吉澤兄一のブログ

お江戸のど真ん中、平河町から、市井のトピックスを日記風につづりたいと思います。

類は友を呼ぶネットワーク社会の行方。

2006年11月28日 | Weblog
 ついこの間も「ネットワーク社会」について書いた。世界中の人々が平等(?)に情報を共有し、交流でき、理解し合える世の中になることに、若干の不安を抱きながらも、平和でゆたかな暮らしの広がりを展望し、ネットワーク社会化に”希望”を持った書き方をした。ライブドアやMiXiなどを見ながら、SNSの拡充発展を契機に、ゆたかで暮らしやすい情報社会が来るかのような見方を示した。いま、そのことを悔いている。
 アルビントフラーが「富の未来」で、来るべき富の体制は、結局「知」の体制であると述べていた。考える知、創造する知、人々が皆で仲良く暮らす社会を考え出す知、一人ひとりが人間としての生き方を考える知、自分の帰属集団やコミュニティがゆたかで暮らしやすくなるよう考える知、世界の人々が民族や宗教の壁を越え仲良く暮らせるような地球社会づくりを創造する知など。情報や知識を創造型の知にすることが、IT社会や情報社会が人類社会に貢献していける要だと思っていたが、日々裏切られていく。
 ますますはびこる出会い系サイトや”お仲間”ネットワークおよびただひたすら自己顕示するだけのブログや商用的利用を待つブログ。コンテンツ社会といって、目次的抄録的情報および音楽やアニメなどを垂れ流すサイトなど、どれを見ても、人々の浅く広く”知った気になる”情報を流しているに過ぎないものだ。そういう自分も、テレビをみながら新聞を斜めに読み、全部”知った”ふりで暮らし、通勤の電車のなかの中吊り広告をみて、ほとんどの週刊誌を読んだ気になり、そして”知ったふり”のブログを書いたりするのだ。浅く、薄っぺらな理解で”知ったふり”をして過ごす情報社会をリードしているようで、夢見がわるい。情報化やネットワーク社会化が進めば進むほど、情報のクォリティ(精度や品質)レベルが低落し、かつ、情報や知識に触れる人々や市民の知的レベルまで、押し下げていくであろうという”夢見”なのだ。
 自分のブログを読んでくれる人や自分の周りに集まってくれる人たちに、”類は友を呼ぶ”の悪さをしているようで、恥じる。ブログやSNSだけではない。知識社会や知の体制社会への移行が、現在のバーチャル・リアリティ(社会)の延長的成長で進展することが、将来の望ましい人類社会の姿づくりをいかに間違わせてしまうかと心配している。
 政党や政治家の堕落、官僚や地方首長のスキャンダル、社会保険や医療や教育界の体たらく。これらのほとんどが、戦後や高度成長期からの金権偏重、既得利権的学歴偏重化に向かわせた「教育」体制の間違いや失政にあることは明らかだ。本当のことや、真実や真理およびより深く”考える”ことに汗することを避け、知識として浅く”知っている、知らない”尺度を社会化し、判断し、何かに向かって進む世の中にしてしまった病の根本は、教育と政治にあると思うのです。
 薄っぺらで浅く、しかも急速に進行しているネットワーク社会化をみるに、教育再生会議などと言ってノンビリした会議をやっていていいのかな、などと思う昨今なのです。
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手帳レスの(ビジネス)ライフスタイルの私。

2006年11月25日 | Weblog
 もう、来年の「手帳」を考える時期だ。12月1日は、手帳の日だという。実際には、10月頃より店頭を賑わす来年の手帳だが、12月に入ると”買っておかなければ”とあせる。限られた時間を、より価値あるものにしてくれる手帳。時間を大切に管理してくれる手帳。ビジネスマンや勤め人には、欠かすことが出来ない手帳なのだが、自分はどうも手帳を粗末にしてきたようだ。
 この3~4年、私は折角買った手帳をほとんど使っていない。毎年、自分なりの”こだわり”で買っていた手帳なのに、使っていない。1ページも使わず、また来年の手帳を買っていたのだ。”もったいない”こと、しきりだ。思い切って、今年は”買わない”ことにした。
 スケジュールの管理、人との約束、ちょっと記憶にとどめたいメモや記事、書店で気になった本、道を歩いていて気づいたことなど、すべて「ケイタイ」にメモる。予定や約束に遅れたことがなくなったこの3~4年なのも、ケイタイのせいかもしれない。メモが写真で撮れるのもいいし、場所や路線などを教えてくれるのも便利だ。ケイタイのメモに入り切らないビジネスでの打ち合わせや企画要項などは、「手帳」時代と同じく、カバンの中の「ノート」がやってくれる。
 毎年いただく手帳がいろいろあるのに、自分流の”こだわり”タイプの手帳を買っていた頃がなつかしい。"お財布ケイタイ”などなかなか馴染めない私だが、本当に便利なヤツ「ケイタイ」には、感謝、感謝です。
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やたら"力”(りょく)をつけることを止めましょう!

2006年11月22日 | Weblog
 安倍総理が官房長官だった終わりのころ「再チャレンジ推進会議」が、社会人基礎力12項目をまとめたからではないが、最近やたら「何々力」という言葉が目につく。社会人基礎力も例外ではないが、これを構成する内容の12項目も、働きかけ力、実行力、課題発見力、計画力、創造力、発信力、傾聴力、情報把握力やストレスコントロール力と12項目中「力」のつく言葉(項目)が9つもある。あとの3つは、主体性、柔軟性、規律性だ。いっそ、全部「力」(りょく)のつく言葉にしたほうが、インパクト(迫力)があったかもしれない。
 もともと、力(ちから)は、人間や動物の体内に備わっている自分自身や他の何かを動かすもと(源)になるもので「エネルギー」と呼ばれた。体力、馬力、重力、引力あるいは暴力や腕力など、学力や気力なども含め、能力やエネルギーを言ったようだ。エネルギーのような絶対値的な「力」が、だんだん心理的、相対的なもの(程度)を示すようになったのは、人類や社会の進歩なのでしょうか。
 行動力、実行力、企画力、創造力などと言っているうちに、カラダだけではなく、アタマの働き具合なども「力」をつけて呼ぶようになり、読解力、分析力、想像力、知識力など知力にかかわる「力」が多くなってきたことが文明や進歩なのかと思うばかりです。
 片付け力や整理力があるかと思えば、家事力や主婦力などとくる。人間力ということをよく聞く世の中ですが、主婦力には恐れ入った。そのうち、舅力や姑力などという言葉が使われるかもしれない。何かを観る力を鑑識力などというようだが、眼力が変形したのか目力(めじから)や鼻力(ニオイを嗅ぐ力)などというのもあっては、何でも名詞や形容詞に「力」(りょく)をつけてみたくなる。自然力や空間力などや職場力や売場力および接点力などと言えば、何でも「力」(りょく)をつければ、新しい感覚や新しい視点に立ったように思えるから不思議だ。
 あまりにも何にでも「力」(りょく)をつける世の中になったのは、何でもハカリやモノサシで測らなければ"自分”さえ解らなくなった証左ではないのか。何にでも「力」をつけ、何々力と言って結局、”あいまい”性を高めているような気がする。やたら、力を入れすぎると、いわゆる”力み”がでて、出せる力も出せなくなるということです。
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いざなぎ景気越える「平成景気」に”実感”がともなわないのは、何故か。

2006年11月19日 | Weblog
 政府は、引き続く景気回復"基調”を主張しつつも、ややその回復や成長を”緩やかに”というような形容で、大衆や一般消費世帯の家計に根ざす「実感」にすり合わせしている。日銀や政府、総務省がとらえている企業部門の景気経済は、確かに”好決算”を反映いるが、これが消費者の家計を映しているかといえば、大きく乖離している。
 いままで、米国を中心に数カ国に輸出拡大していた日本の自動車も、いまや中国や東南アジアをはじめ世界中の国々を輸出先にして拡大している。デジタルカメラやデジタル機器および家庭電気製品なども同じだ。これらの輸出と情報、デジタル化に支えられた一部の国内市場経済に支えられた”景気回復”なのだ。
 年々新しいモデルを発売するケイタイやパソコンおよびデジタル情報通信機器と働きと収入を高めた女性たちのオシャレやファッションなど、家計に見えない部門(市場)が景気や経済を支える日本だが、これらの部門経済も実質消費(支出)レベルは、需要(数、金額)増を上回るほどの競争的価格下落がつづいている。ケイタイ(含、固定)電話の平均支出通信料金は、年々下降傾向にあり、ファッションや衣料品の低価格化も激しい。一部の超富裕層ターゲットのプレミアム商品の販売は、業界紙やテレビ・マスコミのトピックスになっているだけだ。
 都心回帰だ、第何次のマンションブームだと言われ、東京を中心とする首都圏の路線土地価格が、回復、上昇傾向だというが、少し首都圏を離れ地方都市のそれを見れば、全国的には決して回復しているなどとは言えない。銀座通りの壮観に並ぶブランド・ビルやウォーター・フロントの超高層マンションを見て”象のオシリをなでる”の図になってはいけない。
 調査品目の入れ替え後の消費者物価指数でさえ、”回復している”数字にはなっていない。土地と並ぶ資産の代表の株、その株価でさえ、”少々上がってはまた下がる”動勢で、上昇を展望することはできない。加えて、実質所得や平均賃金も上昇を示していないのだから、景気経済は依然”デフレ基調”にあると言っても間違いではない。国民大衆消費者が、景気回復や経済成長を”実感”できる水準を、どのような方策や日程で獲得するのか、展望を示すことが大切な時期だといえる。
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腐敗列島というより不正犯罪公職者列島のいまの日本。

2006年11月18日 | Weblog
 政治家は、つねにキレイにして国家国民の幸せな行方を考え、公務員は国家や地域の人々の安らかな生活づくりに奉職する公僕というか公職だと思っていた。社会保険庁や厚生労働省の”年金”の莫大なムダ使いが、ハコもの行政法人づくりに端を発した役人天国(国民地獄)のサンプルだと、憤りを強めたのはつい2~3年前のことだ。
 小泉前総理の改革・改革が、道路公団や郵政公社の解体、民営化を起爆にして、社会基盤を担う大きな法人(公社、公団)の民営化を通じ、利権(特権)感覚が招く浪費や汚職を一掃してくれるかもしれないと信じた。そして、裏切られた。
 岐阜県、福島県、和歌山県の警察に逮捕された知事さん方が初当選したのは、すべてそれまでの(前)知事の腐敗汚職を断つことが期待されたからだ。その彼らにして今回の公共事業入札や業者との癒着や贈収賄汚職だ。宮崎県もだ。みなさん、自治省官僚出身のエリート官僚から転出した知事だ。県知事をはじめ地方自治体の首長は、自治省官僚の”天下り”先ではないのだが、これらの方々や自治省のお役人たちは、半ば”そのような”感覚で官僚生活を過ごしてきたのだ。そして、当選すると周りの仲間や権力に群がる癒着業者に護られて再選し、多選し、さらに権力を集中させ、横暴し、緊張を欠き、堕落していくのだ。
 それにしても、呆れて義憤を禁じえない厚生労働省の役人、官僚どもだ。以前の厚生省と労働省、国民や勤労者の月々”源泉”された年金や税金および雇用保険料をムダに使用して、というより不正、犯罪的使用をし、役所あげて組織的に”犯罪”しているというのに、誰も責任を取る者がいない。公職や奉仕職をまで意識しろなどとは言わないが、せめて”犯罪”的な税金や年金の搾取だけはやめなさい。緊張感を欠き、堕落したあなた方を総取替えしたい気分と憤りを静めてください。
 不正腐敗を越えて、汚職犯罪化した公務員や官僚の時間を浪費する霞ヶ関のビル群も異様だが、都道府県の県庁所在市にある最も高層なビル「県庁」(舎)もまた、その中にいる人々を思うと異様だ。大きな建物や超高層ビルが、人間をして、こうも傲慢で、堕落にさせるものかと思うからでしょうか。
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ソーシャル・トレンド潮流のビッグ・バン

2006年11月16日 | Weblog
 世界が、日本が、世の中の人々が、大変革の潮流の渦にいる。人々や社会の価値基準が、大きく変化している。金融界で”ビッグ・バン”(Big Bang)が大騒ぎされた以上の社会的価値観(基準)の変化ビッグ・バンだ。トレンド(傾向)や変化(Change)というと、段差のない直線や曲線的なものをイメージさせるが、破壊的創生的ビッグ・バンという変革は、不連続。「不連続の時代」(ソニー出井社長?)と言われて久しいが、前と後に”つながり”や”継続”がない大きな変化の時代こそ、いまだと言えそうです。
 昨日は、”個から公”に教育基準をシフトさせるといって、教育基本法の改正が衆議院の委員会で可決された。「国→社→公」は、義務教育の小学校や中学校の教科(国語、社会、公民)ではないが、国の富や教育、文化水準の向上を目指した戦後から、所得倍増や列島改造と言って社会経済の発展から高度成長を目指し、自由(市場原理)競争と個人(尊重)主義をテコに高度な発展をし、極大社会というか限界社会に直面し、いまその壁の突破や解決策を模索している。レッド(オーシャンや熱血競争)からブルー(オーシャンややさしい共生)だ、競争より公平だ、と言って、経済や企業のマーケティング視座の変更を提言し、動機になる(容認される)格差と解消されなければならない(不公平になる)格差を、議論するようになっている。
 民主主義という多数の合意や皆で同じ(水準)目標に協力し合う時代から、自由主義(自由市場原理)という個人尊重や個人力の引き出しとしての競争による成長戦略時代を経て、ただいま、その結果としての格差や不公平の解決問題に遭遇している。自然との共生、外国との共生、地方や弱者との共生、資源維持との共生など、愛国心やナショナリズムを越える価値基準がクローズアップされる中、”個から公”へという座標軸の変化で総括できるのでしょうか。
 イデオロギーも宗教も、社会主義も自由主義も、一国(ナショナリズム)主義も地球(グローバリズム)主義も、単に議論軸を出しているだけにみえる。ことの前も後も”わからない”ビッグ・バン的変化(変革)を考慮して暮らさなければならない現代人が、最低限求めているものは、人類と地球(自然)とが持続して共生できる「知」のようです。
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一億総懺悔や社会環境の変化に帰するは、体制トップの腐敗。

2006年11月14日 | Weblog
 少子高齢化問題の課題化もはっきりしない中、子供やお年寄りなど社会的弱者がいじめられている。”いじめ”を苦に自殺する者、いじめを隠した責任から自殺する校長、未履修などおぼろげに知っていても”知らない”ことのほうがいいという教育委員会や管理者、”なれあい”ながらこれを秘匿する学校(校長)と教育委員会、そして文教に携わる文科省。この何年、各都道府県から文科省に報告された「いじめ自殺」は ゼロの連続だという。私が校長をしている学校に”いじめ”などあるはずもないし、履修や学校運営の”ウソ”の報告など出すはずがないという全国の校長と、これを”そうでしょう”と受領してきた教育委員会。
 教養や見識のあるこの”大人たち”をみて育ってきた少年や若者たちは「大人のズルや勝手」を自分たちの”ワル”の言い訳にする。現場の混乱や崩壊を知っている教育関係者や大人たちは、無難に公務員を勤め上げるために、「ワルイ」のは近年のデジタル・ゲームやアニメやWeb サイトなど、子供たちを取り巻く社会環境だという。あげくの果ては、根本は”教育基本法”にあるなどといい、政府や文部科学省の人たちは、教育基本法の改正を急ぐべきだと、審議すら”もう十分した”という。「やらせ」(タウンミーティング)や「ウソ」(いじめや履修)を受容してタテマエ社会化に安住しようとする文科省や官僚たちを、何の利害関係があるのか”見過ごす”政府や政治家たち。教育や教師のレベルの低下は、本当なのか。昔の先生は、そんなに今よりも優れていたのか。半世紀以上も同じ教育基本法の基でやられてきた文教行政をリードしてきた文科省が、どこかでカジ取りを間違ったのか、わたしにはわからない。
 教師や学校の質がここに来て急にレベルダウンしたとも思えないが、動機や責任意識やテクニックが低下してきたのは、文科省の指導要領やリーダーシップが弱くなったからで”復権”しなければとあせっているような文部科学省。さんざん、自治体や教育委員会を介して”好きに”やってきた文科省や政府は、教育委員会不要論や改名論に”耳”を貸している。
 このような指導層や大人たちの混乱や混迷をみて、ワルがきどもは、今日も”いじめ”をつづけている。むかしも”あった”などとテレビの評論家が言えば、彼らの意気(?)はますます上がり、デジタルゲームやWeb サイトのバーチャル・リアリティの世界を現実の世界に持ち込んで、一緒にしている。
 情報化社会やITデジタル社会の社会的革新面を、効率や合理性にのみ置き、ムダや人間的な失敗を取り入れず、授業時間さえ”短縮”化し、”ゆとり”教育や人間性教育だと言ってきた。少々”欠ける”部分があるなと思えば、道徳や倫理社会時間を入れれば済むと思う。依然、学歴社会の世の中だから、親も子供も、そして先生も受験科目に集中して、試験の(正)回答率が高いほど”優秀だ””いい学校だ”と思う。
 「なるべくしてなる」世の中や社会傾向を断ち切るには、体制の変革をおいてしかないのだが、こういえば”だから教育基本法の改正だ”という。半世紀もこの同じ教育基本法で”昔もイジメはあった”が、現在のように社会化しなかった姿を取り戻そうと考えたから「教育再生」ではないのか。教育再生会議も出発は、教育基本法の改正だという。”愛国心”をどう入れようかなどに腐心し、教養や人間性や人(品)格形成や皆で共同して暮らすいい社会づくり教育など”どこ吹く風”なら即刻止めて欲しい。ここは、政治家とマスコミの諸君の見識向上に期待するばかりだ。
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トップは、まず"品位”を高めて!

2006年11月12日 | Weblog
 企業にも品格がある。藤原正彦さんの「国家の品格」(新潮社)を読んですぐ書いたのは、もう半年以上も前だ。品格どころか、スキャンダルや腐敗に事欠かない企業や行政関係の最近ですが、品位や品格など”徳”を重んずる日本(人)の心は、どこへ行ってしまったのだろうか。品格と言うより”品位”に目線を置く自分ですが、気品や気高さに近いイメージを強く感ずるということで私は、品位と言う言葉が好きだ。
 1に政治家、2に地方自治体の首長(県知事)、3に医者。稚拙なわたくしが、勝手に思い込む”品位を感じない”人たちのイメージ順位だ。一度当選して赤絨毯を踏んだら最後、何の勉強もせず、大衆の言葉に耳を貸さず、国会の会議中は居眠りに過ぎ、フトコロや身体だけを太らせている姿に、品位の欠片も感じられないのは、私だけだろうか。岐阜県、福島県、和歌山県だけではない多くの官僚上がりの県知事やこの人たちをサポートする自治省出身の助役さんや収入役さんたちも同類にみえる。
 企業や企業の経営者も同じだ。多くの日銀出身者や財務省出身者がトップの銀行をはじめ、官僚出身者がトップの航空や電気ガス道路などのインフラ産業の会社の品位の下落も目に余る。コンプライアンスやCSRなどという言葉も知らなかったであろう松下幸之助翁や町工場から創業し現在のソニーを築き上げた井深さんや盛田さんなどの”あの何とも言えない品位”を感じさせる企業のトップはいま、探しても見あたらない。
 先の高速道路(公団)改革時でもそうだが、政府系のいろいろな審議会のメンバーに出てくる経財界のトップをはじめ、今回の教育再生会議などの委員になった方々をみても、"品位”などのイメージは感じられない。世の中に幾分でも役に立とうとする謙虚さなども伝わって来ない。藤原正彦さんの品格や、新渡戸稲造さんの美学などを日本人の美徳だと思い込んでいたのだが、そのような気配さえも感じさせない国のリーダーたちに落胆するのは私だけだろうか。テレビやマスコミおよびインターネットなどがこんなにも普及したから余計”人のアラ探し”的になってしまったのでしょうか。残念です。お許しください。
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ネットワーク社会をみる。

2006年11月11日 | Weblog
 いまや約8000万人近い人々が、インターネットを利用している。赤ん坊から100歳を越えるお年寄りまで含めた総人口12700万人の60%強になる。近い将来、小学生から70代の高齢者(ただいま、50代60代)までのほとんどがケイタイ電話でメール通信やインターネット接続をしたり、家庭ではパソコンを利用し、インターネットやメール通信をしているようになるでしょう。
 しかも、みなブロードバンド接続で、ワールドワイドウエブ(WWW)ですから、世界中、どこの国の誰とでも、ネットワークし、コミュニケーションし交流することができます。バーチャルかリアリティかなどの議論をしたりしていることが、時代遅れなのかもしれません。進歩や文化とは、そういうものかと思うばかりです。
 このような時代社会背景をみると、ネットワーキングは新しいコミュニティ、地域コミュニティに変わるというより、もうひとつのコミュニティ社会が誕生するような、そのような交流社会なのかも知れません。ネットワーキングというと、いわゆるSNS(Social Networking Service )を想起するでしょうが、もっともっと地域や国民の交流帰属集団のありかたまで考えたネットワーク サービスやシステムが生まれるでしょう。
 出会い系SNSや幸福(不幸)の手紙や売り物ばかりを並べたWebサイトなどをSNS(Social Networking Service) が、後退し、よりコミュニティ交流がライフスタイル化するようなネットワーク社会ができるでしょう。企業各社もこのネットワーク社会を市場と考えた新しいマーケティングを考えるでしょう。
 ウソと匿名性およびホンネ(真実)とプライバシー(保護)の間にあって、企業がいかに消費者や需要家のホンネや真実に接近できるかは、その企業の成長や存続そのものをも左右するようになるでしょう。SNSを始めとするネットワークをキツネとタヌキの交流遊びやバーチャルやエンタメだと見過ごしていると、時代は企業やお役所の先へ先へと進んでしまうでしょう。
 MiXi(ミクシィ)が上場して注目されたSNSですが、もっともっとネットワーク社会が進行するでしょうし、暮らしを楽しく豊かにするネットワーク社会になっていくことを希望する次第です。
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平成維新と言われるぐらいの体制変革を考えてください。

2006年11月07日 | Weblog
 日本の人口でさえ、この100年間で約3倍に増えた。20世紀初め(明治33年)の頃、4400万人位だった人口が、この半世紀後(1950年/S25年)には8300万人に倍増。その半世紀後の2000年(H12年)の日本の総人口は1.5倍の12700万人になった。このあたりをピークに、日本の人口は増加から”減少”傾向に変わるのだが、世界的には人口は、まだまだ増加傾向にある。
 ある面で、人口の増加は生産力の増加であり、富の源である。1人より2人、2人より3人と”力を合わせた”方が、大きなことも、知的なことも出来るのが”ふつう”なのだ。人口(数)の増加と経済的ゆたかさの向上を果たしてきた日本が、人口減少過程の入口にあたり、格差問題でてんやわんや。生活レベルや収入・所得だけでなく、教育や情報文化および福利厚生や医療などまで、格差・格差なのだ。最も大きな格差の起因は、アルビン・トフラー(富の未来)も指摘している一般には教育や知識といわれている「知」のそれなのだ。
 50年前、人口構成で約50%あった第一次産業(就業)人口の割合は、2000年(H12年)わずか5%。農業人口も50年前の40%が、いま(2000年)は約4%に激減している。半世紀前約10%(男女平均)だった大学(含、短大、専修)進学率が、2000(H12)年には、49%になっている。この大学進学率は、都会と地方であまり差がないのです。農山漁村の地方の子供たちの多くが、首都圏はじめ都会にある大学を目指して進学し、その多くがそのまま”都会”(中央)に就職するのだ。首都圏や都会で優秀にして大学を出た者が、地方に就職したり、移り住んだりすることはないから、都会や中央への人口集中以上に”頭脳”や”知の源”が中央に集中するのだ。ますます、中央は高くなり地方が低くなるのだから、「知」の都会と地方の格差は拡大することになる。知の格差こそが、すべての”格差”の源なのだから、先日「柏崎通信」の梶谷さんが言っておられた”負のスパイラル”格差になるのです。
 小泉前首相の”地方”に対する三位一体改革が、多分なかなか受容されないのは、人々がなんとなく「それが、問題の本質に迫っていない」と感じているからではないでしょうか。地方の高等学校が予備校化し、塾や予備校が地方にまで進出し、地方の子供たちが都会の子供たちに劣らないほど学力(?)を身につけ、大学に進学し、よく学習し、「知」の源になるべく卒業しても、彼らは地方には戻って来ないのだ。このどうしようもない”負のスパイラル”を脱却する方法は、体制の変革、すなわち平成維新を実現化することしかないと思うのだが、いかがでしょうか。
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