吉澤兄一のブログ

お江戸のど真ん中、平河町から、市井のトピックスを日記風につづりたいと思います。

とにかく投票しなければ、何も始まらない。2007年7月29日参院選。

2007年07月28日 | Weblog
 この間まで、年金問題はその仕組みや制度にあった。厚生年金、国民年金、共済年金や議員年金と、職業など所属、帰属集団や組織による違いというか、支給率や国(税金)の補填の違いなどから来る年金支給額の格差が問題の本質だった。国の体制はどうあるべきかを問う憲法、改憲問題、教育基本法や国家公務員法などの見直しや改正問題も同じ性格のそれだ。

 このような体制や国の有り様に関係する政治社会の傾向を受けての2007年7月29日の参院選だが、国民の関心やこれに訴える政党や候補者の公約やマニフェストは違う。浮いた年金や消えた年金問題、そのチェックや照合への取り組み問題、この問題への取り組みや責任および安心問題。佐田前行革相から松岡前大臣やその後の赤城農水相など閣僚の事務所費問題およびザル法といわれる政治資金規制法。久間前防衛大臣や麻生外相などの失言問題など。あまりにもレベルの低い選挙戦争点や話題だと言われもする。このようなことを論点争点にしたのは”どなた”かと言いたい。

 国民や国をリードしている政党やマスコミのこのような論争を批判しようとは思わない。国の姿や体制および国民の将来生活の基本方向問題を迂回したからといって、先にあがったような損得やチェック問題を論点にしたからといって、ガマンできない怒りや感情を素通りはできないのだ。大事に相対比較される小事だけれども、”小事”という火種が大火になることが多いのも事実だからだ。

 国家や官僚体制、年金や介護福祉制度、憲法や自衛隊や安保などの問題および北朝鮮や中国をはじめとする他国との関係問題などに視座や目線を持って来れるようただいまの怒りや不安を、小事といわず解消してほしいと思う。とにかく、明日は投票所に足を運ぼうと思うブログでした。
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権力監視がジャーナリズムの原点という朝日新聞主筆船橋洋一さんにエール!

2007年07月25日 | Weblog
 昨年(2006年)一年間の私のブログ・エッセイを単行本にしたものが、今年四月出版の「情報幼児国日本」(武田出版)だ。この本の第1章、テレビや新聞などマスコミ報道の悪影響 の「1」で、マスコミ発信の間違い情報と情報リテラシーの問題に言及した。「2」「3」「4」や「5」などは主に、アンケート調査の間違いや誤解および統計データや新聞記事などの”発表の仕方や読み方”などについて述べている。要は、間違った数字や誤認した事象を”正しく”報道することの罪の大きさと、情報発信や報道した後の読者や市民への影響まで考えることの見識を希望した。

 このような私のブログ発信から一年、今朝の朝日新聞(2007年7月25日)主筆の船橋洋一さんの「ジャーナリズム再興」に新聞人の見識と意気込みを感じた。テレビ番組や報道などの影響も考慮して取り組む必要が残るが、ジャーナリズム再興の原点に権力の監視と正確な報道をおいたところに共感した。同意だ。

 ぜひ、新聞ジャーナリズムの再興を読者や市民とのパートナーシップですすめて欲しいし、世界と日本の同時代的関連を共感のもとに伝えるということを通じて達成して行ってほしいと思っている。インターネット化社会にあって、質の高い日本の新聞の見識から、ジャーナリズムや情報(発信)の仕事に携わる者への水先案内人役を果たして行ってほしいと思う。
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中越沖柏崎地震は天災だが、柏崎刈羽原発は人災だ!

2007年07月22日 | Weblog
 柏崎刈羽原発の被災はひどい。今回の中越沖地震は、柏崎市民や住宅を中心に襲った。地震発生の16-17日(2007年7月16日)の避難所市民は、12000人。今は、半減して3分の1ぐらいに減っているとはいえ、2000人ほどはいまも帰る家がない。

 ピーク時5000世帯の断水世帯はいま半分以下になっているが、都市ガスは99%が使用不可だ。倒壊した住宅および路面の陥没や破断などに加え、崩れた土砂や住宅破砕など、その片付けや清掃が進まず、着手にも至っていない道路の復旧作業だ。ごみや悪臭などのように日常生活に不快と深刻な障害をもたらしている環境悪化もひどい。

 運や想定外などと言ってほしくないのが柏崎刈羽原発。まさか原発の真下に地震の活断層が走っていたとは考えてもいなかったなどと言って欲しくないのだ。その程度のことや地震国日本の状況を加味することぐらい”当たり前”のことだと思うのだが、今回の”こういう事態”は想定外だという。頼らなければ国のエネルギー対応が出来ないのであれば、原子力発電所の設計や建設のプロや地盤や地質環境チェックのプロ、地震学者に”プロ、専門家”としての権威を示してほしいと思う。そうでなければ、科学立国、技術立国などという看板を外してほしい。

 現在既設され、稼動している原発施設の安全性の見直しは当然だが、これからの原発や原子力施設の開発、建造、開設の基準やアセスメント項目の再検討をしてほしい。ますます難しくなる地域住民の合意ですが、丁寧で、十二分な事前研究やアセスメントを国が責任を持ってやることが賛同を得るコツだ。多数決が民主主義国家だなどと信じている人が、少数派であろうと思うのが当たり前になっている現代ですから。建造や開設前提の調査予算やアセスメントの”いままで”を改めてほしい。

 それにしても貧弱な原子力関連施設の防災体制(朝日新聞、7/21)。夜間や休日の防災、消防体制はない。災害通報回線もない、化学消防車のある施設は10原発中4社4台とは情けない。事故は起こらないものだということが、前提のようないままでのようだ。変圧器火災にあたっての消火ホースの使い方も知らずの水の出ない消火ホース収納箱があわれだ。安全についての電力会社や国の意識や考えを表象していた風景をテレビでみた。

 がんばれ柏崎のかたがた。お身体と健康に留意して復旧と復興に汗してください。お見舞いのブログでした。
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思いやり社会には、仁義礼智信の礼が大切!

2007年07月21日 | Weblog
 孔子の五常の徳を五常講という座学でやさしく説いた二宮尊徳は、日本の経営やマーケティングの祖とも言える。仁、義、礼、智、信という五常の徳に、忠、孝、悌という道徳観を加えたものが、日本の武士道(知行合一)の教えでもある。

 昨年5月(2006年5月1日)の吉澤兄一のブログでは、この五常講のうちの「義」が武士道日本人の生き方の基本にあるのではないかと紹介した。正義や義侠および義理を重んじる生き方だ。

 しかし、現在は誰がどう言おうが格差社会。とてつもなくゆたかで強い者がより強くなっていく反面、極端に貧しく弱い者は這い上がれる道さえない。社会的弱者に対する”思いやる心”(仁)や礼儀や礼節の礼、すなわち助けたり配慮してくれた人に”お礼する心”というか感謝の心の「礼」が大切に思われる昨今です。

 人が二人いる姿が”仁”という字らしいが、つねに”相手を思い”相手の立場や環境を理解して人に接することが仁なのですから、その思ってくれたこと、目にみえないことに対してお礼や感謝の気持ちを、形や姿にして表わすことが「礼」。「ありがとうございます」は、言葉や形や姿(態度)で表わすことが大切なようです。

 仁義礼智信の智や信に傾斜しがちな現代ですが、礼や仁に心する(もちろん、義もですが)ように努めたいと思うこの頃です。格差社会に生きる我々なのですから。
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大量化する”ごみ”が地球環境を破壊する。

2007年07月19日 | Weblog
 何も”ごみ”は、目に汚く見えるものばかりではない。CO2やNOXやVOCおよびフロンのように目に見えない温室効果ガスも地球を破壊している。地球温暖化は地球破壊の主役だが、その主犯が二酸化炭素。化石燃料の消費が犯人か、海面温度の上昇が犯人かはどちらでもいい、要は二酸化炭素を主とする温室効果ガスが地球やその環境を異状にしているのだ。

 クルマが主な硫黄酸化物やVOCなど光化学オキシダント、有害大気汚染物質の典型ダイオキシン、酸性雨や黄砂なども大事な大気空間を汚している。柏崎地震でまた指摘された原発の核廃棄物や先のPCBなどは地球という土壌を汚している。ゴムや鉄鋼金属スクラップや廃プラスチックなども100%資源循環しているのか分からない。地球を汚しているかも知れない。

 もちろん、一般家庭や企業や工場などから排出される”ごみ”も地球破壊の一翼を担っている。約1億トンの一般家庭の廃棄物(ごみ)とし尿に4トンの産業廃棄物およびその他の副産物や不要物(1トン)の合計6億トンが日本の年間総廃棄物だ。うち、2億トンがリサイクルやリユースおよびコンポスト(自然還元)され、うち、4億トン弱が再資源化されたり、処理、処分されている。

 このゴミ6億トンも含め、日本だけの列島の上には毎年20億トンの物質(モノ)が重積されている。エネルギーや食料のような消費分約6億トン、純物質蓄積増分8億トンと推計されている(環境省)。

 文字どおり、ごみ列島日本だし、ゴミ地球世界なのだ。文化だ文明だと”ごみ”を生産、排出し、地球(その環境)を破壊し、持続的可能性などと言っているわれら人類なのだ。
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フリーター雇用労働力依存企業の危うさ。

2007年07月16日 | Weblog
 パートやフリーターなどからも年金保険を取ろうとしたり、最低時給額を規制(微増)しようとしたりしているが、なかなか雇用労働環境の改善がままならない。年々フリーターが増加し、10年前10%ぐらいだったフリーター比率(15~34歳ベース)が、25%ぐらいになっているという。労働者4人に1人がフリーターということだ。ニート(NEET)と呼ばれる若者(約100万人)も含めると、概ね500万人が非正規雇用で働く若者や働いたりする意欲を失くしたりしている若者だという。

 アルバイト、パート、フリーターといった”時間自由”を受容しているように見える若者や労働者だが、枠組みや規制あるいはルールや約束といった組織で責任を持って働くことを避けているわけではない。不利な条件や労働環境から、極端に低い賃金を受容して働かざるを得ないパートやフリーターなのだ。このような条件や環境で働らかざるを得ないパートやフリーターを、社会保険や雇用保険も考えず使えることを経営戦略にしたサービス産業が発展した20世紀後半だが、21世紀(日本)に入りどうも様相が違ってきたようだ。

 経営合理化やコスト削減を優先させ、利益や株主優先をかかげ、市場資金を誘導しベンチャーや時代性を得て出てきた企業が、いま”壁”に突き当たっている。ファーストフードやコンビニ(CVS)、古本の買い上げ販売やビデオ・CDなどのレンタルショップ、一見資格保護されているような介護やケアホームおよび3Kの筆頭、廃棄物の回収や清掃作業などを請け負う企業など、20世紀成長発展した典型的なサービス産業が21世紀に入り苦戦している。これらのサービス産業各社は人材派遣会社からの者も含めパートやフリーター雇用に依存している企業なのだ。

 産業や企業が、理念や社会貢献を忘れ、ひたすら収益や成長発展の追及に走り、固定経費低減や人件費削減を最優先するようになると、経営が危うくなるのだ。介護や人材派遣のグッドウィル、マックやロッテリアのようなファーストフード、物販の減少を手数料収入でカバーしなければならなくなったコンビニなど、時代の風を読み違えていたようだ。ブックオフやレンタルショップも、ITやコンテンツ産業なども同じだ。企業側の予想を越えて変わる人々や社会の価値基準の変化を読むことが求められている時代が”いま”のような気がする。
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高齢化国土対策?

2007年07月13日 | Weblog
 国や社会の高齢化は、人口ばかりではない。広くは地球自体の高齢化問題が大きいが、日本の国土の高齢化問題は緊急の課題だ。国土そのものの高齢化もあるが、人々の暮らしやすさ基盤というか国土生活基盤(インフラ)の高齢化問題こそ、いま緊急の課題なのだ。

 人々が居住する住宅やビル、首都高をはじめとする疲弊した基幹道路、日々の暮らしのインフラ・上下水道、都市ガス配管網、まだ地下化出来ていない古い電柱や配線網、車道歩道界のガードレールや自転車道化した歩道、誰も利用しないがいまにも朽ちそうな横断高架橋、地震や台風がなくても崩れそうな橋梁など。

 1960年代から1970年代の高度経済成長期こそ、国土や社会をそれらしくする生活社会インフラ(公共基盤施設)の整備投資敷設が最も進んだ時期。年間150~200万戸の住宅建設(うち、70万個持ち家)や都市ガス普及率が60%を越え80%に急伸した1970年代(昭和50年前後)、延長距離が2500kmから5000kmに倍増した1980年代の高速道路建設や舗装道路率が40%から70%にもなった1980年代(昭和60年前後)と公共社会基盤施設の建造のピークは約30年前だから、その前の建造を含めると生活社会インフラの約50%ほどは、半世紀を経過していると言える。

 人生50年が75年ぐらいになっているとは言え、人々の生活社会インフラも”かなり老化している”のは事実だ。人々が利用したり走ったりしている時に、高速道路や橋げたが崩落したり、上下水道やガス管が破裂したりしたら大人災だ。本当の列島改造はいま時機なのだが、政権や政府筋の方々、どのようにお考えだろうか。今度のマニフェストには、どのように記述されているのだろうか。
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ビールの季節!

2007年07月12日 | Weblog
 清涼飲料やビールは夏場がシーズンだ。エアコンが普及し季節感が後退しているとはいえ、やはり汗かいだ後の一杯の旨さは格別だ。蒸し熱い暑さだろうが、カンカン照りの灼熱の暑さだろうが、暑さを吹き飛ばすにはやはりビールだ。

 梅雨、初夏の蒸し暑いアフターファイブは、ずばり屋上ビア・ガーデンと思っていた頃が遠い昔に思える。いまは、専ら屋根のあるレストランなどでビールするアフターファイブだ。ジョッキでと思っても、いつもグラスだし、ワインがわりだ。食事にはワインだろうと思っても、不器用な私は習慣的にビールだ。

 会社や仕事の終わりが待ち遠しいように屋上ビア・ガーデンに走る若者を見なくなった。大きな声で騒いだり、校歌を歌ったりしながら大きなジョッキを翳す学生も見なくなった。居酒屋で、チューハイや焼酎の水割りを飲んでいる若者は多い。ライフスタイルか好みが変わったのだろうか。それとも、屋上ビア・ガーデンが減ったからだろうか。超高層ビルが手ごろな”屋上”を奪ったためであろうか。

 そういう自分の晩酌ビール、いつの間にか壜から缶になっている。一本のビールが晩酌で、”もう少し”はビール以外だから結局、ビールの飲量がビン一本からカン一本に減っている。一本のビールのあとは焼酎、それも入手が難しい”芋”だ。ワインや日本酒にはならない。ヘネシーやバレンタインも、ジャックダニエルなどもここ10年、開封していない。好みの変化でも、ライフスタイルの変化でもない。何も見えない価値基準の変化なのかもしれないが、その基準を自覚できない。

 リターナブルの壜や缶のリサイクル性などを考えれば、ビールはありがたい奴だが、そういうロハス的なライフスタイルでビールを選好しているのでもない。好きなのだ。とくに、蒸し暑い日本の夏はやはりビールだ。生だ。

 ビールの季節だなどと思っていたら、世の中”ビール離れ?”などと、この上半期のビールの出荷量が過去最低(92年以後)というデータに添えた新聞の声だ。ホント?、何故? 発泡酒や第3のビールから第4のビールなどとTV-CMや店頭を賑わしているビールだが、人口減少や飲用箇所や飲用シーンの減少はいかんともしようがないようだ。でも、日本の人口は世界65億人のうちの1億人(1/65)。まだ届かない64億人の市場があると聞いてその大きさに武者震いしたい。
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会社は、誰のものか?

2007年07月09日 | Weblog
 会社は誰のものかというと、わかり切っているようで分からない。昔なら、当然会社の創業者や資金を出して経営しているオーナーのものと言って取り合わなかったろう。当たり前のことを聞くなということだ。非上場会社や中小企業など株式や社債で市中から資金を得ていないからだが、上場大企業でも創業家やのれんの所有者をもって、あるいは50%以上もの株式を持っている者をもって”その人の会社”だと思われている。資本家や株主こそ会社の所有者だということと同じ類だ。

 一方、会社の資源は人、物、金だといわれているように、企業利益の源泉をもって”会社の所有者”と言う人もいる。実はこの企業利益の源泉は何かということほど難しいテーマはない。ヒトすなわち従業員の労働力こそ利益の源泉だという人もいれば、その会社の製品(商品、サービス)やブランド(意匠)またはその質をもってそういう人もいる。いや、その会社の技術力や生産力または製造コストあたりだと言う人もいる。一番はやはり資本、設備などへの投資力であり、結局株式すなわち株主だと言う人も多い。

 資本主義経済社会だし、資本の論理すなわち株主主権が当たり前なのだから、最近のM&A傾向は是認されて当たり前だという。企業も社会性を持つ法人なのだから社会や消費者市民のものだとか従業員(社員)のものだという考えを排除しようとする人もいる。設備や技術や組織などをもたらすのは結局お金すなわち資本だということでM&Aをしたり、経営を独裁しても、結局社員や従業員がそのM&Aや経営者を受け入れられなければ、働く人(社員)がいなくなる(退社)ということを考えれば、誰が会社の存立にかかわる主導権をもっているかがわかろう。

 人や社会の価値基準の変化は、このような”会社は誰のものか”というような考えにあらわれます。お金(資本、株主)価値を越えたところにある社会性(社会定着、存在)価値こそ企業の存在価値だという変化がみえる。汗と知で働く社員というヒトこそ会社の資産なのだ。非か正かなど論外、正社員を雇用してこそ会社なのだ。
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優しさ(含、易しさ)を設計する時代社会

2007年07月07日 | Weblog
 ユニバーサル・デザインという言葉や概念がある。「一般的な、万人の、万物の」という意味のユニバーサル(Universal)ですが、”万人に共通する”という意味や”宇宙の、普遍の”というような意味と理解されていると思います。

 「万人に共通する」ということは、”誰にも使える”ということですが、”誰が使っても使える”という「やさしさ」や誰(万人)に対してもやさしいということと万物や宇宙すなわち自然(環境)や地球に対してもやさしいということをあわせた意味がユニバーサルのようです。Gentle(やさしい)という言葉より広い概念だと思われます。

 ユニバーサル・デザインもユニバーサル・マーケティングの大きな要素ですが、デザインを”モノづくりやカタチづくり”に限らず広く”ビジネス・デザイン”として捉えれば「すべての対象や環境にやさしい」マーケティングを構築することが求められているとわかります。

 70歳以上のお年寄り3000万人時代目前。技術革新や工業立国および高度経済成長を達成した20世紀の日本や世界でしたが、同時に戦争や民族間の抗争あるいは医薬による副作用などに見舞われたり、近代工場や人工的な食品などが”ハンディキャップのある人々”を生んだりしました。成長や発展という時代を共有してきた人類が、いわゆる負の遺産といわれるものを共有することになったのです。

 いま、人類は単に、ここ何十年や何世紀かへの反省だけではなく、この間人類がつくり続けてきた負の遺産や心ならずものハンディキャップを負った人々や弱い人々に対して、長寿社会における高齢者に対することと同時に、どのようなユニバーサルや”やさしさ”を設計し推進するかが求められていると思います。

 速さやハイテクおよび省力や利便性を求めてやまない社会や人々も経済産業界と一緒になって「誰もが暮らしやすい、やさしい地球社会」づくりに、英知を向けることが大切だと思う。緊急で最も重要な課題といっても言い過ぎではないと思います。
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