吉澤兄一のブログ

お江戸のど真ん中、平河町から、市井のトピックスを日記風につづりたいと思います。

豊かさのお土産か、高齢化のそれか・・・高い柿木の赤い実。

2011年11月30日 | Weblog


田舎(茨城北部)の大きな渋柿に数えきれないほどの赤い実。このような庭先や家の周辺の光景が目につく。2011年11月25日の田舎の風景だ。

大きな高い柿の木だけではない。低木のそれも似たように、もぎ取ってもらえない柿の実がたわわだ。この日、わたしが60年ぶりに手伝いした干し柿づくりの柿剥きの200個は、ほんの一部だ。モッタイナイからどうしても干し柿にしたいという超高齢の母の願いに協力したのだ。何十倍の赤い柿が、あちこちになったままの風景が残る。

わたしたちが子供のころの昔は、冬の甘味といえば干し柿や干し芋とみかんだった。ただいまのように、いろいろな甘味菓子やケーキやスイーツがあったわけではない。だから、山村田舎の干し柿づくりは、晩秋初冬の風景だった。住宅の2倍以上に高い柿の木だから、もぎる人もいない。登れないし、落ちたりするリスクが高い。野鳥でさえ食べきれない赤い柿が、晩秋の風景をつくる。

甘い柿、小粒の柿、大きな柿や渋柿だけが 時代を象徴しているわけではない。山の杉やヒノキだって、だれも切り出ししない。する人がいない。建材に国産の樹木が使われない。山林が荒れ放題になる。楢やクヌギの落葉樹だって、荒れ放題だ。山に入り、炭焼きをする人がいない。秋たけなわのきのこや自然薯をとりに、山に入るヒトもいない。ヒトが入らない山は荒れる。

 自然との共存が崩れる。山や原野を手入れし、自然を保守し、自然の恵みをいただく、自然や天を畏怖し感謝し、残りや落ち葉や枝葉を自然に帰し、自然と共存する風景がなくなる。何でも加工する。加工のおいしさに慣れる。そして、自然のおいしさを忘れる。ナントも淋しいこのごろの世の中だ。

 2011年11月26日、50年ぶりの高校同窓会をしてまた、東京に戻る。
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何かが変化している兆しでしょうかー大阪維新の会の勝利。

2011年11月28日 | Weblog
 2011年11月27日(日)の大阪ダブル選挙における橋本さん維新の会の勝利は、支持不支持は別にして何かの”予兆”を思わせる。大阪ローカルや大阪人の特徴などと片付けられない気がする。維新を変化と思うのか改革と思うのか、都構想がテコなのか何かの維新がテコなのかわからないが、大阪の人々が何か”変化”を求めたことは確かのようだ。

 表層的にみると、保守と革新のように見えるが、世代間の争いにも見える。40代と60代の戦いだ。エネルギーがある分、若い世代が勝った。市長選は橋本徹さんの42歳と平松邦夫さんの63歳の戦いを、42歳が勝った。府知事選は、松井一郎さんの47歳が倉田薫さんの63歳に勝った。大阪府の有権者約720万を50代の半ばで区分すると、20~54歳までの人口は400万で55%、55歳以上の人口は320万で45%だ。世代の戦いにしては、60代が負けるのは当然のような気もする。

 変化を推進するには、エネルギーが要る。平和や現行の仕組みを穏やかに維持しようとする60代保守が、変化を希望する人々の代表40代に負けるのは自然すぎる道理だ。大阪人は、タレント性やお笑い好みだとか,好き嫌いだけで投票するとかをいうヒトもいるが、ただ瞬間的な合理性だけの投票ではなさそうだ。ただいまの政治不信が奥で既成不信になり、一言でいう閉塞感打破即ち”変化”希求になったのではないだろうか。

 それにしても、維新の会松井一郎さんの200万票は、大きい。既成政党の多くの支持を取り付けた倉田薫さんの120万票の倍近い。大阪市長の橋本徹さんの75万票もまた大変な数字だ。ほとんどの既成政党の支持を取り付けた現職平松邦夫さんの52万票を見れば、得心できよう。大阪維新の会の圧勝といえる。このままの二重行政によるムダや効率の悪さを指摘しての大阪都構想支持だけではなさそうだ。歳費や行政経費の使い方だけをどうしろと言っているのでもないだろう。”既成”を壊して維新することが、広く支持されたようだ。

 先の民主党のマニフェストでの”やらせてみよう”結果でもなさそうだ。ただいまの国政にもこのような風が来そうな、そんな感じがするこのたびの大阪ダブル選挙の結果だ。50代や30代もだが、40代層のますますの台頭と活躍を願ってやまない。
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田舎の高校卒業50周年祝賀会風景の記録

2011年11月27日 | Weblog


2011年11月24日(木)は、上野発8時のスーパー日立で茨城は勝田に向かった。日立那珂工場は、このたび竣工した日立ハイテク総研を視察するためだ。個性的で優秀な研究スタッフ集団やその組織の生産性向上をねらったというこの新しい研究所を勉強したかった。竣工開所式を明日にした真新しい建物の各フロアや食堂などのレイアウトやネライなどを谷内田孝さんに案内していただいた。オフィス設計や内装を担当したコクヨの矢田さんにも多くのご説明をいただいた。

真新しい素敵な社員食堂レストランでおいしい昼食をいただき、(株)日立ハイテクノロジー(那珂事業所)を辞した午後2時、わたしの勝手な電話で駆け付けてくれた友人・佐川勝三さんと久しぶりのオシャベリをした。日立那珂工場をすでに定年退職し、この近くのひたちなか市に悠々自適している彼は、50年前の高等学校の同級生だ。明日ご一緒する。

近くの国際交流センターでボランティアしている彼の奥さんのクルマでお送りいただき常陸太田経由で実家に着いたのは、その日の夕方薄暗くなってから。そして翌25日、久しぶりの実家・母とのオシャベリをすすめてくれたのは、約200個の渋柿の皮剥きだ。お前は昔からリンゴや柿など果物の皮剥きがうまかったなどと乗せられ、一日中干し柿づくりの皮剥きを手伝うハメになった。

26日の朝9時タクシーで着いたところは、常陸太田市市民交流センター・パルティホール。わたしたちの高等学校卒業50周年記念祝賀式典が行われる会場だ。まずは、出席参加した同級生133人の顔顔にビックリ。半数は名前と顔が一致しない。これが、50年の変容かと得心した。

式典後、御年92歳の3年5組の担任・石橋幸雄先生を囲んで、50年ぶりの同級クラス会が行われた。当時のクラス人数のちょうど半数人の参加だったが、相変わらずの級友や変わった級友など様々で楽しいひと時でした。ずっとキリン・フリーでとおした安君のクルマで、常磐道経由JR武蔵野線で帰京帰宅したのは、26日午後10時少し前だった。(了)
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わたしの秋蕎麦郷愁は、常陸秋そば。

2011年11月23日 | Weblog


大好きな蕎麦だが、不調法や不作法は人並み以上だ。夏そばをザルやモリで食べ、つづけてそうめんなどを食べたりする。冷やし中華と似たりよったりの夏の食事選びなのだ。

とは言え、夏も終わるころから晩秋にかけての蕎麦はいい。週に1回ほどの蕎麦の多くは、すわ庵(平河町店)の鴨せいろ、絶品だ。10回に1~2回ぐらいは田舎そばだが、ふだんの多くは細打ち。10回に3~4回行く近くの松月庵は、ザルやモリがいい。

偶数月に集う昔仲間が十人と少しいるのだがこの年末は、そば打ちの忘年会にしようということになった。全員古希を過ぎた仲間だからか、”そば”話題も多い。十人中3~4人、たまに”そば”を打つという者がいるのだが、10年のキャリアがあるという者が二人いる。

そのお二人の蕎麦打ちをひやかしながら、その蕎麦のご相伴にあずかろうという企てだ。場所は東京郊外・飯能は、そろそろ閉館しようかという山荘旅館だ。10何人か分の材料や器や道具の用意であげた項目は、20を超える。12月4~5日、わたしは事務所にいない。

その前ぶれというわけではないが、きょう11月23日は勤労を感謝して東京タワーに向かった。常陸秋そばのイベントが行われるというからだが、東京タワーから眺める東京スカイツリーを見たいこともあった。常陸太田市長をはじめ市役所のみなさんのご苦労には、頭が下がる。

絶品の常陸秋そばを、郷愁そそる”けんちんそば”でいただき、帰宅した。
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日本人に日本人が忘れかけていた日本人の心を再生喚起させてくれたブータン国王

2011年11月17日 | Weblog
 まだ31歳のお若いブータン国王が、結婚されたばかりの王妃を伴って来日された。昨日の皇室での歓迎晩餐会の国王の所作やスピーチは、うわさ以上の好感だ。品格とか気品とは何かを教えてくれた。ほんの最近お付き合いが始まったばかりの国の国王であるのに、ずっと以前からの古く長い交流国であるかのような感じだ。

 義のこころを真ん中にした日本人の武士道の精神が、小さな国の若い国王によって喚起されたような気がした。やさしさ(慈悲)や仁義がお身体からにじみ出ていた。ただ自立やプライドばかりが表立った最近の世界で、さわやかだった。

 最近の世の中は、自由や自立ばかりを声高に叫ぶ1%の人々のスキャンダルや弱さが目立つが、ブータンのような国や王がおられることにホッとやすらいだ。大王製紙の御曹司のスキャンダルや二世三世の国会議員やチルドレン代議士などは、自立できていないばかりか、ただ自尊心だけしかないギリシャ(人)と同じだ。

 しょせん、人間はその国やその地域で生き暮らすしかない。一人何もない孤島で生き暮らすことは出来ない。だから、働いて付加価値を生み出せる強い人々が、赤ちゃんやお年寄りなど、自分自身では食べ生きることが出来ない弱い人々を養ったり支えたりしなければ、この世の中は成り立たないのだ。元気な人は、働くことが原則なのだ。

 にもかかわらず、ギリシャは今日もデモをし、だれも労働しない。汗せず他人を頼る(国債)ことを何とも思わない。今日まで世界や欧州の周りの国の庇護をうけ、甘やかされて歴史すると、このような国や国民になるのだと教えられた。ギリシャやイタリア以上に借金の多い日本もヒトゴトではないのだ。
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晩秋の六本木ヒルズから東京ミッドタウン

2011年11月12日 | Weblog

昨日11月11日の晩秋の雨がウソのような今朝の週末だ。昨日は、夕方4時ごろよりの昔の職場同窓会。秋葉原は、インテージという会社の志高会だ。久しぶりに出た40年前の職場を同期する昔仲間の集まりは、外の冷たい雨を忘れさせた。終宴後、昔机を隣にしたT君と彼の仲間Sさんと3人で、TXつくば駅前のイタリアンカフェで二次会を楽しんだ。

その翌日の今日土曜日は、特に何する予定がなかった。あまりにも好天だったので、思いつきで都心は六本木に向かった。東京ミッドタウンはサントリー美術館で開催されている「南蛮美術の光と影・泰西王候騎馬図屏風の謎」を見るためだが、まずは六本木ヒルズの薔薇のオブジェ(イザ・ザンツケン/ハリウッド・ビューティ・プラザ)に向かった。

立冬を過ぎた晩秋の六本木ヒルズのその薔薇のオブジェが青天に映えていた。青空に高くそびえるそのバラは、六本木ヒルズをバックにしても、遠く東京タワーをバックにしても気高くそびえて見えた。オブジェの裾野に咲く秋バラが可憐に見えた。しばらく時を過ごし、けやき坂から毛利庭園に向かった。

簡単なランチとコーヒーを摂りぶらり六本木交差点から東京ミッドタウンは、サントリー美術館に向かった。はじめて西洋文化に接した16~17世紀の人々を彷彿させるような南蛮(人)屏風やその後のキリシタン弾圧時の聖画や聖碑が、歴史風情を教えてくれた。

ほんの30分ほど六本木の街を散策し、地下鉄は永田町から有楽町線で帰宅した。少々汗ばむほどの晩秋の青空がまぶしい週末は、11月12日(土)でした。

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ちょっと休んでみよう”競争”と”グローバライゼション”

2011年11月09日 | Weblog
TPP(環太平洋経済連携協定)協議に参加する・しないで、与党も国論も二分されている。TPPに参加する・しないの二者択一ではない。協議に加わるか・加わらないで、二分されているのだ。協議参加イコール参加になると思うからだ。参加国における全品目関税撤廃が、TPPだからだ。

2006年5月発効したTPPは、すでに5年の経験を経ている。この間の参加国シンガポール、ニュージーランド、ブルネイ、およびチリーの4か国の経済や国富は、どのようになったのだろうか。各国の産業は、どのように変わったのだろうか。なぜ、この4か国でスタートしたTPPに、米国、オーストラリア、ベトナムおよびマレーシアなどが参加(意向)協議をしているのだろうか。突出した経済国力の米国が参加しようとしているのは、なぜだろうか。日本につよく参加を進めているのは、なぜだろうか。

TPPとは別に、韓国(日本もだが)などが二国間の自由貿易協定を指向したり、東アジア自由貿易協定(EAFTA)を進めていることとは、どのような関係にあるのだろうか。FTA をさらに進めたEPA(経済連携協定)もあるのに、環太平洋経済連携協定(TPP)を8~10か国で締結しようとしているのは、なぜだろうか。関税撤廃や自由貿易は、本当にそれぞれの国を豊かに、幸せにするのだろうか。

まさか、EUを睨んでのTPPではないと思うが、この時期ヨーロッパ経済共同体のEU があやしい。ギリシャ一国のデフォルトやEU 脱落では済まなくなっている。イタリア、キプロス、スペインあたりが強信用不安では、EU (ユーロ)の存続すら、あやしくなってきているのだ。

競争やグローバライゼションを是とする国の枠を超えた地域(経済)協定の目的や理念が問われている。大きく広がることばかりがいいとは見えないこの頃なのだ。お互い無理してブロック化する必要はないと思う。それぞれの国を丁寧に治めることやそれぞれの二国間の相互関係をよくして行くことが、大きく効果することになると思う。
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2011年11月2日の青森訪の記

2011年11月05日 | Weblog

ほぼ一年ぶりの青森訪は、東北新幹線大宮駅10:01のはやぶさ。昨年末の青森「たすけっこの会」は、はやてだった。ジャスト3時間の本州北端の町青森市は、新青森駅がスタートの24時間だ。

新青森駅周辺域の風景のサムサは、一年前と全く変わらない。ところどころのブタクサや背高雑草も変わっていない。開発か再開発かわからないが、全然進んでいない印象だ。おそらく10年かそれ以上も前に在来線青森駅と双子しての”新しい街”を構想してつくった新幹線新青森駅だろうに、その街はサムイ。市や県や商工会やこの地域の人々は、どのように思っておられるのだろうか。

バブルがはじけた頃スタートした人口30万人ぐらいの地方中心市の開発は大体どこも、この新青森駅周辺の姿だ。進展と展望が感じられない。右肩下がりの時代に入って”再考”や”再設計”が求められる地方の街づくりなのだ。

奈良さんのクルマは、いつの間にか一年前訪問した横内(横内中学校)あたりを過ぎてブナ林に入っていた。落葉して林立するブナとところどころに混じるカラマツらしき針葉樹の林にあって、低木や蔦類が季節の紅葉を演出していた。パーッと開けた高原は、八甲田山を眺望する萱野高原だ。

かやの高原から望む八甲田山は、文字どおり八つの甲山の連峰だが、南・北・中央の3山が正面視できた。高田大岳や石倉岳などがどの山か、わたしにはわからない。新田次郎の『八甲田山死の彷徨』のイメージはわかないが、遠くの中腹に黒く立つ後藤伍長像に帝国陸軍の当時が浮かんだ。

かやの茶屋の長生きの茶(三杯茶)をいただき、ブナ林を一路黒石方面に向かった。田代平や雲谷などを通り着いたところは中野もみじ山。それは見事な紅葉でした。真紅や橙黄色の紅葉を堪能し、ほとんど来た道をもどり本日の泊宿ホテル青森に着いたのは、夕方5時少し前だ。

本日の夕食は、奈良さんの活動を熱心に支援する図司さんと一緒。わざわざセットしていただいた夕食は、ホテルから5分ほどのレストラン「コリエンテ」(海流)だ。洋風スタイルのコリエンテさんの和食は、さすが図司さんの見立てだ。ごちそうさまでした。

翌11月3日(文化の日)、奈良さんの自宅にお招きいただき、一年ぶりのロータリークラブ中島会長のご紹介で(株)食能研の前田会長にお会いした。新しい地方農業の6次産業化に熱心な方だ。昼食後、午後2時半ごろのはやてに飛び乗り、新青森をあとにした。
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