、03年ヘルシア緑茶、04年伊右衛門、05年生鮮100円コンビニ。毎年「飲み物」や「おにぎり」などコンビニ商品が上位に入っていたが、06年には入っていないのだ。05年、06年と、ややコンビニの社会影響が低下しているのだろうか。
 タレントや音楽およびコンテンツなどが世の中の流行をリードしたり、表したりしていることも多い。00年ハリーポッターや倉木麻衣、01年千と千尋の神隠しやイチロー、02年松井秀樹、03年ジャパネットたかだや着うたブロードバンド、04年10代の女王や韓流、05年NANAやGABA、06年ダビンチコードや脳ゲームなどだ。スポーツやタレントの活躍が世の中(市場)を活気づけ、音楽や映画が社会雰囲気を映していることが多い。
 また、一種のファッション的流行や目だって売れている商品が世の中の移り変わりを表わす。00年の半額マックやスターバックス、01年200円牛丼やフィット(ホンダ)、02年カメラ付き携帯や健康エコナ、ナルミヤやサッカーW杯、03年六本木ヒルズや駅ナカおよび昭和復刻もの、04年iPodミニやブログおよび萌え、05年サマンサタバサや(ホーム)シュレッダーおよび第3のビール、06年国家の品格、はんぱ丈パンツやTUBAKIおよびサムライブルーといった具合だ。「国家の品格」につづいて”何々の品格や品位”がやたら多く出たり、「はんぱ丈やヘソ出し」がファッションになる世の中を嘆いたりするのは、”年寄り”(今日は敬老の日)になった証拠でしょうか。
 規準や尺度がわからないものでも、方法や情報源がわからないものでも、同じやり方や目線のデータや情報であれば、続くことが大事で、続くことにより何か傾向というか事実や真実に近づけることもあるのだなと思うこの頃です。
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思考(脳を働かせること)しない世界ーIT革命のゆく先?

2006年09月16日 | Weblog
 IT革命というと、創造的思考(Intelligence)がますます大切になり、”生きること”や”成功すること”の条件のように思われるが、実は全く逆で「考えないで済む社会」に向かっているのではないかと思う。「おたく族」「ゲーム族」「ケイタイ族」や「デジタル族」あるいは「コンテンツ族」を生み出したのは、IT革命というデジタル化やコンピューター化およびネットワーク化だ。クドクド長いアナログ的説明など面倒、「Yes,No」や「1,0」という反応形の方がわかりやすいと、コンテンツ傾向をすすめたのもIT革命だ。
 「バカの壁」(養老孟司、新潮新書)がその続本も含め超大ベストセラーになったこととオーバラップして、脳や脳科学についての本やテレビ番組および脳力を向上させるとするゲームなどがモテモテだ。一方で「考えない(脳を使わない)人」を育て、一方で「考えましょう(脳を使おう)」とやっているのだ。小泉劇場に始まる政治的ワンフレーズ説(声)明、テレビ・コマーシャルの”刷り込み”テクニックや「みのもんた」番組の与える消費者行動などをみれば、明らかに”考えない”国民や大衆づくりに指向していることがわかろう。
 少々難しくなるが、考えない人々や無意識の世界を対象にマーケティングする技法としての「心脳マーケティング」(米国、ジェラルド ザルツマン2003年、日本語訳、ダイヤモンド社2005年)が浸透しているのだ。
 消費者の買い物行動を”あまり考えず商品をカゴにいれて買って”結果、決して自分が思っていなかったモノや間違ったモノを買ったりしていない無意識の合理性と、意識してタテ、ヨコ、ナナメにチェックして買う商品とに、商品やその他の市場に分け、かつ過去(経験)の修正や将来(期待)の操作に、心と脳に働きかけることで関わろうとするのが心脳マーケティングだ。
 一般の消費生活者からみれば、”心脳されては、たまらない””洗脳されては、たまらない””だまされたり、操作されては、たまらない”ように、生活の知恵や自分の思考力の強化に努めなければならないのが情報化社会やコンテンツ社会なのだ。パソコンやケイタイ(メール)の語句自動変換およびエクセルなどの自動計算は、まだ序の口だ。口に入れる食べ物の選定だけでなく、これを”口に入れること”まで、ロボットがしてくれることなど想像したくないだろう。
 早い話が、「でっち上げたり」「嵌められたり」「刷り込まれたり」する世の中は決して望ましいことはありませんが、人の心や脳は結構このようなテクニックにはまってしまうということを認識して、自分が”考える、思考する”という姿勢を強めていくことが大事だということです。
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「心地よい格差」などという言葉は使ってくれるな!

2006年09月13日 | Weblog
 日本ほど「格差のない」国はないと、小泉首相が談話した。所得や生活レベルの(統計学的)分散というか「上位ー下位」の幅が、米国や中国およびその他の国々より相対的に”小さい”ということを言っているようだ。本当だろうか。格差(巾)の大きい米国や中国が、わたしたちが希望する社会や国の姿なのだろうか。世界全体でみると、アフリカ(53カ国)やアジア(47カ国)など、小さな国まで入れると192カ国(2006年1月1日現在)も”国”があるというのに、よく全体を見渡して”言ってほしい”と思います。
 所得や生活水準は低いけれども、そして”モノゆたかではない”が、小さな国が大きな自然の中で、みんなそんなに生活レベルの差(格差)もなく、まとまって、楽しく暮らしている国もたくさんあるのだ。「何がシワアセか、そんなのが幸せか」と言われれば、答えに窮しますが、日本には、国民があまり望まない格差があるということを、自覚してほしいのだ。
 今朝(2006年9月13日)の朝日新聞を見てビックリした。小泉内閣の構造改革の推進役でもあり、ここ10年の”規制緩和”(改革)のリーダー的存在であったオリックス会長の宮内義彦氏が、「心地よい格差は必要だ」と言っているのだ(朝日新聞「検証・構造改革⑦」)。経済のパイを大きくする(拡大発展?)ためにはということだが、「心地よい」などという形容詞を「格差」にはつけて欲しくないのだ。耳に響きのよい形容をすることで、本質が遠ざかるばかりか、「このような日本語がありなのか」とさえ思ってしまうのだ。
 資本主義経済の根幹である自由市場原理をもってしか「人々の望ましい社会づくり」は出来ないと信奉する人たちをせめても仕方ないが、自由や競争という市場原理をすすめ、結果として出来た「格差」なのだ。”心地よい”はないでしょう。許容できる格差、働いた人とあまり働かなかった人との間に(結果として)出来た納得できる格差だというのなら、(精神的に)受容できる又は許容できる(格差)ぐらいの表現は仕方ないのかもしれません。
 宮内さんにも、朝日新聞さんにも、「心地よい格差」などという表現を二度と使ってほしくないとお願いしたら、”表現の自由だ”と叱られるでしょうか。
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目前の超高齢者(80歳以上)1000万人時代!

2006年09月09日 | Weblog
 現在、高齢者人口(65歳以上)は約2300万人だが、15年後の2020年ごろには、約1000万人増の3300万人となる。うち、1000万人ほどが、80歳以上の超高齢者になる。これらの人々の多くは、夫や妻を亡くした”一人住まい”のお年寄りだ。子供たちでさえ、孫の独立や自立で”夫婦二人暮らし”になった高齢者だ。「広い家や庭では、メンテナンスや日々の暮らしさえ大変なので」ということで、昔求めた”家”を子供に譲り、高齢になって夫婦二人で暮らすために買い求めたマンションも”一人になると”広く、寂しい。
 リタイア(退役)したのだから、”田舎の自然”に住みたいと求めた平屋やリゾート地のコテージ風の家だが、病院通いや日々の買い物にも大変不便で、庭の雑草むしりさえシンドイ。自然がいいとは言え、”田舎”は不便だからと、高齢近くの二人暮らしに際し、都会の駅近くの2LDKのマンションに住んではみたが、いまは相手(夫や妻)がいなくなり”一人住まい”。駅に近いとは言え、日常のスーパーやドラックストアでの買い物もいまはクルマが使えず大変な上に、病院や市役所も遠い。高齢者から一人住まいの超高齢者になり、カルチャーセンターや生涯学習などでの友達も一人一人いなくなると、隣近所も知らないマンション暮らしは、実に寂しく、不安だ。有料老人ホームもいいかなと思ったこともしばしばだが、何千万円という拠出に、当時はその後のフトコロがゼロになる不安が勝っていたのだ。
 100歳以上300万人、80歳以上1000万人、そして高齢者人口トータル3300万人になる時代、目前(2020年)なのだ。現在、65歳から70代前半にいる高齢者1300万人が超高齢者世代になる頃、現在60歳近くになろうとしている”団塊の世代”も、実は15年後70代半ばになっているのだ。
 多くの”老夫婦二人住まい”の暮らしをどのように描くかという問題は、その後の長い”超高齢・お年寄り一人住まい”の暮らしを、どのように設計し、どのように支援するかという問題と一体のものとして考えなければならないのだ。60歳や65歳は”まだ若い”。元気でウォーキングや晴耕雨読と、たまの国内海外旅行などに満足しているうちに「時」は過ぎてゆくのだ。
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社風改革と掟破り

2006年09月09日 | Weblog
 あの会社は、風通しがいいというように、「風」という言葉はさわやかだ。心地いいひびきがある。社風と言う言葉も、多くの場合、”よい会社”を表現するときに使われる。「あの会社は、社風がいい」という言葉は、何を言っているのか解からなくても、何となく”会社の雰囲気や社員の意識が羨ましい感じ”に映っていることを表している。礼節をわきまえた社員の態度、モラールの高い感じの社員および取引相手やお客様に対する感謝の気持ちなどが強く感じられるとき、「社風がよい」ということが多い。
 ところが最近、どちらかというと”ネガティブ”(よくないイメージ)な感じで社風と言う言葉が使われているようだ。景気の低迷や企業の業績低下などという経済や社会の雰囲気が、そのようにさせるのかもしれない。「あの会社は、そういう会社だから。そういう社風の会社だから」と言われる場合、保守的だったり、お役所的だったり、オーナーシップの強烈な会社だったり、進取や革新がなかったり、マニュアル的だったり、あるいは社長やトップだけでなく社員まで”現場”に足を運んだことがなかったりというような会社の様子や空気をいうことが多い。
 長い歴史の会社やオーナーシップの強烈な会社ほど、マニュアルや会社のやり方に固執している。知らず知らずの暗黙のルールというか”掟”が、出来ているのだ。技術革新も含むが、経営改革やシステム改革をやろうとしても、なかなか実行に到らなかったり、実効が上がらない障害は、多くの場合、この”掟”なのだ。暗黙の社風としての”掟”なのだ。
 組織の職務分掌や社員(行動)規律および業務マニュアルやフォーマットがしっかり出来ていて、マネジメント効率が高そうに見える会社の社員ほど、このような伝統や暗黙的社風という”やり方”にドップリつかり、これを隠れ蓑にして勤めるのだ。典型的な大企業サラリーマン病だ。ビューロクラシイ症候群だ。
 業界でも、会社でも、”掟破り”はただ非難されるだけではない。村八分にされるのが常だ。公共事業の入札という仕組みの多くは、”談合”という業界ルールが暗黙の掟だ。銀行のATM手数料もその手だ。利用者から105円(100+5円)の手数料をとることに倍するように、当該ATM銀行でない相手利用先銀行からも105円取るから1件に付き都合210円(200+10円)獲っているのだ。「ATMの利用件数X210円」という莫大な手数料収入に対する設備(ATM機)投資やコスト(データ交換)など、とっくの昔に償却しているから、これは明らかに、業界の既得権益(利権)なのだ。このような既得利権と”掟”が、裏腹の関係にあるところが、日本社会の”ムラ社会”的ゆえんなのだ。
 このような”掟”を、ひとつひとつ破り、壊し、役所や企業と業界や社会の"掟破り”をする視座からしか、革新の成功を得ることは出来そうもないことを憂う。
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再び、「超同期」という言葉について

2006年09月06日 | Weblog
 昨年、私が上梓した「超同期社会のマーケティング」(同文舘出版)で、わたくしは、「情報、通信、ネットワーク」というIT革命が、”同時化(同期化:シンクロナイズ化)が加速的に進んだ反動としてのライフスタイルの非同時化現象”を見て、「超同期」(社会)という言葉を短絡的につくり使った。そのいい加減さや短絡さの反省やそこで感じたことの追及をすることが自分の責任だと思い、ふだんの生活を続けながら、考えたり、悩んだり、そしてその思考過程を整理し、論理的な組み立てをトライしたりしているが、考えれば考えるほど”アリ地獄”の様相なのだ。
 アルビン・トフラー(「富の未来」日本語訳、講談社)でさえ、同時化と非同時化の調整問題が時代的社会の課題だと言っているが、同時化を「時間の速さや変化への対応」として捉えているところに、少々の異議を感じるのだ。もともと、「時間」自身は、速いも遅いもなく、「過去から未来にかけて果てしなくつづくひとつの次元(第四番目の次元/アインシュタイン)だ」と言われ、時間は逆向きの経過や多次元性がないという特別な特性を持っているのだ。すなわち、人間が支配したり、操作したりできる空間とは、まったく異なる特性なのだ。それにも拘わらず、時間と空間を一緒にして「時空間」などと言っていてよいのだろうか。間違った考えや世の中をつくったりしないだろうか。疑問を感ずるのだ。
 にもかかわらず、ビジネスの世界は、「右(産地など)のものを左(消費)に空間移動させて」もうける部分と、先物買いや商品取引のように「時間軸の方向に移動させて」もうけようとする部分があるのだ。タクシーなど、距離メーター(空間移動)だけかと思ったら、渋滞での時間メーターも加わって”料金”がかかるのだから、どうやら人間の世界では、次元の性格の違いなどかまわず「時空間」などと一緒にした概念をつくっても、いささか問題がないのかもしれないが。
 というようなこともあり、ますます進む同時(同期)化に対するビジネスやライフスタイルの”同時(期)化と非同時(期)化の混在や調整”をこれからのテーマにしなければならないと思うのだ。非同期(時)化は、主に人々の同時(期)化社会におけるライフスタイルに見られる現象だが、”反動や反動的価値基準”としてみていると間違うような気がする。
 人々のライフスタイルや生き方から見ると、同期化することにも非同期化することにも結局、どちらの方向に、どのような価値があるのかを見出すことが問題になるのだと思われる。所詮、時間(軸)という次元自身、動かすことも細工することも出来ない(解明が遠い)次元なのだから。
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