吉澤兄一のブログ

お江戸のど真ん中、平河町から、市井のトピックスを日記風につづりたいと思います。

紙上さくら祭りde 五城巡り旅

2018年03月31日 | Weblog
2018年3月28日and29日の駿河&濃尾地方は、25℃の夏日。平年より一週間以上早まった桜は、すでに満開。
①まずは、岡崎城のさくら:


②岐阜城のさくら:


③犬山城のさくら:


④有楽園の桜:


⑤名古屋城のさくら:

⑥掛川城のさくら:


以上、濃尾駿河五城の満開のさくらでした。
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さくら満開の五城巡り2日の旅日誌

2018年03月31日 | Weblog
まだ3月だというのに25℃夏日の28日と29日、シゴトを休み濃尾平野五城を巡るツアー旅。早朝7時前地下鉄成増からメトロで池袋経由丸の内線は、東京駅に午前8時大分前に着く。AM8:26発のこだま639号で10:40am JR豊橋駅に到着。豊橋よりバスで高速道を岡崎は、家康生誕の岡崎城に着く。

夏日の好天に恵まれたバスからの両サイドは、さくら、さくらの満開景色。その桜がつづく景色の岡崎城に入る。戦国時代乱世に終止符を打った天下人徳川家康生誕の城も、考えれば石高5万石程度の中規模大名の城。とても、そこから近い将来の天下取りが展望できたとは思えないが、信長、秀吉、家康の3天下人では、文字通りの天下神人。満開のさくらの語りをあとに、バスはつぎの岐阜城に向かう。

齋藤道三の居城というより信長天下取りへの礎となった岐阜城。むかしは稲葉山城と言われたらしいが、美濃岐阜平地をせん望する金華山頂に居する岐阜城は堅固だ。夕方、幾分空がうす青くなり、岐阜城の横上に色うすい満月がかかる頃、バスは犬山方面に走る。信長築城で織田家代々から秀吉が入城することになったここ犬山城は、天下人指向の3人が欲しがった堅固な山城。家康が重臣成瀬正成に託したことが解る。

名鉄犬山ホテル前の国宝茶室如庵居する有楽苑をあとにバスは、関ヶ原で勝利した家康築城の名古屋城に着く。いまは、真新しい改築で昔は知らないが、贅を尽くした名城は、本丸御殿を観るまでもない。さくら、さくらで満開の名古屋城公園できしめん昼食をいただき、バスは五城最後の掛川城に向かう。城で持つ尾張名古屋から、駿河方面に走ること2時間。

今川義元より朝比奈泰熈代々を経て智将山内一豊や松平家など、歴代の城主は多彩だが、いまの天守閣城は石落しで知られる掛川古城ではない。ここもお城を取り囲む周りは、さくらさくらの満開。ここで最後の五城巡りの旅は、城より桜々で終わったようだ。
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小さなヒメアカタテハの大きな”渡り”生活の不思議

2018年03月27日 | Weblog
われわれ人間にとっても寒さを凌ぐことは、大変大事。大きな動物でも小さな動物でも、越冬は生きる術だ。寒冷地域から温帯地域に移動し越冬する動物たちもいれば、食べものや出産などのために北方から南方地域に移動する陸や海の生きものもいる。中には捕食する天敵動物から逃げるために移動習性を身につけた生きものもいる。

3/24(土)NHKテレビ(地球ドラマチック)で知ったモロッコに生育するヒメアカタテハの”移動”習性は、驚愕だ。あの1グラム3~4cmほどの小さな成虫で、一日160kmも飛翔移動し、3月頃モロッコから地中海を越え、スペイン、フランスへ渡り、イギリスに4月5月頃渡り又モロッコに戻り渡るのだという。実に地球4万kmの北半球の半分数千kmから1万kmの渡りになる。ヒメアカタテハの(成虫)寿命は、3週間ほどだから、一匹の成虫が群れをしてモロッコからイギリスにダイレクト飛翔するわけではない。途中、スペインやフランスで繁殖生活をしたりしつつ、群れて北上するのだ。

このように大移動するチョウもあれば、フランスや日本等国内で移動するものや芋虫などの幼虫で移動せず越冬するものや、成虫で越冬する珍しいチョウもいる。それにしても、何故このような小さな体躯のヒメアカタテハが、モロッコから北へ北へと大移動するのであろうか。北へ北への方向をどのようにコントロールしているのだろうか。太陽(光)など以外何か感知できる標識があるのだろうか。何か体内に時計か外の環境などを感知できる機能があるのだろうか。

人間自身についてもまだ知らないことばかりだが、大きな動物や小さな生きものについても、まだまだ知らないことが多い。チョウだけとっても、アゲハチョウ、シジミチョウ、シロチョウなど多種あり、それぞれの特徴や特性を全部知っているわけではない。なぜ揚羽チョウといい、同じような特徴のタテハチョウを立て羽蝶なのかも、よくは知らない。まだまだ、知らない生きものや地球なのだ。
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わたしの2006年から2018年までのブログ史

2018年03月26日 | Weblog
わたしがブログを始めたのは、2006(H18)年3月5日。Windows XP を搭載したパソコン東芝Dynabook を買い求め、右手中指一本で始めた雨だれ入力のブログだ。テキストやワードすら分からず、gooブログに投稿を始めた。

最大限gooブログのテンプレートや投稿ツールを利用させていただき、この12年間に1160篇回出稿し発信してきた。挿絵がわりに掲載出稿した私のデジカメ写真画像は、1055枚になっていた。1篇回ほぼA4-1枚文字数にして600字前後の記事に努めた結果、総入力文字数はこの12年で70万から75万字にもなっている。

12年前スタートした2006年ごろのブログは、のれんや伝統およびスローフードや同期社会化など、やや自分関心的な記事が多かったように思う。ウィンドウズXPを7に買い替えた2009(H21)年前後は、情報社会や格差社会などの社会問題記事に傾斜していたが、その後のウィンドウズ10にした2015年頃以降は自分生活や四季の自然や花々などを題材にしたエッセイ風になっていた。

わたしの(goo)ブログ発信生活は、時代時代の社会や文化と自分と世の中との関わりスナップなどだが、基本は自身の生活日誌。あと何年つづくのか、明日終わるのか知らない。

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月一回、人住まぬ実家への風入れ訪の記

2018年03月24日 | Weblog
ここ1~2年、ほぼ月一回のペースでふる里を訪ねている。街近くの介護園でお世話になっている母の見舞いと、その足での実家訪が常だ。人居ぬ家になった実家では、毎回の家内の片づけや掃除に合わせて、家周りのゴミ材の片づけと草取りをする。春と秋の庭木の剪定や庭掃除は、シルバーセンターにお願いしているが、邪魔になっている大きな檜や銀杏や胡桃の樹木やそれらに連なる孟宗竹などの伐採は、森林組合さんにお願いしている。

シルバーセンターや森林組合さんの作業の進捗状況をみたり、冬明けの水道管やガス管チェックや電気ガス水道などのインフラ・チェックおよび衾やドアなどと家電器具などの補修は、出入りの指物屋さんや電機屋さんにお願いしている。人居ぬ留守宅だから、不始末にならぬよう努めている。いずれ解体するであろう朽ち古家だからこその補修メンテナンスなのだ。日程や作業依託などの手間は、妹がしてくれている。この妹夫婦との月一回ほどの汗作業付の実家訪が、やたら楽しい。

吾が実家への途中は、いま辛夷や梅の白い木花が満開。木花の下には、あちらこちらに黄花の水仙が咲いたりしている。3月22日、前日春分の日の雪混じり荒天がウソのように静かな曇天。少々遅れたひたち7号だったが、経由の水戸駅で乗り継ぐ水郡線が待っていてくれて一安心。常陸太田駅で待つ妹のクルマに乗って鯨ヶ丘経由西山荘近くの介護園に、母を見舞う。相変わらずだが元気で安堵。

夕食や翌朝の買い物をして妹夫婦と3人、実家に入る。オシャベリが尽きない夕餉や少々の片づけなどをして、翌朝は6時起床。まずはシルバーセンターさんと衾屋さん、衾貼りの押し入れドアを付け直ししているところに、水道ガスのチェックや補修をお願いしているミライフさんが来た。妹たちが、粗大ゴミなどを市の清掃センターに運んでいる間、わたしは家内の古い書類や紙ゴミの整理。あっと言う間の日時がすぎ妹のクルマで常磐線は水戸駅へ。水戸より上野を経由して3月23日を終える。
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芽吹きの春直前の3月17日

2018年03月18日 | Weblog
立春を過ぎ一ヵ月半 雨水や啓蟄も過ぎているのに、雑木林や原っぱはまだ茶色。濃い常緑樹とは対照的に、楢や椚などの落葉樹はまだ芽吹きを見せない。茶褐色の幹や枝々は吹き芽をみせない。
茶色の木々や木枝の脇で、青い空に向かって真白な花々を点描するように広げる辛夷の大樹。こぶしの花が、枯れ木や枯れ枝の芽吹きを促している。

人々の姿や暮らしに春の兆しをみるこの時期、里山の木々はまだ眠っているが、山の麓や田畑の土手などには、春を告げる草花が多い。四季という自然の変化に心を合わせる日本人だが、とくに厳しい冬の後の春を好むようだ。きょう明日がソメイヨシノの開花だというここ東京の梅も、ただいま満開。桜梅桃李の春を愛でる。

銀杏や欅など大きな木々の街路樹も多いが、比較的背の低い花ミズキや辛夷などの街路樹も多い。ただいま街路を飾っているのは、白い花をたくさんつけた辛夷。広い住宅地の外れや墓地の林などには、大木の辛夷が 青い空いっぱいに真白な花を広げる。ソメイヨシノ桜の開花すぐを知らせているようだ。

春の木花もいいが、地べたに控えめに咲く草花も可愛い。住宅地の端々のクリスマス・ローズも見ごたえがあるが、ホントに小さな青や黄色のすみれもいい。農道やサイクリング・ロード脇の蒲公英(たんぽぽ)も健気だ。上を見ても下を見ても、春色が匂う。
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水の小話ーもっと水を飲もう!

2018年03月09日 | Weblog
水(水分)は、大事。地球にとって、大地にとって、森林や生きものにとって”水”が大事。水がなければ、生命のすべてを失う。日々の暮らしも維持できない。身体を洗ったり、衣類を洗濯したり、ご飯の煮炊きもできない。衛生的な生活環境を得るために、水は欠かすことができない。

生命や日々の活力(エネルギー)を確保するために、わたくしたちは食事をし栄養を摂る。食べものを通して、たんぱく質、脂質、炭水化物(糖質)やビタミンその他の栄養(素)を摂るが、同時にわたくしたちはたくさんの水(水分)も摂っている。一日2.5リットル(ℓ)ほどの水(水分)を摂らなければならない人間(ふつうの成人)は、3食の食事からも平均1ℓほどの水を摂っているが、飲み水から1.5ℓ ほどの水(水分)を摂らなければならない。

この飲み水は、上水道やペットボトル水などのいわゆる飲料水1ℓ ほどに、牛乳やお茶やコーヒーやジュースなどの飲みもの(0.5ℓ)を加えたものだ。純然たる”水”以外に、大体一日0.5~1.0ℓ ほどの飲料商品を飲んでいるのだ。おいしく飲みやすい飲み物を何で摂るかは人それぞれだが、どのような飲み物がよく飲まれているかは時代時代の人々の嗜好や生活を語る。

一年概ね国民一人当たり200リットルほど飲まれているこれらの飲み物。その約半分ほど(約100ℓ/年)が、お茶や麦茶などの茶系飲料(計50ℓ)と牛乳(30ℓ)やコーヒーなど(25ℓ)の常飲性飲料が占めている。コーラや炭酸飲料も合わせると年一人当たり50ℓを越えるが、近年は豆乳や野菜ジュースなどの健康飲料やミネラル/ナチュラル ウォーターなどが、よく飲まれるようになっている。いつの時代でも、健康や嗜好が人々の関心のようだ。
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65年目の遺書に戻る小史

2018年03月04日 | Weblog
もうすぐ76歳になる私の見つけた65年目の父の遺書。わたくしが村の小さな小学校に入ったのは、昭和24年(1949)。男子5人女子8人の計13人が同級生の2年生と1年生が一緒の複式学級の分校だった。ズック靴も履けない貧しい暮らしの村だったが、すでに戦後の超貧困は脱していた。

わたくしが小学校4年生になった頃の昭和28年は、敗戦日本が戦力なき軍隊(保安隊ー自衛隊)を論議し、バカヤロウー解散などが国会のトピックスになっていた。前年、日本初のボクシング(フライ級)世界チャンピオン白井義男をラジオで聞いたが、この年(昭和28年)は田舎の我々には手の届かないテレビ放送が開始され、都会では街頭テレビが賑わっていた。

そして昭和30年、戦争のつづきとして傷病生活をしていた父が亡くなった。ガダルカナル(海軍)で負傷病気して帰国復員してちょうど10年後。この間が、わたくし達兄弟の父との暮らしであった。私が小学校6年生、弟3年生、妹1年生と母が残った。その父が遺した遺書は、この1年3か月前に書かれたようだ。寝床で腹這いでやっと手書きした父の想いが、紙一枚に滲んでいた。

昭和28年、29年、30(1955)年は、日本が戦後からテークオフしようとしていた時代の変換期だったようだが、小さなわたくし達兄弟は無関心だった。マリリンモンローや力道山の活躍があり、黒澤明監督の「七人の侍」や石原慎太郎の「太陽の季節」などが世の話題になっていた。トランジスタ・ラジオや三種の神器が、消費市場を賑わし始めていた。

このような時代の変化を寝床で感じていた父。子供の成長を見られず逝く無念と残念の思いと早逝する父としての不足を詫びていた。たった一枚の便箋に遺した遺書だったが、その存在も知らずに過ぎた65年を回顧した。先月27日(28日)、月一回の実家の片づけ整理中古いダンボールの隅に見つけた65年目の父の遺書に感謝している。ほぼ父の願いどおりに生きた65年を誇りに思い、安堵している。

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『かすむ空土色の丘草萌ゆる』ふる里訪

2018年03月01日 | Weblog
2018年2月27日(火)爆弾低気圧春風の前の前〃日、ふる里訪。上野10時発のひたち7号でJR水戸駅、水郡線にて常陸太田駅11:50AM 着。迎えの妹のクルマに乗り、ランチ・レストランに直行。2か月ぶりのおしゃべりランチをする。『 風さやか鯨ヶ丘や草萌ゆる』

鯨ヶ丘の市街を越え西山荘隣りあたりの介護園着。入口事務所に”本日は、全園面会謝絶”の告知版。インフルエンザが出ているので、外からの人々の出入りを禁止しているという。新年1月豪雪できょう2/ 27に繰り下げた老母との面会が流れた。2~3週間したら、インフルエンザも治まるだろうというので、次回3月は22~23日辺りに来る旨伝え介護園を辞す。

それからまた鯨ヶ丘を反対側に越え、ケーズ電気(店)に向かう。今晩は特別寒いだろうと、少々大きめの電気カーペットと暖房エアコンを補う石油ストーブを買い込み、人の居ぬ実家にクルマを走らす。妹夫婦と三人のオシャベリ夕食を済まし、入浴就寝。肩コリするほどの毛布や布団をかけて寝る。翌月の汗(?)労働に備える。

翌朝は早く6時前、ここ山村の極寒はキビシイ。寒さで不具合した水道配管修理の水道屋さん、衾貼りのFさん、シルバーセンターのKさんや近所のHさんなど多くの人のヘルプを得て、何とか”住める”家補修を済ませた。実家への落葉路や庭先の堤には、土色を点描するように蕗の薹や小さな草花などが、草萌えしていた。『蕗の薹風の様子見土分けて』
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